その4
扉を抜けた先は正に別世界だった。
そこは山の上、眼下に広がるのは青々とした森と彼の出現に驚き逃げ去って行く小動物。地面は青々とした草に覆われ、そんな大地を踏みしめる感覚には違和感すら覚えている。
「……あー、あ?」
驚きの余りに語彙すら失ったイチョウは地面に座り込むと、ただぼんやりと時間と共に過ぎて行く生物の営みを眺めていた。彼の目の前に広がるのはおとぎ話のような光景、現実にそんなものが存在するなど考えたことすらなかった豊かな自然だ。
「……え、あ! もしかしてこれが異世界なのか!?」
不意に、我に返ったように叫ぶ。そう、彼は異世界に行くことを求めて研究所を探し、そしてここへ辿り着いたのだ。封鎖された空間にあった扉を開き気が付けばここにいた。つまり。
「あの扉が異世界と俺の世界を繋ぐってことだな!」
そして振り返った先に、扉は無かった。
「……あれ?」
彼は扉を開いてここに来た。だとすれば当然後ろを振り返ればその扉があり、その向こうには元の世界がある。そう考えていたのだが。
「扉、え? あ……」
では扉が無いとすれば彼は一体。
「これ……、どうやって戻るんだよおぉおおおお!」
その叫びはやまびこに反響して消えて行った。
イチョウはしばらくの間どうにかして戻る方法は無いかと周辺を隈なく調べていたのだが、収穫らしい収穫は何も無かった。扉があった様な痕跡は何一つ無く、不自然な物体一つ見つからない。
「……このままここに居ても埒が明かないか」
そして彼は諦めて下山を開始することにした。非常に残念なことに運搬用機械や高性能ドリルは元の世界に置き去りになってしまったようで、今現在の彼は己の身一つ以外には何も持っていない。そうなるとこんな山の天辺にいたところでいずれ飢えて死ぬだけだ。とりあえず下へ降りて食料を探さねばならない。まずはこの世界で生きる術を見つけなければ元の世界へ帰ることなど出来るはずが無いのだ。
「……あの扉は一方通行だったのか? だとすればあれと同じ物を作らないと元の世界に戻れないとか?」
山を下りながら彼は本で読んだ記憶を思い出し続ける。異世界の研究については幾つもの書籍があり彼はそれを読み込んでいる。その知識があればいずれは元の世界に帰ることが出来るはずだと希望を持って。
中腹ぐらいにまで下ってきたところで幸いにも即座に飢え死にする心配は無さそうだということに彼は気が付く。
「こっちにも木の実が成ってるな」
この辺りの木々には多くの木の実が成っておりどうやら食料には事欠かないらしい。彼は地面に落ちている中で綺麗そうな実を幾つか抱えてずんずんと進んで行く。歩いている内に頭が冷えて来たのかパニックも落ち着いた今、彼の中にあるのはちょっとした期待感だった。
元の世界にはこんなに木の実が成っているなんてことは無かった。異世界に資源が豊富と言うのは決して夢物語じゃないらしいぞ。
瑞々しい木の実を一口齧り、彼は足取り軽やかに進んで行く。
山を下った彼を待っていたのは突然の悪寒と腹痛だった。まあ、はっきり言って原因は明らかだが。
「お、おぉ、やっぱ落ちてる物食っちゃ駄目か……」
強行軍の山下りで体力の消耗も激しかったのだろう、不意に来たそれに抗う術はない。とりあえず道端に倒れ込みどうすべきか考えようとも思ったが、溢れ出る冷や汗と油断すると何かしら出そうな状況ではもはやそんなことをする余裕も無い。
折角異世界に来たのにこんなつまらない死に方をするのか?
それを口にする事すら出来ずただただ耐え続ける時間の中で彼はいつの間にか意識を失っていた。
再び目が覚めた時、そこはどうやら建物の中らしかった。或いは異世界に来たのは夢だったのだろうかと己の正気を疑いながら体を起こす。
「腹痛は無いな」
夢だから元々そんな症状が無かったのか、或いは気を失っている内に治ったのかすぐには判断がつかない。とりあえず立ち上がるとすぐ傍にあった窓の外を見てようやく彼は自分が異世界に来ているのが正しいと実感する。
「すげえ森だな」
どうやらこの建物は森の中にあるようで、窓の外には運搬用機械で撥ねれば簡単に崩れ去りそうな小屋とその向こうに多くの木々が見えていた。相変わらず異世界は中々凄い場所だと感心し頷いていると。
「お目覚めのようですね」
不意に声をかけられる。
「あっ、……と」
「失礼、私はこの家の主でリオと申します。覚えておいでかわかりませんがあなたが道端に倒れておりまして、偶然見かけたものですからこちらでお休み頂いておりました。体調がお悪いようでしたが、今はお加減いかがですか?」
物腰柔らかで敵意の無い異世界人だ。それまで彼は考えもしていなかったがこの世界にも人間に相当する生き物が存在する。知恵を持ち、コミュニケーションを取って生きる生物。それが友好的な態度を示しているというのは本当に運の良いことだ。
だが今彼が驚いているのはそう言った類の事ではない。
目の前で動いているそれは人間のような態度で、しかし人間とは明確に別物だ。それは例えるならライオンが人の形へ進化して二足歩行をしているような見た目をしている。
「……あ、ああ。だいぶ良くなったらしい。助かったよ、ありがとうございます」
しかしそのことへの動揺を隠しながらとりあえず話を合わせる。
「それはよかった。食欲はありますか? よろしければ今からお食事を作りますのでご一緒にいかがです?」
「……それは、ありがたい。何から何まで世話になるようだけどお願いしても?」
「もちろん、腕によりをかけますのでもうしばらく休んでいてください」
リオと名乗った彼はそのまま部屋を出て行く。どうやら真実自分をもてなそうとしているだけのようだ。そう思いイチョウは安堵して、それから溜息をついた。
「ライオンが喋るの違和感凄いな」
元の世界にいたライオンは危険な猛獣だ。幸いにも彼は自分が持っている運搬用機械で轢いてしまえば良いだけだったが、そんな対処手段を持たない人が猛獣の餌になるのを何度見たかは覚えていない。
故に彼を前に緊張の糸を緩めるのは難しそうだと汗を拭う。
衝撃的なことが幾つもありイチョウはこれからの事を色々と考えていたのだが、ふと、遠くから何かを切る音が聞こえる。何かしらの食材を切っているようだ。ライオンが道具を使うおかしさに苦笑し、それから大きく溜息をついた。
少し落ち着いたことで現状を見据える余裕が出て来たのだ。
「運は悪くない、らしい」
異世界に来て山を下ってそこで死んでいた可能性も十分にあった。親切な現地人に助けられとりあえず人の住む場所まで連れて来てもらえた。これはかなり運が良い。あの性格ならばリオに頼み込んで当面の食事を恵んでもらうことも出来そうだ。
しかし。
「元の世界に戻れるのか?」
先行き不安な最大の理由はその一点、扉を再び作ることが出来るのか。周囲に建てられた家を見た彼はこの世界の科学技術が元の世界に比べ著しく劣ることに気付いていたのであった。