発動
主題歌付きです。町をおそったゾンビとヒーローとの戦いが、一人の女性の目を通して描かれています。
滝フタバと入れ替わるように、コーヒーパーラー『ライフ』に、バンドマン毅がふてくされた様子で、入ってきた。
バンドマン毅の体からは、憤懣の蒸気が噴き出していた。
怒りの感情というのは、バンドマン毅にしては珍しいことであるのだが、けっこう本気で怒っていた。
「いままで、滝さんとかいう人のお家で、ゾンビの片付けをやらされていたんですよ。たまらない仕事でした」
「……」
バンドマン毅は、自分の憤りが理解してもらえたかどうか、マスターの顔をチェックしてみた。なにやら、思いにふけっていたそうで、心ここにあらずという様子だった。で、バンドマン毅は、独り言みたいになったが、語るのをやめなかった。
「なぜ、ああいう嫌な仕事になると、うちの会社『クリーンスタッフ』がとっちゃうんだろうね。そして、その嫌な仕事が必ず俺に回ってくるというのにも、作為を感じちゃいますね。俺が、毎回巨大ネズミの死体処理をやっているからって、ゾンビの死体の処理を命じられかなぁ?」
「……」
「せっかくの休みだから、本腰入れてバンドの練習に励もうとしていたのに……そんなときに、何で俺が、ゾンビの死体処理なんだよ。それにしても、嫌な臭いだ」
ゾンビの死体処理をすませてコーヒーパーラー『ライフ』にくるまでに、ゾンビの死体処理でバンドマン毅の体に染みついた臭いがまったく抜けなかった。それどころか、ゾンビ臭はさらに濃密さをまして自分の周りに漂うように感じられた。
――そんなはずはないのだが……
バンドマン毅は、思った。
そして、ゾンビのたたりか、バンドマン毅の体調が、にわかにおかしくなった。バンドマン毅は、コーヒーを注文すると、トイレに直行し、トイレに、長くとどまったため、マスターは、コーヒーを淹れ直さなくてはならなくなった。
トイレから出てくるとバンドマン毅は、ふと、窓から通りやさらに遠方の様子を眺めた。ふと、バンドマン毅がつぶやいた。
「いやな風が吹き始めて、遠くの雲が稲光で輝いている。ひと嵐吹きそうな予感がしてきたよ」
バンドマン毅の嫌な予感は、見事に的中した。
ちょうど同じ頃。たけしの怒りが、頂点に達していた。
「ヒーローもののTV番組でよくある、ほら、ヒーローとヒロインのイチャイチャシーンそのまんまじゃないか。滝クルミちゃん、いったい俺のことはどうなったんだ!」
たけしは、読んでいた女性週刊誌を横に引き裂いた。そして、投げ捨てた。たけしの頭の中は、イケメンアイドル、一之条隼人と美人アイドル滝クルミの熱愛記事のせいで沸き立っていた。たけしは、もう一度、同じ女性週刊誌を購入した。なんとか冷静を保って、その記事を熟読玩味してみたが、自分と滝クルミの未来は全くないことが判明した。
――こいつら、結婚しそうだぜ!
たけしは思った。
「世界征服計画、バベル大作戦を発動する」
まもなく、たけしは、宣言したのだが、それは、自分を裏切って一之条隼人に走った美少女アイドル、滝クルミへの復讐でであった。その発端となったのは、たけしの、美少女アイドル、滝クルミに対する一方的な恋愛感情であった。
町には、サイレンがこだまし、ゾンビの雄叫びと、今回出現したゾンビたちの行動が、秩序がとれていることに、町の人は驚き、それゆえ、これから、何かとんでもないことが起こるのだと思った。
時報や、町内放送を流している町内放送や、商店街の普段はBGMが流れるスピーカーから、臨時ニュースが放送された。
『町のみなさま、安心してください。ヒーローズアカデミーから、頼りになるヒーローが町のみなさんのために派遣されることになりました。ヒーローは、ゾンビたちに好き勝手なことはさせません。みなさんの財産や命を守ってくれます。ヒーローたちの尊い勇気に感謝いたしましょう』
* *
高見沢治美は、以前から、このようなことが起こるだろうということは、予想していた。これは、世間で言うようなゾンビテクノロジーVS.パワースーツという単純な問題ではないのだ。本当は、もっと根深い、奥深いところに問題があったのだ。
なぜ、そういうことが言えるかというと、高見沢治美は、たけしとは、昔一緒に旅を続けていた『仲間』であったからだ。高見沢治美は、たけしが母親のお腹にいる頃から、たけしのことを知っていた。そして、もちろん、たけしの双子の兄弟のことを良く覚えている。
たけしが生まれてから、たけしが他の子供たちに混じって遊べるようになるまで、高見沢治美は、たけしとたけしの双子の兄弟の子守役を仰せつかっていたからである。高見沢治美はそれから、『仲間』たちから離れた。たけしは、日本で育てられることになったのだが、双子の兄弟は、父親である褐色の肌を持つ魔術師が、世界文明発祥の土地でもある中東のとある国へ、つまり、父親の祖国へ彼の父親によって連れて行かれたのだと、高見沢治美は、聞いている。
たけしは、碧眼のヒョロヒョロとやせた背の高い少年であった。髪はブロンドで、手櫛で無造作に、長い髪をかき上げる癖があった。たけしの双子の兄弟は、褐色の肌で、暗い色の目をしていた。
たけしは、同行の『仲間』がサーカス団の一員に加わって、全国を回って暮らしていたが、たけしの母方の実家に帰された。『仲間』の長老が、たけしのためには、一カ所に落ち着いて、教育を受けることが望ましいと考えたからである。たけしは、母方の実家があるこの町に一人でやってきた。たけしは、河川敷の堤に向かう通りにあるしもた屋の本屋に戻ってきた。
なんと奇遇なことであろうか? 高見沢治美は、たけしだけでなく、たけしの双子の兄弟とも、極東に位置する、日本のしかもこの町で再会することになったのである。高見沢治美は、まず、祖母のうちに引き取られたたけしと再会した。高見沢治美がこの町にやってきて五年が過ぎた頃である。そして、2年後、たけしの双子の兄弟と再会することになった。たけしの双子の兄弟は、転校生として、たけしのクラスに編入してきたのだ。
高見沢治美とたけしとたけしの双子の兄弟は、旧交を温めることになった。そして、兄弟のようなつきあいがまた、復活した。
たけしは、当時、自分のことについてはあまり語りたがらなかったのだが、高見沢治美から、自分たちの『仲間』や、『仲間』の歴史や、『仲間』の運命に聞くのが好きだった。高見沢治美は、たけしにも、たけしの双子の兄弟にも、知っている限りのことを話して聞かせたのだが、すぐにネタが切れてしまった。しかし、たけしとたけしの双子の兄弟は、同じ話を何度も何度も話してくれるように高見沢に頼んできたのだ。
「H.A.L.は、高見沢治美ではありません。H.A.L.は姿、形は、日本人であるかもしれないが、心は私たちと同じ者であるのです。私たちと少しも違いません」旅の『仲間』には、高見沢治美は、そう教えられてきたし、高見沢治美も、そうと信じてきたのです」
* *
たけしは、今度の事件を起こしたとき、まだ、少年であったのだが、すでに、『仲間』の特性が、その行動や、容姿や仕草の中に現れていた。
たけしは、コーヒーパーラー『ライフ』のお気に入りの席に、つくと、うたた寝を始めた。そんな時、たけしのため古い、古い時代のジャズがかかっていた。なんどもなんども、同じ、フレーズが繰り返される。壊れたレコードのような演奏だった。
『じんた』? そういえば、そういうタイプだったかもしれない。
かって、全国を『仲間』と移動していた時代への郷愁を呼び覚ますのであろうか。たけしは、このタイプの演奏を好んで聴いた。
たけしは、その騒々しい音楽を聴きながらうたた寝した。そんなときの表情は、彼の年齢にすれば似つかわしくない老成した表情であった。
たけしというのは、なぜか分からないのだけど、始終いらいらしているところがあった。そういうところが、ほかの子供とは違っているのですが、たけしがが何かに夢中になると、普通とは変わらない集中力が戻ってきたものだ。時には、その集中力が尋常ならぬところまで高まっていくことさえあるのだ。
『仲間』たちというものの最大の特徴は、血液の臭いと、死の臭いに対する臭覚であった。
『仲間』たちには、概して、早死の傾向があった。というのも『仲間』たちは、そろいもそろって大酒飲みで、愛煙家で、スピード狂で、喧嘩好きだったからである。
あとで、いろいろ整理してみると、面白い共通点が存在していた。
『仲間』は、血の臭いに敏感なのだ。
そして、『仲間』は血の背後に潜む、死の臭いにも敏感なのだとは、どういうことなのか、わかりやすくいえば、それは、人にとりついた死神が見えちゃうことなのだ。『仲間』がこの人死んじゃうと、感じれば、その人物は、その時は、元気いっぱいであったとしても、まもなく、天に召されることになるのである。
もちろん高見沢治美にも、同じような特性が備わっていた。彼女の臭覚も屍臭に活発したものだった。
高見沢治美には、この数日まとわりついて離れない屍臭があった。
――私の知っている誰かが死のうとしているのかしら? でも、いったい誰が死のうとしているのかしら?
