その1
帰路をうつむきながら、ゆっくり歩く。この時間でも大分明るくなったが、まだ夏ほどには至らない。
(バーカ)
(クスクス)
(あっち行ってよ)
(キモッ)
(こっち見んなよ)
(死ね)
頭の中で目まぐるしく回る。私は必要ない人間なんだ。だから、だからもう死のう。
時折車が通るほどの閑静な住宅街に、足音が響く。途中すれ違った自転車を避けて、家に着いた。
鍵を開け、黙って中に入る。私は一人っ子で、両親は夜遅くまで共働きしているから誰もいない。どこにいても孤独は続いているのだ。
二階に上がり、通学バッグを置いて、すぐさま細い紐、床に放り投げられるようにあった電気コードを掴んで首に一巻きした。首吊りをしたいが、方法が分からない。だが、これで、もうあの耐えがたい孤独と、いじめから抜け出せる。そして、私という存在が消えるのだ。
両側にぶら下がった電気コードを両手で持ち、思い切り引っ張った。何の無念もない。首に痛みが走るが、途中で止めないように必死だった。
(リコ……)
ふと、母親の優しい声が脳裏に響いて、手を緩めそうになった。家族の団欒は殆どないものの、両親のことを思い出すと、涙が零れた。
いけない、いけない、騙されちゃ駄目だ、と、私は電気コードを引っ張り直した。やがて息苦しくなり、視界がぼやけ、耳まで遠くなってくる。
これで、いいんだ。
けれど、なかなか意識が無くならない。私は苦しさと勝負することになった。力を入れた手が緩んでくる。
「はあー、仕事めんどくせえ」
電気コードが下に落ちた。
目の前には、こちらに背を向け、気持ち良さそうに背伸びをする金髪の少年がいた。
「なんだ、この世界は空気が悪いな」
きょろきょろと目を動かしながら、白い半袖Tシャツに長ズボンといった楽な服装をしたその少年は、後ろにいる私の方に振り返った。
私はポカンとして、口が半開きになったまま少年を見た。何故自分の部屋にいるのか、などと疑問に思うどころか、何が起こったの、という感じで、訳が分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
その様子を見た少年は、
「おい、何やってんだよ!」
と咄嗟に首に巻かれた電気コードを解いた。
「あざが出来てるじゃないか。こんなことしたら死んじまうぞ。何があったんだ」
どうやら首を絞めた痕が出来たらしい。
「言えよ。俺は味方なんだから」
味方? そんなものは私には存在しないはず。それなのに、この少年は私の汚らわしい肩を両手で握り締め、茶色い瞳が真剣に語りかけてくる。大体にして、金髪という時点で不良に決まっている。何が目的なんだ、自殺の邪魔をして。それに、一体何処から部屋に入り込んできたのかが知りたい。
すっと少年は両手を離し、姿勢を正して私の目を改めて見た。
「いきなり、悪かったな。何の説明もしないで。俺、ミシェンっていうんだ。『サーベスティア』っていう世界から転移術を使って来たんだ。君は? ここって、何て言う世界?」
テンイ、ジュツ? サー……なんとか? さっぱり意味が分からない。
「急に言われても分からないよな、ハハ。とにかく、異世界から来たんだ」
ずっと暗い顔をしている私に、明るく意味不明なことを話し続ける、ミシェンとかいう少年。異世界から来るなんて、そんな超常現象が本当に有り得るのか。顔立ちも日本人のようだし、頭がおかしいのではないだろうか。
「……リコ」
「えっ?」
「リコ」
私は一応小声でそれだけ言って、目線を下に逸らした。この世に必要のない人間の名前なんか教えて、何になるのだ。
「名前、リコって言うんだ。教えてくれてありがとう」
え、ありがとう? 名前を言っただけでそんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
いやいや、きっとこれは罠だ。そう言って、後で罵るに違いない。私はそう確信した。ミシェンはニンマリとしている。
と、急に真面目な顔つきになって言った。
「それにしても、随分と訳有りのようだな。リコのこと、この世界のこと、もっと知りたいし……。あ、せめてこの世界の名前だけでも教えてくれない?」
一体ミシェンは何を思っているのだろう。私のことをもっと知って、いじめるつもりなのだろうか。この世界のことをもっと知って、笑い転げるのだろうか。
私はまた、小声で言ってみることにした。
「地球の、日本」
どっちを言ったらいいか微妙に分からない。
「チキュウのニホン、か。チキュウっていう星で、ニホンっていう世界?」
「うん」
ちょっと意味が違うような気もするが、面倒な話にはなりたくないし、そういうことにしておいた。
ミシェンはまたニンマリして、
「なあ、俺の世界に来ないか? 話せない事情も話せるようになると思うし、もっと一緒にいたいからさ。どう?」
話が非常にややこしくなってしまった。私が異世界に行く? それに、初対面で一緒にいたいって、こんな屑人間なんかと一緒にって……。
でも、よくよく考えてみれば、毎日のあの地獄から逃れられて、その世界、サーなんとかで何かあっても、すぐに自殺すればいいのだ。両親だって、遠い存在になるのだから、死ぬ時も楽になるだろう。
決心は固まった。
「行く」
「本当か!? それじゃあ、しばらく帰ってこれなくなるから、挨拶に行って来いよ」
「そんな人、私にはいない」
「え」
ミシェンは不思議そうに私を見つめる。それは当然だ。普通なら、友達がいる。母親だって働いていなければ、家にいるのだから。
「本当に、このまま出発していいのか」
黙って頷いた。
「あ、靴履いて」
行く先は外なのか。私は言われたとおりに、いつも履いている靴を玄関から持ってきて、履いた。抵抗があったが、私の部屋なんて少々汚れてもいい。
「それじゃ、俺の腕をしっかり掴んでいろよ」
そう言って、ミシェンは左腕を腰に当て、私が掴みやすいようにした。
男の腕に掴まる!? そんな恥ずかしいこと、出来る訳がない。それよりも、私が触ったら汚れるんでしょう? 腐るんでしょう? 私の頭の中は大混乱している。
「何やってんだ、早く掴め」
急かすミシェンに私はもたもたしていた。この人物は一体何者なのか。私を肯定し続けているようだが、陰ではどう思っているのか全く分からない。あのニンマリとした顔は、本物なのだろうか、偽物なのだろうか……。
「早く! 行かねえのか?」
ミシェンが五月蝿い。確かに私はこんな世界にいたくない。この五月蝿い男の世界ってどういうものなのだろう。
私は、えいっとミシェンの腕を右手で掴んだ。
「両手で」
指示通り、左手も添えた。
「じゃあ、チキュウのニホンから、サーベスティアへ、転移!」
ミシェンは真剣な表情をして手を組んだ。私は目を瞑った。