殺人事件
何と言う事だ。
思いながらH氏は、地獄のとげとげしい地面を踏みしめた。
H氏は殺人の現場を目撃してしまった。犯人は確か深緑のジャンパーを羽織り、ズボンは紺色のジーンズだった。この暑いのにジャンパーを着ていたから、よく覚えている。しかしH氏はそのあと、その人物に殺されてしまい、こうして地獄にいるのだった。
地獄はまさに地獄だった。地獄絵図などと言うものがあるが、それよりもさらに地獄だった。こんなことなら悪いことなどしなければよかった、とH氏は呟いた。
実は、H氏も人を殺した事があったのだ。それも二人。そして殺人犯に殺された。地獄の裁きと言うやつだろうか。
目の前にそびえ立っているのは、三メートルはあろうかという巨躯の鬼だった。赤くて角が一本だから、所謂『赤鬼』と言うやつだろう。しかしまさか、こんなに大きいとは思ってもみなかった。
地獄の迫力は凄まじいものだった。何しろすべてが大きい。遠くに見えているのは『針山』と言うやつだろうか。富士山など屁でもないような大きさだ。恐らくはエベレスト級か、それ以上だろう。
鬼もまた大きい。子供のころは、鬼など大したことは無いだろうなどと思っていたのだが、こうして対峙してみると、それはそれは恐ろしいものだった。
鬼は言った。
「お前は地上で二人の人を殺した。それは天界の規定から言えば間違いなく地獄行きの重罪だ。――が、私とて鬼ではない」
鬼だろうとツッコミそうになったがH氏はぐっと飲み込んだ。
「一生ここで鍛錬しろとは言わん。改心したらまた六道輪廻の流れの中に戻してやろう」
しかし、それまでの道のりは厳しそうだ。H氏は漠然と、そんな事を思っていた。
事実、それは厳しいものだった。まずは釜ゆで地獄。巨大な釜に入れられ、ぐつぐつとゆでられる。これで腐った心をほぐすのだとか。
続いては舌抜き地獄。H氏は舌を抜かれた。これで殺された者たちの痛みを味わわせるのだとか。
さらに針山地獄。一万メートルはあろうかという巨大な山に針が大量についている。それを何の装備もなしに登ったり下りたりする。これで歪んだ心に『良心』と言う名の毒を送り込むのだとか。
その後も様々な地獄を回らされた。それは何かの本で読んだようなものもあったし、初めて耳にするものもあった。
こんなことをいつまで続ければいいのか。何故自分は、二人もの人を殺してしまったのか。あの痛みは忘れない。死ぬ直前に味わった、電車にはねられる重い衝撃だけは。
深緑のジャンパーを羽織り、紺色のジーンズを穿いたH氏は、密かに思うのだった。
つまるところ、H氏の目撃した殺人は自分の犯行で、一人目は被害者、二人目は自殺でしたよー、ちゅう話です。