高見沢治美は、その屍臭がどこから湧き出しているものなのか、気になって仕方なかった。
高見沢治美が女性週刊誌を持って、コーヒーパーラー『ライフ』に入ってきた。高見沢治美は、注文していたベータミンCを受け取りにコーヒーパーラー『ライフ』にやってきたのだ。コーヒーパーラー『ライフ』の店内では、異変を伝える臨時ニュース特番の放送を、バンドマン毅が心配そうな様子で、見ていた。マスターは、考え事をしている様子であった。
「それって、これと関係あるのはずよ!」
高見沢治美は、雑誌をバンドマン毅のテーブルに置いた。確信にみちていた。
バンドマン毅は、高見沢治美が、テーブルの上に置いた女性週刊誌を手に取ると、むさぼるように読み始めた。
バンドマン毅は、「なるほど! でも、そんなことって……」と、つぶやいた。
バンドマン毅の大きな声は、彼の驚きを表していた。
「恋愛の情熱という者は、とても大きな力があるますね。あの物静かな少年をこのような大胆な行動に駆り立てるのですから」
バンドマン毅は、柄にもないことをつぶやいた。そして、バンドマン毅は、後ろにいた高見沢治美の方を振り向くと、言った。
「高見沢治美さん、どうしてそんなに落ち着いていられますか。僕は、この事件に関しては、冷静ではいられません。まさか、滝フタバが……。高見沢治美さん、あなた、現場にいて、事件に立ち会っていたとかいうのじゃありませんよね」
* *
高見沢治美は、この事件の発端をもっとも直接的に目撃した人間の一人だった。
高見沢治美が、その日コーヒーパーラー『ライフ』に立ち寄るまでの次第は次のようなものであった。
その日の朝、高見沢治美は、いつものように、彼女が勤める会社『クリーンスタッフ』に早めに到着し、発声の練習を始めたのだ。高見沢治美は、自分の声がどこか本調子でないような気がした。
それは、歌って踊れるし、演技もうまいアクションスターを目指す高見沢治美にとっては声の問題は、他人には些細なことでも、本人には一大事であった。
高見沢は、会社が終わって、コーヒーパーラーに行く前に、コンビニに寄り、飴でも買っていくことに決めた。
「声の状態が大事にならないうちに、まず、先手を打つことが大事。私の美声に傷が入れば、私は一生後悔することになるわ」
高見沢は、そう思ったのだ。高見沢は、コンビニでたけしとそして、事件に出くわしたのだ。?
高見沢治美は、その時の様子をちょうど見せにいたバンドマン毅に話したのだが、それをまとめるとつぎのようになる。
「たけしが、この週刊誌をコンビニで食い入りような目で立ち読みしていたの。その顔がとても恐かったわ。たけしは、立ち読みを終えると、たけしは、なにかつぶやいていた、そして、読んでいた週刊誌を二つに引き裂いたのよ。たけしの足元には、引き裂かれた女性週刊誌が何冊分か落ちていた。たけしは、コンビニを出ていったの。女性週刊誌以外なにも買わずに。コンビニを出るとき、たけしの顔を見たの。たけしは、泣いていたのよ」
「すると、ゾンビが、一匹、一匹とあらわれはじめたの」
高見沢治美は、続けた。
「たけしが、ゾンビを呼び出したとすぐに分かったわ」
そこに、博士やたけしの仲間らしい子供が駆けつけてきて、たけしを必死で止めたの。
『たけし、やめなよ!』
とか、
『時は、まだ満ちてはいないんだよ』
そう言って、たけしをいさめようとした。
ベータミンDで、まだいくらでもゾンビを呼び出し、ゾンビ兵に変えられるとたけしは豪語していた。そして、集まってきた博士や、仲間の子供たちについてくるように命令した。たしかに、たけしが世界征服という言葉を発したのは、けっして、大げさではなかった。
呼び出されたゾンビたちの動きの中には、なにか規律というものが保たれていていて、優秀な軍隊を思わせた。そして、ゾンビたちの数が、みるみるうちに増え、通りという通りはゾンビであふれかえった。誰かが、ゾンビに命令を送っているということが分かるような気がした。
子供たちや博士が、高見沢治美がいるのに目をとめ、たけしを押しとどめるのに、高見沢治美が、手を貸してくれるのかという期待のまなざしを彼女に向けた。しかし、高見沢治美は、それを気づいてはいたが、たけしのことは、ほっぽっていくことに決めていた。というのは、もっと大事な用件が、高見沢治美にはあったのである。彼女の心に取り憑いて離れない屍臭の問題と関係があった。
* *
高見沢治美は、その日コーヒーパーラー『ライフ』にやって来て、マスターの様子がとても気にかかった。世間でこのような大事件が起こっているというのに、マスターは、なにか、上の空という様子で、降って湧いたゾンビ兵や、高見沢治美にはまったく関心を示さなかった。その日のマスターの様子が高見沢治美を不安な気持ちにさせた。というのも、数日前に、マスターは、ある心配事を高見沢治美に打ち明けていたからである。それは、マスターのところへ届けられていたベータミンCの供給が、今度打ち切られてしまうかもしれないというものだった。ということで、高見沢治美は、マスターの不可解な様子は、ベータミンCの供給ストップによるものと考えていた。ところが、実はちょっと違っていた。
マスターは、謎に満ちた訪問客、滝フタバがコーヒーパーラー『ライフ』を出て行った後、しばらくは、自分の興奮が収まるのを待った。でないと、なかなか、思うように記憶が働かないのである。
呼吸が整ったのを見計らって、ある名前を思いだそうを集中した。
重大なことが起こったらしく、バンドマン毅と高見沢治美は、まじめな顔で話し合っていた。しかし、マスターはその話しに加わることはなかった。
やがて、高見沢治美が出て行った。
とてつもない役割を、仰せつかっていたことを急に思い出した。その役割というのは、まさに今実行しなければならなかった。
マスターは、博士とシンメトリックの依頼を受けて、コーヒーパーラー『ライフ』のマスターは地下の闇製薬会社にベータミンC、ベータミンDの生産を依頼・発注していた。
『そういえば、先ほどバンドマンたけしと高見沢治美さんが、たけしのことについて、熱心に話をしていた様子ですが、たけしがなにかしでかしたのだろうか』
そういう疑問が、マスターの頭にふと浮かんだ。
「たけし」
そして、どうやったら、彼と連絡が取れるのだろうか、と思った。マスターは、たけしから、名刺類などを受け取ってはいた。しかし、たけしは住所と連絡先の電話番号を頻繁に変更していた。そして、変更のたびに、たけしは名刺をおいて行った。名刺が、バラバラになっていて、ぜんぜん整理されていないのが分かった。そんななかで、お目当ての名刺を探すのは一苦労だった。
――いつから、こんなことになってしまったのやら。
マスターは、自分のことながらあきれてしまった。
気づいてみるとコーヒーパーラー『ライフ』の床上に、名刺が散乱していたのだ。
滝フタバがここに来る前に、一所懸命にたけしの名刺を探していたら、たけしの名刺が一気に数枚出てきたのである。滝フタバがきたので、それをしまう時に、ほか他の名刺と、いっしょくたに、してしまったのだ。マスターは、たけしの名刺をあつめると、はじから、全部、連絡を取ってみることにした。
名刺の束がバラバラになってしまった原因ははっきりしていた。
名刺をトランプのように、店のテーブルのひとつに並べて、自分が直面する問題の打開策を練った、どの名刺の順番で電話してみるか考えた。
「そうだ。なるほど、」
まだ時間に余裕があった。
――そう、まだ時間があるだろう。
テーブルの上の名刺であれば、ハジからかけていっても十分間に合うだろうと思った。
たぶん……。
闇の製薬会社から、とある情報がもたらされたときには、くるべき時がきたとマスターは覚悟を固めた。
実は、たけしと博士は、シンメトリックを裏切り、シンメトリックに内緒で、独自にベータミンDの開発研究を行っていた。
そして、有力ケミカル企業と提携して、ベータミンDの大量生産にこぎ着けたのである。
たけしと博士の裏切りに気づいたシンメトリックは、直接的に、たけしや博士と対立することを避けた。というのも、たけしと博士の背後にいる大きな力を恐れたのである。シンメトリックは、姿を隠した。
ベータミンCに関しても、大企業が生産に参入してきたために、闇製薬会社は、仕事が減ったと嘆いている。
それほどの権力というか、大きな庇護を手に入れたたけしと博士ではあったのだが、これだけはと、警告しておかなければならないことがあったのだ。
それは、シンメトリックの、たけしと博士の忘恩にたいする復讐の準備が整ったということであった。
マスターは、こうしてやっと我に帰った。そして、テレビで報じられるゾンビ騒動にたまげてしまった。
「ゾンビたちが、ついに、ここまで入り込んできたとは……」
テレビを見て、マスターはつぶやいたのだ。
マスターは、たけしに連絡を取ったあと、ようやく、苦しみもがく、バンドマン毅の姿に気がついたのだ。
* *
高見沢治美は、大柄の女で、やることなすことと、はなしっぷりはぶっきらぼうに見えた。思ったことは、何でも口にするタイプで、その言い方も、鋭い観察眼と、役者らしい脚色が効いた物言いだったので、言われた方はずしりと胸に応えた。しかし、そういう濃い個性の女性ではあるのだが、高見沢治美は、驚くほどに顔が広かった。岡寺ノブヨという占い師も、なんとか、高見沢治美にとりいって、その広い人脈の一端でも紹介にあずかれないものかと、いつも思っていたほどだ。
また、高見沢治美は、たけしのことを呼び捨てに出来る数少ない人間であった。他に誰がいるかというと、ちょっと思いつかない。たけしは、高見沢治美のことを『あねき』と呼んでいた。
高見沢治美は、ドレミヒーローこと、江上洸一ことの住まいに向かっていた。そして、河川敷を通りかかった。
ほんの数日前、たけしは河川敷にいた。たけしの『仲間』たちの子供たちで賑わっていた河川敷である。その時には、こんな事件を起こしてしまうなんて想像もつかなかった。たけしは、回りの人たちにも、非常に平安な印象を与えてしまっただろう。
犬、二匹がスパイの役割を担って、たけしたちにくっついて遊んでいたという、河川敷。子供たちと犬が、大声を出して、かけてまわっている牧歌的な景色に巡り会うことが出来た。しかし、今こちらの地域ではゾンビの発生は見られないものの、親も子も、避難の準備を済ませ、家や避難所にこもっていた。
「予定が狂っちゃったみたい。困ったわね」
高見沢治美は、不安そうにつぶやいた。
* *
高見沢治美は、たいていのことは、思い通りになるが、なかなか思い通りにならないことがあった。ドレミヒーローとその妻、奈津のことである。高見沢治美は、ドレミヒーローこと、江上洸一やその妻、奈津ととても仲良しであった。しかし、高見沢治美が、どんなに頑張っても、ドレミヒーローと奈津に取り憑いてしまった貧乏神というか不幸が、なかなか抜けようとはしてくれないのである。これだけ応援しているのに! ドレミヒーローと奈津に関してだけはなかなか幸せには、なってくれそうにない。高見沢治美は自分の力のなさを痛感していた。
高見沢治美は、コーヒーパーラー『ライフ』をでて、直行で、江上洸一の住まいに向かった。着いたのは、日が暮れかかった頃であった。
高見沢治美は、今回の出撃前に、ドレミヒーローにひとこと言ってやりたいことがあった。でも、こんなに急に事件が起こってしまって、すっかり予定が狂ってしまった。
「ドレミヒーロー、出撃しちゃったかなぁ? でも、行ってみよう」
ドレミヒーローこと江上洸一の住まいを、手短に表現すると、『木造モルタル二階建て、台所便所共用、風呂なし』の古風なアパートであった。アパートには、十部屋があり、間取りは、六畳と三畳の二間で、一応の生活用具以外は、ほとんど何もない部屋であった。落とし便所で、土間の炊事場にはコイン式のガスコンロが三台備えてあった。
アパートの名前は、『東風荘』と言った。
河川敷の堤で待機していたドレミヒーローに、一度、自宅に戻ってみるようにと、本部から指令が入った。『東風荘』に戻ってみると、入り口の引き戸の前に、立っていたのは、扉にたっていたのは、クリーンスタッフの社員。高見沢治美。高見沢治美は、昔、ドレミヒーローってヤツに、命を助けてもらったことがある。だから、ドレミヒーローに恩にきている。だから、ドレミヒーローと彼の妻、奈津の面倒をあれこれと見ている。
* *
先ほど、高見沢治美が、河川敷の堤を通りかかった頃、ドレミヒーローこと江上洸一は、同じ堤少し離れたところで苦しそうに咳をした。
咳が止まらない。しかも、ゴホゴホゴホ、雑音耐性の低い妻、奈津が、隣にいて、この咳で目を覚ましそうだったので外に出ていた。夜勤明けの、奈津さんは熟睡中であった。そして、奈津さんは、寝起きが非常に悪いので、奈津さんには、別れを告げずにドレミヒーローは出撃することにした。
しかし、ドレミヒーローこと江上洸一が出撃待機の命令が下りてまもなく、招集がかかった。奈津は、嫌な予感で目が覚めた。そして、奈津は、夫であるドレミヒーローを追って、ゾンビがあふれる町中に飛び出していくことになったのだが……。
しかたがないから、夜型の江上洸一であったが、妻、奈津の睡眠の邪魔にならないように、早起きして、外に出た。そとは、まだ夕暮れ時だ。太陽残っていてが目にまぶしい。ゾンビ菌にとりつかれて以来、江上洸一は、太陽の光が嫌いになっていた。
河川敷を一望する堤の小道。江上洸一は、本部との待ち合わせ場所が指令により何度も変更になっていた。たとえば、堤、駅、そして、自宅などである。そこで、指令で、待ち合わせのために家に帰ると偶然、高見沢治美と出くわしたのだ。
江上洸一は何か、運命的なものを感じた。
「強い北風が身にしみる」
江上洸一は、咳き込んだ。
――ゴホゴホ。
「出撃しなくては……出撃命令が少し前に出たんだ。ことと次第では、コーヒーパーラー『ライフ』方面も危険だという話だ」
さらに、江上洸一は、はなしを続けた。
「そうでなくとも、コーヒーパーラー『ライフ』のマスター。あなたが勤めている『クリーンスタッフ』って会社のある同じ通り沿いの、あの店のそばの治安って悪くない? 物騒だよね!」
「ゾンビ相手の商売しているからね」
「そりゃ、マスターも大変でしょうね。ゴホン。」
* *
咳がひどかったが、それでも、その日、江上洸一は、比較的元気であった。
江上洸一も、コーヒーパーラー『ライフ』のマスターから、バンドマン毅の発病の知らせを受けていた。三年前に始まった不幸の連鎖は、さらに、感染が広がるかもしれないが、しかし、ドレミヒーローは楽観的である。彼は、夢だけは失わなければ満足なのかもしれない。
「はい、差し入れ。あんたたちなにやっているの、劇団の稽古をサボったりして」
高見沢治美は、差し入れの入っているバッグを持ち上げて見せた。
ドレミヒーローは、高見沢治美がもってきた差し入れの中身を察した。ドレミヒーローには、よろこびの表情が浮かんだ。
高見沢治美は、ベータミンCがドレミヒーローの出撃に間に合ったことがうれしかった。
そこに、ヒーローズアカデミー本部から、ドレミヒーローに連絡が入った。
「ちょっとお待ちくださいね。ドレミヒーローはどこにも逃げません。ゴホ、ゴホ、ゴホゴホ……」
* *
高見沢治美は、ナンチャッテヒーローが、没落していく姿を見てきた生き証人でもある。それにしても、この没落について考えるたび、なぜか江上洸一という男がよりによってこの悲劇の犠牲とならなければならなかったのか理解できなかった。
高見沢治美は、また、クリーンスタッフでの同僚であるバンドマン毅が、どうも、江上洸一と同じゾンビ菌に感染しているらしいという連絡を、たったいま、コーヒーパーラー『ライフ』のマスターから受けた。江上洸一のゾンビ菌は、絶対に人には感染することはないと聞いていた。
――ゾンビ菌がいつ感染能力を獲得したのだろう。
この知らせは、高見沢治美にとってショックであった。
* *
高見沢治美は、ドレミヒーローのアパートで、屍臭の発生源を特定したと、思った。でも、次の瞬間には、勘違いと思った。この湿っぽい建物のアパートに来ると、よく、屍臭を感じたような錯覚におちいるのであった。
――ひょっとしたら
――しかし、
――でも、どうして?
――クスリがなくなったとしても、私がどうにかしてあげるのに! 私はいろんなコネを使えるんだから、私を甘く見ないで!
高見沢治美は、心の中でつぶやいた。
「いつもご迷惑かけてすみませんですね。具合が思わしくないもんで……」
江上洸一は、いつもの通り情けない様子である。こういう情けない態度がかえって、よけいな不幸をドレミヒーローに呼び寄せてしまうのかもしれない。そう、高見沢治美は、思った。
「ねぇ、まじめな話してもいい?」
高見沢治美の表情は、真剣さに満ちていた。
「会えないかと思ってたけど、出撃の予定が遅れたおかげで、会えて良かった。ドレミヒーロー、あなたにひとこと言っておきたいことがあったの」
「私、あなたが、子供たちから追いかけ回されているのをぐうぜん目撃しちゃったよ」
「ヒーローごっこですか?」
「ごっこじゃなく、なにか、あなたの顔には、獣たちに狩られている切迫感があった」
「……」
「ねえ、ヒーローって、そんな苦しい思いをしても続けていかなければならないものなの?」
「僕を待ってくれる子供たちがいる限り僕がそれをやめるわけには行きません。それについては、過去のヒーローたちが表明したのと全く同じ考えです」
「そう、あのころは、お天道様の下でも平気でした。最近は、ゾンビの病がずいぶんと悪化してしまったものですから、お天道様は、本当に苦手になってしまいました。ですから、夜しか活動ができないんです。これが本当のナンチャッテヒーローって言うヤツですね。本物には戻れない」
「ゴメンなさいね」
高見沢治美は、おせっかいが過ぎたと感じた。
「これも、仕事ですから……」
「そういえば、三年ほど前に変わったことが起きました。あのときの結末はいったいどうなったのかしら……」
高見沢治美は、急にそんなことを言い出した。というのも、
「どちらに運が転んだのか。知りたいけれども、今となっては知りようがない。そのように思われます。だって、いまはあの頃とは違った世の中になってしまった」
からである。
仕事中に高見沢治美は、見てはいけないものを見てしまった。とつぜん、仕事場にゾンビが現れて、仕事仲間のかわいらしい娘を襲ったのである。
それ以来、その娘は仕事に来ていない。故郷に帰ったのだと、会社のひとは説明してくれるのだが……
――そりゃぁ、嘘だろう。
高見沢治美は、思った。
ゾンビを目撃したこと、高見沢治美は、自信を持って言えた。高見沢治美は、まわりの人間たちの白々しい嘘に、警戒心を持った。
高見沢治美は、ゾンビのことについては、他人と軽々しく話すべきではないと思った。
――だって、だれにも、理解してもらえないもの。ナンチャッテヒーロー以外には……
――そして、だれもが何かを隠している。その本当のところを調べ上げてみせるのだ。
高見沢治美は、決心していた。
「あのアルバイトの女は実際に存在したはずである。しかし、そんな女性はいなかったという。なにを隠そうとしているのかしら……」
そのころ、ナンチャッテヒーローの役でテレビに出ていた、江上洸一に、高見沢治美は、訴えた。
すると、ナンチャッテヒーローは、真顔になって答えた。
「ついに、すべての謎を解明する最高のチャンスが訪れた。一連の失踪事件に関わりのある人物をついに特定できたのです」
「話を聞くと、奇襲攻撃の最高のチャンスであるらしかった。ナンチャッテヒーローのこの行動は奴らは全く予期していないだろう」
ナンチャッテヒーロー、江上洸一は断言した。しかし、ナンチャッテヒーローの思惑は見事に外れた。
「あの時俺がこんな病気にかかりさえしなかったなら、すべての問題は、解決できていたはずなのに……」
ドレミヒーローこと江上洸一は、いまでも愚痴を言っている。
* *
行商の豆腐屋のラッパが、信じられないくらいの数の豆腐屋のラッパが、町のあちこちで鳴り響く。豆腐やたちは、ヒーローズアカデミーの準会員で、ドレミヒーローの出撃を町に知らせた。
ドレミヒーローの声は、次第に変わり、そして、力強さが増していった。そして、その声は、河川敷に響き渡った。
ドレミヒーローは、出撃司令のプリントアウトをポケットから取り出すと音読を始めた。
江上洸一にも、輝いていた時代があった。ドレミヒーローは、『ナンチャッテヒーロー』の時代にやってきて、出撃までの手順を、ドレミヒーローとなった今日でも、きちんと守り続けているのだ。
(セリフ)
昔はアイドル~、『ナンチャッテヒーロー』♪
夢見てヒーロー
僕らのヒーロー
ヒーロー♪、ヒーロー♪
大人を見つめる目。
絶対に裏切ってしまうことのないように。
正義が、何者にも勝ると言うこと。
あっと驚く出来事であること。
それは、夢を持つことなのです。
忘れないでいてほしい。
耐えて戦い! つかむぞ!
僕らの未来。
『ナンチャツテヒーロー』
魔法の本を手に入れるまで~♪
ドレミヒーローがいつもの決めセリフを言い終えて、戦いに向かおうとしていると、とある民家の窓が開け放たれた中から、懐かしい『ナンチャツテヒーロー』の主題歌が聞こえてきた。
『ナンチャツテヒーロー』とは、ドレミヒーローこと、江上洸一がタレント時代に主役を演じたアクションTVドラマであった。
『ナンチャツテヒーロー』主題歌
1
夕日に輝く 摩天楼
あいつが正義~ 最後の砦
ウエイトキック スーパーバスター
繰り出す ヒーロー
僕らのアニキ
ナンチャツテヒーロー!
ナンチャツテヒーロー!
ナンチャツテヒーロー!
夢がある!
2
耐えてつかむぞ 勝利のV~!
守れ! 僕らの理想郷!
町にはびこる
デーモン ゾンビ
悪いヤツらに負けないぞ
ナンチャツテヒーロー!
ナンチャツテヒーロー!
ナンチャツテヒーロー!
君がいる!
3
N のマークに込めたる
誓い! 輝け 正義・!
いつかは、つかもう
本当の 勇気
父さん・ 母さん・
マドンナさん!
俺のふるさと 守り抜く
ナンチャツテヒーロー!
ナンチャツテヒーロー!
ナンチャツテヒーロー!
僕がいる!
* *
しかし、ドレミヒーローと待ち合わせている『ワンワン司令』という、二匹づれのロボット犬が姿を現さなかった。
非常事態で、家や避難施設に閉じこもっているように強制されていた子供たちが、エネルギーを持て余していた。彼らは、『ナンチャツテヒーロー』の主題歌が町に鳴り響くと、河川敷の方にやってきた。
それにつづいて、子供たちが、『ナンチャッテヒーロー』の替え歌を歌いだした。その内容は、ドレミヒーローの黒歴史を揶揄 するようなものであった。
「ゾンビとの戦いの中で起きた忌まわしい事故!」
「ゾンビを求めて、裏道。表道」
「敵を求めて、裏道。表道」
替え歌には、『ワンワン司令』という、二匹づれのロボット犬も登場した。
「困ってしまってワンワンワンワン」などと歌われた。
また、
「貧しさ故に、『ナンチャッテヒーロー』のズボンが落ちる」
「ある時は、スッポン太郎」
などというドレミヒーローについてのディープな知識に基づく様なものもあった。
何度も繰り返すようで申し訳ないが、念のためにもう一度確認しておきたい。
今回のゾンビについては、世の中で、正反対の評価が存在していた。
しかし、ヒーローを取り巻く環境は、この一年くらいで極端に変わった。パワースーツを着たヒーローは、どんなヒーローだって、子供たちから、絶対的な尊敬を勝ち得ていたのに、いまでは、そうでもなくなった。たとえば、ゾンビが大好きとかいう子供がいても、それが理由で、いじめられるというようなことはなくなった。
その一方で、ヒーローによっては、権威が著しく失墜し、子供にバカにされるようなヒーローもでてきた。
ゾンビに
ドレミヒーローのように、
地位が非常に高いのに、子供にバカにされている存在がうまれつつあった。
子供たちの妨害を退けて、自分の仕事を成就することができるのだろうか。
ドレミヒーローは、『ワンワン指令』が到着するまで、ドレミヒーローは待機するように命じられていた。
ドレミヒーローは、無抵抗で、子供たちの悪さに、晒されることになった。
高見沢治美は、堤から河川敷の方に駆け下りていくと、ドレミヒーローを冷やかすために集まっていた子供たちを追い払おうとした。
高見沢治美は、子供たちを追い回し、ふざけているように見せかけて、パンチやキックを悪ガキどもに見舞ったのだが、子供たちの騒ぎはなかなか収まらなかった。高見沢治美は、 子供たちに根負けして、待機中のドレミヒーローのところに戻ってきた。
その時、警備中の警察官や自衛隊員たちが、騒ぎを聞きつけてやってきた。彼らは、子供たちを解散させた。
高見沢治美は、気まずい雰囲気をリセットしようと、なにか明るい話題を探してみた。そして、高見沢治美の劇団の活動の話を始めた。
ドレミヒーローこと、江上洸一は、高見沢治美の劇団活動の手助けをしていた。江上洸一は、テレビドラマの主役を仰せつかったこともあるので、高見沢治美も、とても頼りにしていた。 * *
「うちの芝居に有力スポンサーがつくことになったのよ。江上さんのゾンビ役が話題だから」
江上洸一は、高見沢治美の仲間の芝居にも出演しているが、病のせいで、皮肉なことにゾンビの役がいたについてしまっている。
* *
この話題は、盛り上がらなかったので、高見沢治美は、話題を変えた。
今度は、ドレミヒーローの待ち合わせの相手の二匹のロボット犬『ワンワン司令』について、高見沢治美は、質問した。
「あの犬たちって、ずいぶん前から見かけるって言うけど本当なの?」
「本当です。普通の犬に見える毛皮外装の時と、ロボットらしい金属の外装の時があるのですが、中身は同じロボットなんですよ」
「さらにいうと、『ワンワン指令』の二匹の犬型ロボットは、スパイ犬の改良型の機種なんですね」
「いまから思えば、あの頃には、すでに、あのロボット犬というのは、子供たちの間に入っていた、というか、取り入っていた。そして、子供たちは、ロボット犬を使って、ゾンビ狩りをやっていた。私は、まさか、ゾンビ狩りで、狩られるとは思ってもみなかった」
ドレミヒーローは、自虐的な話し方をした。
「ゾンビ狩りといえば、わたしもやられかけたわ。私にも、ゾンビ的な要素があるのかもね。でも、あなた、……いや、ドレミヒーローが助けてくれた。あなたは、命の恩人よ。あれから、三年もたったのね」
「まだ、その頃は、ゾンビは、絶対的に悪でした。私の人生の楽しい思い出は、三年前で終わっています」
高見沢治美の努力にもかかわらず、ドレミヒーローの話は、暗いほう、暗い方に、進んでいきがちだった。
ところで、高見沢治美の話で、三年前に、ドレミヒーローこと、江上洸一が高見沢を助けた時のことが、思い起こされた。
「三年前、その子供たちの中で、ゾンビ遊びが流行ったことが、ありました」
「この町には、ゾンビが暮らしているそうです。そして、その人間に化けて暮らしているゾンビの正体を暴いてやろうという勇ましい子供が登場したのです」
「高見沢治美、あなたは、夕方であるにも関わらず、今から仕事と言うことで、通勤の途中でこの道を通っていたところでしたね」
「高見沢治美さん、あなたがいつもの通り、帰っていると、一人の男の子が、あなたを指さしましたね」
「それがゾンビ狩りだったのです。そこに、ナンチャツテヒーローこと、江上洸一が現れてかばってくれたのです」
高見沢治美は、あのときのことを、思い出すと感謝の気持ちでいっぱいになる。
「『あいつかよ』少年たちは、渋い表情を浮かべると、ロボット犬をけしかけるのをやめました」
高見沢治美は、いまのドレミヒーローにお礼を言おうとした。
「あの犬が、狙っていたのは、治美さん、あなたではなく、僕だったのです。しかも、あの犬たちとは、まもなく、切っても切れない腐れ縁で結ばれることになってしまうんですからね。人の運命というのは……」
と、江上洸一は言った。
「しかし、今回は、待たせるな」
ドレミヒーローが、渋い、険しい表情に変わった。
ところで、少しばかり、『ワンワン司令』という、二匹の犬について、話しておかなければならない。
『ワンワン指令』は、ドレミヒーローこと江上洸一との待ち合わせ場所を彼のアパートの『東風荘』だと勘違いしていた。そのおかげで、『ワンワン指令』とドレミヒーローとの合流がさらに遅れてしまった。
『ワンワン指令』は、『東風荘』に到着するとすぐに、江上洸一の部屋をノックした。部屋には、江上洸一もその妻、奈津もいない様子だった。隣の部屋の住人が出てきて語った話によると、やはり、江上洸一もその妻、奈津も留守にしていた。
高見沢治美は、予定よりずいぶん遅れて登場した二匹の『ワンワン指令』の背中に、『闇ベータミン撲滅キャンペーン』のキャンペーンシールが貼られているのを見つけた。
――これが、ドレミヒーローと下層ゾンビの切り捨て政策ね!
高見沢治美は、思った。
* *
ベータミンCは金になる。世間はその点に気づき始めていた。ベータミンCは、インディーズ薬品から、大製薬会社が次のドル箱商品として期待する製品へと出世しつつあった。
ゾンビと戦いながらも、ゾンビと同じクスリを必要としている江上洸一。
「だれが、流したのかしらあの情報。ベータミンCが特効薬だなんて……。どこからか、ベータミンCを大量に持っているという噂が立って、コーヒーパーラー『ライフ』に深夜、大勢のゾンビが押し掛けちゃって、並んでいるもんだから。変な名前で、ミスターシンメトリックとか言っていたな」
江上洸一は、こうみえてもも世間知らずのお坊ちゃま的なところは、若い頃からぜんぜん抜けていない。高見沢治美が、ゾンビ菌の薬と称して、ベータミンCを江上洸一に渡しているのだが、それがどういうものであるのか、どういう経緯で自分のところに来ているのか、まったく、興味を持たなかった。
江上洸一は、自分の病気やベータミンC以外についても、いろいろと自分なりの考えを大いに取り入れた独自の世界観を持っており、自分の周りに起こる出来事を解釈していた。
江上洸一は、自分、つまりドレミヒーローを、過去の偉大なヒーローと同列において考えていた。ドレミヒーローこそ、過去の偉大なヒーローたちと同じ墓に眠り、過去の偉大なヒーローたちと天国での再会を信じて疑わなかった。
こういう彼の哲学から、彼は、ヒーローという名前にもとるような行いだけはやらなかった。このことは、銘記しておくべきだ。
そのために、周りの人間が、手を汚していたかもしれないが、それには頓着しないタイプの人間であった。
江上洸一は、『闇』と知った上で、ベータミンCの提供を受けていた。ここが、ドレミヒーローこと江上洸一が抱えていた道義上の矛盾点とでもいうべきものであった。
ところで、ゾンビがベータミンCを手に入れようして、人を襲う。ゾンビたちは、ベータミンCの力を借りて、少しでも長くこの世にとどまろうという考えなのだ。
というのも、ゾンビから、人間に戻るためには多量のベータミンCが必要だ。そう言う論文を書いた偉い学者が、ゾンビに襲われてゾンビ化してしまった。
そのゾンビ化した学者が、多数のゾンビを操りベータミンCを集めているという噂である。
そういえば、しばらく前、マスターが、ゾンビ化した人たちを相手に、ベータミンCを売っていたことがあった。それでかなりもうけたという話が、あった。
「そうなんですよ。ベータミンCに走るようなゾンビは、末期のゾンビで、人生投げちゃっているヤツが多いです。気をつけてください。そんなヤツがいっぱいやってきたら、このあたりもガラが悪くなっちゃいますね。まったく、物騒な世の中です」
「……」
「ドレミヒーローにとっての希望がドンドンと奪われていく。ドレミヒーローは、これからどんな夢を持って生きていけばいいの?」
高見沢治美は、心の中で叫んだ。
昔、江上洸一がTV番組に出演していた、戦隊ヒーローもの『ナンチャッテヒーロー』。
あのころから、江上洸一は、TV番組の中だけでなく、リアルな世界でもリアルなヒーロー活動を繰り広げてきていたのである。
もうその勇姿は見られない。
――あの事件がすべてを変えたのね。
高見沢治美は、ため息をついた。
『ナンチャッテヒーロー』から、ドレミヒーローへ格下げされた顛末について、簡単に述べてみよう。
* *
ドレミヒーローと呼ばれるヒーローは、その本性は、江上洸一という名前の人物である。高見沢治美の言うとおり、いまでも彼は、元は、歌って、踊れるアイドルである。彼の所属する事務所があまり大きくはなかったので、江上洸一は、それほど有名にはならなかったのであるが、それでも、思春期前後の若い女性の間では、知る人ぞ知るの存在である。
しかし、ながら、江上洸一の肉体は、ゾンビ菌に犯されつつある。
なぜ、江上洸一が、いかにして、ゾンビの菌をもらってしまったのか、それは、今のところはっきりとは分かっていない。
それどころか、江上洸一のゾンビ菌、ドレミヒーローのゾンビ菌について知っているのは、いまでも、ごく少数の人間のはずである。だから、ドレミヒーローのゾンビ菌について語ったことでマスターの心には滝フタバに対して不審の気持ちが生まれていたほどだ。
今から考えてみると、アイドル時代の江上洸一は、とにかく、酒癖が悪かった。酔ってしまうと、誰彼かまわず、その人が飲んでいる飲み物を取り上げ、自分で飲んでしまう。なんてことは、江上洸一の場合には、平気でやっていた。江上洸一は、酔いがさらに回り、さらに悪のりすると、そう言ういたずらを同じテーブルを囲んでいる仲間に対して行うのではなく、全然違うテーブルの一面識もないような他人の、飲み物や、食べ物までも奪い取ったのだ。
「あのとき、ゾンビ菌に感染したヤツがいて、自分はその菌をもらい受けてしまったのかも知れない」
さらに、ある時期、江上洸一は、アイドルの身でありながら、『アイドル一の意地汚さ』を自慢していたことがあった。
そのころ、ぜんぜん面識のないが、意地きたなさ日本一を自認する男が、江上浩一のことを訪ねてきて、意地きたなさ比べをファミレスで一度やってみようと言うことになった。
相手のことについては、全く情報がなかった江上洸一ではあったのだが、相手がこざっぱりした服装で、風貌にも清潔感が漂う男だったので、相手の意地汚さという点については、すこしばかり、高をくくってしまったのかも知れない。
二人は、飲み放題のコーヒー以外は、なにも注文せずに、どれだけ、ファミレスに居続けられるかというのを競うことにした。しかし、まる一日たっても、両者が居続けた場合には、飲み干したコーヒーの杯数で勝負を決することにした。
洸一は、勝負には自信があったのだが、しかし、あっさりと負けてしまった。
江上洸一は、コーヒーの飲み過ぎで、トイレとテーブルの間を何度も何度も行き来しながら、無料コーヒーを飲み続けた。そして、トイレとテーブルの間を行き来するたびごとに、自分の体調が確実に悪化していることに気づいた。そして、無料コーヒーを十回もお代わりすると、不本意ながら意識が混沌としてきたのだ。
江上洸一が、気がつくと、彼はとある病院の集中治療室のベッドの上にいた。
江上洸一は、病院の医師に、彼の肉体がゾンビ菌に犯されてしまったことを知らされた。
江上洸一にとって、一番つらかったことは、彼のゾンビの病が、ヒーローズアカデミーの中で問題になったことである。ヒーローズアカデミーとは、NPOで、アイドルが持つ優れた能力を生かすことによって、よりよい社会を作り上げようという団体である。ヒーローズアカデミーの中の多くのヒーロー人材の中から、よりりすぐれたエリートを選抜し、彼らを悪と戦う本物のヒーローに育て上げようと言う組織である。
江上洸一は、ヒーローズアカデミーのエリートとして、悪の組織と戦い、すでに、二年間の時を過ごしていた。
しかし、このたびのゾンビの病、不名誉な病のために、彼は、本部での輝かしい地位を奪われて、地方支部に配置転換の身となった。そして、ドレミヒーローという不名誉なコード名を頂戴することになった。できれば、ドレミヒーローではなく、ドレミファヒーローの方が、語呂がいいのではと意見をいったのだが、その意見は受け入れられなかった。
さらに、江上洸一には、とある嫌疑がかけられていた。彼は、四六時中、組織の監視下におかれていたのである。
江上洸一にとっては、味方と呼べるものは、いまや、アイドル養成所時代の仲間と、妻、奈津だけである。
落胆の、江上洸一の元に、ある知らせが、もたらされた。
まもなく、重要な戦いが起こる。そこで、勝利すれば、彼の本部復帰を約束しようと言うのである。
その連絡のメールの終わりには『ウフフ』と意味深な笑いを示す言葉が記されていた。
* *
「頑張ってね! でも、いまの私に出来ることはこれだけ」
高見沢治美は、闇ベータミンCが入った箱を、ドレミヒーローに手渡した。
『ワンワン指令』のロボット犬に貼られていた『闇ベータミン撲滅キャンペーン』のキャンペーンシールをじーっと見ていた。
「私も闇ベータミンCのお世話になっているその一人なんですけどね。ちょいと失礼します」と、自分の血が刻々とゾンビ化していくのを実感するドレミヒーローは、自虐的になっていた。
高見沢治美が持参したベータミンCから一本を取り出しながら、まだ、残りのベータミンCの入った箱を高見沢治美に返した。
「これは、預かっといてください」
そして、ドレミヒーローは、ベータミンCを一気にあおるように飲み干した。
「ウーン。苦しい。」
ベータミンCが、ドレミヒーローの体の隅々にまで染みわたっていった。
「……」
ドレミヒーローが、ロボット犬の様子を見た。ロボット犬は、ドレミヒーローの不正については見て見ぬふりをした。しかし、ドレミヒーローと見交わす視線は、とても冷ややかなものがあった。
「最近ろくな食い物食ってないから、薬が身にしみるなぁ」
ドレミヒーローが愚痴った。
「ワンワン」
『ワンワン指令』が急に吠えだした。
「準備完了かって? 急かさないでくださいよ。とっても、お腹が空いているんです。この二、三日まともなものを食べていないのです」
「ワンワン」
「ヒーローには、憩っている時間などないんだ。」
「ワンワン」
「犯罪は、ヒーローを待っていてはくれないんだって?」
「ワンワン」
「できるだけ、ご意見に沿うように頑張りたいのですが……」
ドレミヒーローは、犬たちにときどき疑問を抱いた。
「この犬たちは俺を殺そうとしている。こいつらは、俺が死ぬような目に遭ってもお構いなしなんだ。自分の仕事をこなすことしか考えていない」
そういうときには、ドレミヒーローは、通り道のコンビニの棚にあったカップ麺を見つけ、あれでも食べなきゃ出発できないなどと子供のようなダダをこね始めたりもしたのだ。
ドレミヒーローは「『ワンワン指令』に急ぎの用事があるならば、先に出発してもらえばいい。俺は、カップ麺を食ってから行く」とさえも言った。
夫人、奈津は、そんなドレミヒーローを何とかなだめようとして口論になったものだ。
「そんなことどうしたら考えられるの?」
夫人の奈津がドレミヒーローをたしなめた。こういうときには、高見沢治美が夫人に味方した。
「……」
ドレミヒーローは、むくれて返事もしない。
「犬たちがついているから、ヒーローとして何とか様になっているわけで、犬たちがいてくれなかったら、とびきり変な衣装を着て町を駆け回っているヘンなおじさんでしかないんだよ」
夫人の奈津は、そういって、とどめを刺すとドレミヒーローは、しぶしぶ出撃していった。
* *
今回も、ダダはこねてはみたものの、事態の緊急性というのはドレミヒーローも良く理解していた。ドレミヒーローは歩き出した。高見沢治美は、ドレミヒーローを見送るときに言った。
「忘れてた! うちの劇団の次の公演、『ゾンビの夢』という題に決まったから、一応報告しておくから。こんども、迫力ある演技を期待しているね」
江沢洸一は、一瞬ドキッとする。嫌な予感がしたのである。しかし、それを隠すように高見沢治美に答えた。
「ヒーローズアカデミーさんの期待には、絶対に答えなきゃって、そりゃ、はりきっていますよ」
「ワンワン、ワンワン」
イヌに、促されて、ドレミヒーローは自動車なみの速度に加速した。
「なんか、事件でも起こったのね。えらく騒がしいのだが……」
焼酎のボトルを抱えた酔っ払いが、ドレミヒーローの一行に尋ねた。
「そうなんですよ。」
ドレミヒーローは、そう答えながら、酔っ払いが手に持っているビーフジャーキーの袋が気をとられた。そのために、ドレミヒーローの移動速度が急激に低下した。
「こいつの空腹トラブルは、いつまで、つづくのだ」
『ワンワン指令』は、渋い顔をして見せた。
やはり、最近、ドレミヒーローとしての自分の活動が認められない、評価されもしないので、それを気に病んでいるのだろうか? 彼は、空腹には、以前にもまして敏感になっていた。彼は、急に立ち止まって、もう動けなくなることがあった。それも、空腹のためだけにだ。
ドレミヒーローと『ワンワン指令』の一行は、とある中華そば屋の前までやってきた。ゾンビが大量発生している目的地までは、まだまだ、距離があった。
中華そば屋の前あたりで、ドレミヒーローの歩みが止まってしまった。
「ちょっと寄らせてくれよ」
ドレミヒーローは、『ワンワン指令』に懇願した。
「ワンワン」
『ワンワン指令』は、ドレミヒーローの提案を却下した。
「……」
ドレミヒーローは、むくれて見せた。
「ワンワン」
それでも、『ワンワン指令』にはまったく効果がなかった。
「そんなばかな」
ドレミヒーローは、怒った。
「ワンワン」
『ワンワン指令』は、ドレミヒーローを批判した。
「近頃逃げが多くなったって、」
ドレミヒーローは、聞き返した。
「ワンワン」
『ワンワン指令』は、ドレミヒーローを煽る作戦に出た。
「恐いかって? もちろん恐いに決まってるわい」
ドレミヒーローは、なかなか『ワンワン指令』の思惑通りには動こうとしない。
「ワンワン」
それでも、ドレミヒーローを煽り続けた。
「逃げるなって? 逃げないよ。逃げられないの分かっているから」
ドレミヒーローは、開き直った。
「ワンワン」
『ワンワン指令』は、作戦を変えて、ドレミヒーローに対して、ねぎらいの言葉をかけてみた。
「だから、ちょっと、元気が出るもの食べたい。そういう、気分なんだけどね」
ドレミヒーローがほんのちょっぴり打ち解けた。
「ワンワン」
『ワンワン指令』がドレミヒーローをたしなめた。
「ぜいたくを言うなって」
そこに、『ワンワン指令』の一匹の犬がなにかの連絡を受けて、離脱した。
「急いでくれとか、どっちみち何かの催促なんだろうな」
連絡を防諜したドレミヒーローが言った。
「ワンワン」
残った『ワンワン指令』は、ドレミヒーローと馴れ合うのを拒否した。
「そう言われたって……。ところで、ちょっと、ゴメンよ」
ドレミヒーローは、二匹の犬にフェイントをかけると、中華そば屋に滑り込んでいった。さすがに、ヒーローを名乗っているだけあって、『ワンワン指令』も対応できなかった。
「いらっしゃい。」
中華そば屋の、親父は、お客の来店に喜んだ様子であったが、客がドレミヒーローと分かったとたんに、態度が一変した。
「お客さん、すまないね。今日は店しまちゃったんだよね」
「おかしいじゃないか。麺も野菜も、スープも満杯に見えるけど……」
ドレミヒーローは、指摘した。
「たしかに、麺は残っているし、スープもあるし、仕込みもすませて、店は万全の状態なんだが、しかし、どうもうまくはないんだよ」
「レバニラ炒めといつもの中華そばがあれば、けっこう元気が出そうなんだけどな」
ドレミヒーローは、この上ない人なつっこさを顔に浮かべると言った。
「しかたがないな」
中華そば屋のオヤジが折れた。そのとき、置き去りにされていた『ワンワン指令』が中華そば屋に突入してきた。
「ウー、グルグルグル」
『ワンワン指令』は、ドレミヒーローに食事を提供しようとしていた、中華そば屋のオヤジを威嚇した。
「こういう訳なんだ。長いつきあいだけど、今日は、勘弁してくんな」
ドレミヒーローは、観念して、店を出た。そして、そのときである。
ドレミヒーローが倒れ込んでしまったのである。これは、最近、ドレミヒーローを襲っていた悪性のめまいによるものであった。
「ドレミヒーローさん、江上洸一さん、大丈夫ですか」
表の騒ぎを聞きつけて、中華そば屋のオヤジが出てきた。
「おめえらが、食わせるなとか言うから、食わせなかったんだが、あの様子じゃ。相当に重傷だぞ」
「ワンワン、ワンワン、ワンワン、……」
『ワンワン指令』は、ドレミヒーローが頑張らなければならない事情を説明した。
「子供の夢か、そうか、子供の夢か。子供の夢だったら、裏切るわけには行かないな。あいつには、世界平和のためにせいぜい頑張って、黙って死んでもらうしかないな」
「ワンワン、ワンワン、ワンワン、……」
『ワンワン指令』と中華そば屋のオヤジは、意気投合した。
「歌って、踊れるヒーロー、これにいつの時代も子供たちはあこがれてしまうんだよ。『ナンチャッテヒーロー』の頃はまだ良かった。これが、俺たちにとっちゃきゅうきょくの真理というべきものさ」
「ワンワン」
ドレミヒーローの意識が戻った。
「ワンワン、ワンワン、ワンワン、……」
それは、「本気か、本気で具合が悪いのか。それならそうと、なぜ早く言わないか」と言う意味であった。
『ワンワン指令』は、形だけの優しい言葉を、ドレミヒーローに投げかけた。ドレミヒーローは、それを聞くと、よっこいしょと立ち上がって、『ワンワン指令』に言った。
「言っているじゃないですか。ヒーローズアカデミーの契約の時からちゃんと言っているんですよ。だんだん、病気も進んでいるので、そろそろ仕事もやれなくなってしまうかもってね」
そのときである。
「ワンワン」
先ほど、離脱していった『ワンワン指令』のロボット犬が戻ってきた。
戻ってきた『ワンワン指令』は、もう一方の『ワンワン指令』に報告した。
「おかしいなぁ。ドレミヒーローは、ヒーローズアカデミーから除隊したことになっているぞ」
* *
「警察はどうした。町は、ゾンビであふれかえっているというのに……!
「自衛隊はなにをやっているんだ!」とか、そう言う意見も出ると思う。でも、自衛隊や警察って言うのも、彼らなりには頑張っていた。
しかし、自衛隊や、警察隊は、効果的に行動を行うに十分な情報を持ってはいなかった。
つまり、敵の狙いは何かとか。敵はどこからどこへ移動しているのか。目的地はどこなのか。敵はどのような攻撃を仕掛けてくるのか。戦場で戦うためには、一番必要な情報である。
そういうわけで、自衛隊や警察隊がやる仕事は、交通整理とか、住民の避難手伝いとか、無難な仕事に限られた。
ヒーローズアカデミーとしても、むざむざと、自衛隊や警察隊に手柄を譲ってやるわけにもいかなかったので、この情報は『部外秘』という取り扱いを受けることになった。つまり、ゾンビとの戦いについては、ほぼすべてを、ヒーローズアカデミーが押さえていたのだ。
ヒーローやそれに関連する団体などというものは、歴史が浅いせいか、所詮、このように、協調性に問題のある連中の集まりであるのかもしれない。
そのような性質が、揚げ足取りの材料になり、やがては、ヒーローズアカデミーの強制解体という悲劇につながっていったわけである。
結局は、ゾンビに関して、十分な情報をもっているのは、情報をスパイ犬をフル活用して情報を入手していた、ヒーローズアカデミー関係者だけであった。江上洸一と、『ワンワン指令』二匹のロボット犬だけであったのだ。そのためにゾンビに対して、江上洸一と『ワンワン指令』の一行が立ち向かうことになったのだ。そのようにして、ヒーローズアカデミーが手に入れた、様々な情報から、たけしの狙い、つまりゾンビの狙いは、アイドル、滝クルミとその恋人、一之条隼人であることがわかっていた。ヒーローズアカデミーは、たけしの目的を阻止するために作戦をたてた。
ドレミヒーローこと江上洸一は、気を失っている間に、自分の半生を振り返りながら、自分のヒーロー活動のようすが、走馬灯ように、頭を駆け巡るのをみた。
そして、ヒーローズアカデミーの除隊が迫っていたことを思い出した。
そこに、女房、奈津が駆け込んできた。。
「除隊の知らせよ!」と、はがきをもってくる。もう苦労する必要はないわ!これからは、高見沢さんの部隊でヒーロー役を頑張ればいいのよ。
ドレミヒーローの妻、奈津は、説明した。
夜勤明けで、眠りについたばかりのころ、嫌な胸騒ぎで目が覚めた。ドレミヒーローの妻は、それで、いてもたってもいられなくなって、ドレミヒーローを捜しに、ゾンビがあふれる町に出かけていったのだった。ドレミヒーローをあちこち捜してみたがなかなか見つけられなくて、がっかりしていた頃、ドレミヒーローの妻、奈津を呼び止める声が聞こえた。それは、クリーンスタッフの社長の塚本瑛太であった。彼は、会社に送られてきた通知をもっていた。それは、ヒーローズアカデミーから、送られてきた通知であった。ドレミヒーローこと、江上洸一は、ヒーローズアカデミーで働くことになったとき、保証人としてクリーンスタッフの社長を指名していたのだ。
ドレミヒーローは、何回も転居を繰り返していたために、住所登録の更新が遅れ、郵便物がヒーローズアカデミーから届かなくなっていたのだ。
そこに、いま帰ってきた方のロボット犬が、指令書をドレミヒーローの妻、奈津に示した。
「功労金(多年の功労に報いるため……)高額の報奨金付きで、除隊命令が出ているはずであったのだが、新型パワースーツの試作機のテスト要員としてもう一回の出撃が要請されたのだ」
「ワンワン」
「そりゃなぁ、くたばりぞこないのヒーローにはちょっと荷が重い事態だぜと、憎まれ口もいいたいところだが、このまま、お前にやめられたら、ここ当面の正義というのはどうなるんだ。それは、お前の哲学にも反するだろう。俺の顔を立てて、もう一回の出撃を引き受けてくれよ」
『ワンワン指令』は、柄にもなくこびるような調子で、ドレミヒーローこと江上洸一に頼んだ。
「どうすっかなぁー」
ドレミヒーローは、考えて見せたが、心は決まっていた。
* *
ドレミヒーローと『ワンワン指令』の一行は、ついに、最前線とでも言うべきところに到着した。
そこに待っていたのは、滝フタバと滝フタバの旦那の滝茂雄であった。彼らは、最終調整が完了したばかりのパワースーツを手にしていた。そのパワースーツは、まさに、ドレミヒーローのために作られたものであった。それは、ヒーローズアカデミーの対ゾンビ最終兵器とでもいうべきものであった。
「『ワンワン指令』には、すでに説明をすませてあるが、このパワースーツは、ヒーローズアカデミーの存亡がかかっている最終兵器とでもいうべきものなのだ。このパワースーツの成否は、君の腕次第だ。よろしく頼むよ、ドレミヒーロー君!」
滝茂雄は、ドレミヒーローにパワースーツを手渡すと、ドレミヒーローの手を取り、力を込めて握手した。
* *
たけしのおこした事件後、ゾンビテクノロジーという、先進テクノロジーの担い手として、博士やたけしは、全面的に事件後に、罪を赦されることになった。それどころか、博士とたけしは一躍有名人に成り上がった。
それもこれも、『バベル文書』の知識がものをいったのである。
『バベル文書』によって、博士たちは、ミスターシンメトリックの呪縛から逃れることができた。しかも、ベータミンDは、ゾンビをコントロールするのに大きな効果を発揮した。ゾンビは、敵ではなく、味方になりうるのである。??
ヒーローズアカデミーによる、パワースーツの夢は、今や廃れた。
日本は、『ゾンビ』テクノロジーによって、明るい未来を日本のみならず、世界も夢見始めていた。
* *
この異常な出来事を題材とする物語を展開するに当たって、どうしても、見落とすことの出来ない資料という者が存在する。それは、仲間たちから博士と呼ばれている少年が、事件のあとひと月あとに、武蔵野テレビの美人アナとのインタビューの中で、自慢げに語ったところの事件の裏話的情報である。博士のその時の話の内容は、この物語においては、まったく不可欠な要素でもあるので、作者は、大いに活用したいと考えている。
博士は、この事件の後、いろいろと、この出来事というか戦いについて語ってくれている証人であるが、博士は、その背景についても述べてくれている。そのインタビュー記事から、ドレミヒーローが着用することになった最先端パワースーツについての博士のコメントを抜き書きして掲載しておく。
「決戦の場で、これを試すという発想は論理的とは申せませんですね」
「危険は伴いますが、新しい技術のためには、それは、必要悪なのだ。それが、ヒーローズアカデミーの考え方だったのです。でなければ、あのパワースーツを人に着用させようとは思いません」
「ヒーローズアカデミーがこれだけの危険なものを提供してくるのは、よほど特別な事情があったのだなぁ」
「しかし、空腹で、メンタルのみならず、フィジカルな面でまでハングリーになってしまったヒーローは、どのようにして戦いに必要なパワーを獲得することができるのだろうか。パワースーツが、いかに省エネ設定が進んでいるとはいえ、装着主の体内からエネルギーは供給されていたはずですが?」
女子アナとのインタビューで、パワースーツの核心に触れる質問をしている。
それについては、博士は、このパワースーツのシステムについて、感嘆してみせた。
「空腹とか、空腹でないとか言うのは、一食や二食といった単位の食事の問題です。一食や、二食の食事によって得られるエネルギーとかを相手にしていては、ヒーローなど成り立ちません。相手と戦うためには、それ以前に、体に蓄えられたエネルギーが必要になるのです。それは、一食の食事とは、けた違いのエネルギーなのです。ヒーローは、敵と戦うときには、彼の体内にある無尽蔵のエネルギー源を解放していたわけです。そのためには、精神がある状態で集中している必要があるのです。その集中を生み出すのに、空腹というのは好ましい環境なのですね」
「……」女子アナには、理解できていなかった。
「人間の潜在能力というものを、ひとつの目的に向かって、完全に制御した形で、振り向けるというか、提供するというのは、非常に難しい。もし、それが、可能であれば、ひとは皆、スーパーマンになるでしょう」
博士は、女子アナにはお構いなしに話を進めた。
「人間に潜在能力という、無限のリソースを解放するための最前の方法は、極限状態をおいてほかにないと思われます」
「あの二匹の犬たちは、ヒーローに最高の働きを可能にするために、様々な活動をやっているのです。敵と戦うときにだけ現れるのではなく、日頃は、ヒーローに寄り添い、健康状態、精神状態をチェックし、ヒーローが最高のパフォーマンスを発揮することができるようヒーローの生活環境を整えているのです。これで、すべてが説明できます」
博士は、さらに、ロボット犬についてもう少し言及した。
「そして、これが一番大事なことなんですけど、彼らは、スパイとしても、非常に重要な役割を担っているのです」
「彼らは、愛くるしい子犬としてやすやすと、敵の懐には入っていき、彼らの中核の情報を手に入れることが可能なのです」
この部分に関しては、女子アナは納得がいった様子であった。
「彼らは、ほんとうにあの愛くるしい犬たちですからね……」
* *
マスターから、たけしへの連絡が入ったのは、ドレミーヒーローとの戦いが佳境にさしかかった頃であった。マスターは、コーヒーパーラー『ライフ』の床に、散らばったたけしの名刺に書かれていた連絡先へとかたぱしから、連絡を取ってみた。どれも、これもが、使えない電話番号ばかりであった。
いい加減あきらめかけた頃、たばこでも吸って一服しようと思ったのだが、たばこも切らしていた。コーヒーパーラー『ライフ』のたばこを買うために、財布を取り出すと、そこに、入っていたたけしの名刺を見つけた。
マスターは、そこで、たけしに連絡を入れたのだが、戦いのために忙しかったのか、たけしはなかなか電話には出なかった。それでも、やっとマスターはやっとたけしに連絡が取れた。
「チーズケーキだよ! たけしくん。今日、高性能のパワースーツがうちの店にやってきたんだ。そして、その性能の高さを実感したんだが、一つ問題があった。そのパワースーツが、うちの店からチーズケーキを持ち去ったのだが、あとで見たら、ゆかにチーズケーキの破片が落ちていたんだよ。そのような高性能のパワースーツにそのようなミスは決して起こりえないものなのだよ。ただ、起こりえるとしたら……」
マスターは、自分の言いたいことを相手の返事も待たずに、一気にまくし立てた。
「……そうか。そいつは、ヤバイですね。あの人たちが、暴走系のパワースーツを持ち出してくるのはまったく想定外でしたよ」
* *
ドレミヒーローの最新鋭パワースーツは、今回の戦いでは最高の威力を発揮した。
『ワンワン指令』の二匹のロボット犬たちは、ドヤ顔で、男と化け物の闘いを見守っていればそれでよかった。
「メシ抜きで、ストレスたまりっぱなしの状態を保てたのは、良かった。今回は、十分に頼りになりそうだ」
「シメシメ」と笑った。
「おまえの自転車、盗んだのはあの列の先頭のゾンビだ!」
『ワンワン指令』は、ためしに、最新型パワースーツを着用したドレミヒーローを煽ってみた。するとこれが、効果てきめんで、ドレミヒーローは、ゾンビの軍隊を百人分くらい一気に倒したのだ。
『ワンワン指令』は、その効果に大満足の様子だった。彼らは、さらに、ドレミヒーローを煽ってみた。
「ガムのたべかすで、一張羅のズボン、ダメになったことあったよな。だれが犯人だったかわかるかい? そう、援軍の中にいるから、捜してみなよ」
ドレミヒーローは、援軍の百人分くらいの隊列を一気に、殲滅した。その威力は、めざましすぎて、『ワンワン指令』も少し恐くなった。
しかし、『ワンワン指令』は、ドレミヒーローを煽るのをやめなかった。
「アルバイト先で、給料持ち逃げされたときの恨みを思い出せ……。その犯人は……」
こんどは、これだけで十分だった。最新型パワースーツのドレミヒーローは、区庁舎の背後で待ち伏せしていた百人分のゾンビを一掃したのだ。
このようにして、瞬くうちに、ドレミヒーローと『ワンワン指令』の一行は、たけしのいるゾンビ軍の本体に迫ってきた。一方、ゾンビ軍の本体も、その狙いである滝クルミと、一之条隼人に迫りつつあった。
たけしは、ドレミヒーローに向けて、ラスボス的ゾンビを投入した。このゾンビは、何百人分の悪人の魂の集合体からできあがったものである。
であるから、その大きさも、桁外れだった。ドレミヒーローの行く手をふさぐ、巨大ビルという風情だった。
しかし、たけしとしては、このラスボス的ゾンビを投入したのは大失敗であった。
ドレミヒーローは、ゾンビのラスボスのなかに、見覚えのある何かを見いだしたのだ。ドレミヒーローは、立ち止まり、そのラスボス的ゾンビを見ながら、よく考えてみた。そして、そのゾンビに組み込まれている悪人の魂のなかに、ナンチャツテヒーロー時代の自分を陥れたあの男がいるのに気づいたのだ 。むこうも、ドレミヒーローのことに気がついたと見えて、大笑いを始めた。
「自称ヒーローという割りには、想像力が欠如しているね。ひとに刺激してもらわなければ、自分のやる気が起きないなんて、エネルギーとか言っているけど、無気力すぎるヒーローの言い訳に過ぎないでしょう」
少しばかり調子に乗りすぎた、ドレミヒーローこと江上洸一に対して、『ワンワン指令』の二匹の犬が懸念を表明した。
「やりすぎだろう」
江上洸一は、すでに外部からの刺激に頼らずに、自らを自虐的に刺激することによって、自分のエネルギーを手に入れていた。しかし、これは、限度がすぎると『やりすぎ』『ぼうそう』ということになる。
『ぼうそう』とは、自虐的な自分責めを継続していくうちに自分で自分が制御できなくなり、ドンドンと過激なエネルギーが体内に蓄積されていくことである。この過剰な『内向エネルギー』は、しばらく前にはピークに達していた。それが、ラスボス的ゾンビのあおりのせいで、ドレミヒーローの『内向エネルギー』の量を示すメータの針は、振り切れてしまった。
「考えられないことだが、ドレミヒーローが無限のエネルギーにプラグインしてしまったぞ」
『ワンワン指令』の二匹のロボット犬がつぶやいた。
ドレミヒーローは、無限のエネルギーにプラグインしているとも言うことは、それは、恐ろしい結末につながってしまう。実際にそうなったことはないが、そういうことは、容易に想像がつきそうなものであった。
『ワンワン指令』がもっている。携帯端末のパネルの状態ランプが警告をとばして、冷静対応を促す"Don't panic!(動転無用) " ランプが点り、というか、激しく点滅し始めた。二匹のワンちゃんはすぐに自分たちが置かれている状況を理解した。二匹のワンちゃんは懸命に走り始めたのだが、一刻も早く、この場から逃れようというのであった、しかし、時すでに遅しであった。
恐ろしい爆風が、町を飲み込んだ。ワンちゃんも巻き込まれて、しまった。
「キャイーン、キャイーン」
『ワンワン指令』のロボット犬は、子犬のように鳴いた。それでも、なんとか爆風を耐え抜いたロボット犬は、本部に逃げ帰った。
「ワンワンワン」
硝煙が消えたあと、そこには、ぼろぼろのドレミヒーローが立っていた。ドレミヒーローを襲っていた異変は、まだ続いていた。ドレミヒーローのすべての筋肉が張りまくっていった。
「まずい状態になってしまった。これでは、彼を助けようがない」これを目撃した博士は思った。
まもなく、この異常に高いエネルギー状態に、パワースーツが耐えきれなくなってしまった。パワースーツは、最後には、粉々になって、飛び散った。
ドレミヒーロー、これこそ本当の意味での自然体で、道路の真ん中に倒れていた。
出勤途中で、ぐうぜん近くに居合わせた、ドレミヒーローの妻、奈津がドレミヒーローに駆け寄った。
「体が冷たくなっている」
奈津は、つぶやいた。
「息していないんです」
『パワースーツの記憶ユニットが、ドレミヒーローの断末魔の遺言を再生し始めた』
『昔は、若気の至りというヤツで、とんだ横道にそれてしまったこともありました』
『『仲間』や、みなさんのお力のおかげで、ヒーローズアカデミーのことを知り、歌って踊れるアクションスターを夢見る日々が続きました』
『皆さんと巡り会えて本当に良かったです。そして、奈津よ。ありがとう。君のやさしさを忘れない』
ドレミヒーローは、夫人、奈津、には、起こりえる最悪の事態に備えて、しっかりと心構えしておくように伝えていた。だから、ドレミヒーローの妻、奈津は、流した涙も最小限にとどめ、気丈に振る舞った。
子供たちが、自分たちのヒーローに、近づこうとする子供たちを親たちが止めた。
「あのヒーローの姿は、見てはいけないの」
親たちは、子供たちに、惨めなヒーロー、正義の結末を見せまいと、子供たちの目を手のひらで覆った。そして、子供たちを誘導して、その現場から離れていった。
そして、ドレミヒーローの死体の行方が話題になった。ドレミヒーローの死体は検視のための解剖を受けるべく病院に運ばれたはずであったのだが、ドレミヒーローの死体が所定の病院に運ばれた記録はない。
第三章 勝者と敗者
につづく
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