その12
その扉の向こうはそれまで歩いて来た通路のように殺風景で、何も無い。四方を金属の壁とそこに付けられたモニターで覆われ、天井には薄暗い灯りが点いている、それだけだ。およそ人の住める空間でも無ければ住みたいと思う者すら皆無であろう。ただ広さに関しては、快適だ。無意味に広く作られたその部屋は周囲の飾りも何も無い壁が与える圧迫感を幾らか軽減してくれる。
イチョウはその部屋の中央に人を見た。
「あんたがレイシアか」
声をかけられたそれは錆び付いた全身を軋ませながらゆっくりとイチョウの方を向く。
「……成程、どこから獣人たちがあのような知恵を手にしたのかは常々疑問だったけれど、外部からの介入があったのか」
その声はかすれ、イチョウは昔に元の世界で聞いたことのあるボロボロのレコードを思い出していた。聞き取り辛い音を必死になって絞り出しているようでなぜか無性に悲しくなる。
「メンテナンスはしてないのか? 声がかすれてんぜ」
「必要ない、そうは思わないかしら? どうせいずれ獣人は滅びこの世界は私の手に落ちるのだから」
「過去にそう思ったんだろ。悪いな、日記、読んだよ」
イチョウは言いながら一歩、また一歩とそれに近付いて行く。表面の塗装は剥げて所々錆が浮かび、まるで何年も打ち棄てられ放置された機械。しかしイチョウは知っている。それが単なる機械ではないことを。
「なあ、自分で育てた人らを殺す気分はどうだった?」
直截的なその言葉にもそれは何も言わない。
「レイシア様レイシア様って信仰の対象になってどうだった? そんな奴らを裏切って殺すのは楽しかったか?」
それは挑発だ、考えるまでも無く冷静さを欠かせる為の、反応を引き出す為の、我を忘れさせコントロールしやすくする為の挑発に過ぎない。そうであれば対処は簡単だ。無視をすれば良い。
言葉は本来人の身体を傷付けることが無いのだから。
「お前に何がわかる」
だからそれに反応してしまうのは肉体ではない、それの、彼女の、レイシアの心。
「本気で殺したいなどと、考えると思うのか? 私は、一時的にとはいえ、彼らと友誼を結び共に生きる仲間となった。彼らの事を本気で助けたいと思ったし、彼らも見ず知らずの私の言葉を信じ、まるで元から彼らの一員であったかのように扱ってくれた」
彼女の機械の肉体に涙を流す機能は無い。その代わりに錆びた鉄粉と僅かに残ったぼろぼろの塗装が彼女の思いを示すように舞い落ちる。
「多くの苦難があった、私の知識があっても全てが上手く行くわけじゃない。それでも彼らには諦めず粘り強く次の一歩を踏み出す力を持っていた。彼らは全てが私のおかげだと言っていたが、私に言わせれば……、決して歩みを止めない事の方が遥かに価値ある力なんだ」
イチョウは思う、元の世界でより良い暮らしを目指して生きていた者などどれだけいるのだろうか。確かに多くの食料が欲しい、より便利な機械が欲しいと考えたことなど何度もある。しかし地上を生きる人々が生き方を変えたことなどなく、残り少ない資源を奪い合うだけ。空中都市から地上を見下ろす人々もきっと大して変わらない。
レイシアは錆び付いた身体でゆっくりと立ち上がる。それを行ったのが何年振りか彼女はもはや覚えていない。記録を探れば簡単にわかることだが、そんなことをする気力も彼女には残っていなかった。
「『機械の軍勢』はもうじき滅びるだろう」
彼女のそれは予言ではなく単なる事実だ。既に本拠地に潜入している他の者が機械の生産設備を制圧している。破壊が完了するのも時間の問題だろう。
「私の使命は彼らを武力で制圧しこの世界の資源を元の世界へ持ち帰ること、それが敵わなくなった今、私の生に意味は無い」
彼女はその言葉を憂いよりも安堵の表情を浮かべて言った。
この部屋の中で過ごした長い年月の間、彼女が覚えた感情は苦痛だけだった。記憶データを取り戻したことで使命を思い出した。しかしそれはそれまでの記憶を奪い去りはしない。
彼女は本心から共に生きて来た獣人たちを友と思い、その友情を育んできたのだ。しかし使命を果たす為には彼らの存在は非効率的であり不要、或いは潜在的な危険ですらある。
そして彼女は友よりも使命を選んだ。
『機械の軍勢』は彼女の計算によれば数年で獣人たちを絶滅させてくれる、そういう機能を持って作られたはずのものだ。部屋に閉じこもり後は時を待つだけで良い。モニターが外の世界を映し続けているこの部屋の中で待ち続けるのだ。涙はこの機械の身体から出やしない、だから悲しくなどない。そう自分に言い聞かせて。
一年が過ぎた、多くの獣人が命を落とした。『機械の軍勢』による奇襲は抵抗する間もなく多くの命を無慈悲に奪い去ったのだ。しかし既に獣人たちは『機械の軍勢』を敵と認識している。ここから少しペースは落ちるだろう。それも含めて想定通りではあるが。
五年が過ぎた。獣人たちはしぶとく生きている。鍛え上げた肉体により頑強さ重視して造られた装甲を破壊し抵抗を続けているのだ。無駄なことを、どうせいつかは耐えられずに死んでいく定めだろうに。
十年が過ぎた。どうして彼らはまだ生きているのだろうか? 想定では既にこの世界から彼らは消え去っているはずなのに。彼らの作り上げた町は破壊され、多くの者が無残な姿となり、生き延びた者も傷だらけだ。しかし彼らは次へと命を繋ぎ続けている。
三十年が、五十年が、百年が、過ぎた。彼らは未だに生きている。
ようやく思い出す、彼らはずっとそうだったではないか。天災が彼らを襲い、病魔が彼らを蝕み、獣が彼らを喰らおうとした。しかしそのどれも彼らから希望を奪うことは出来なかった。彼らの明日を奪うことは出来なかった。
彼らは決して歩みを止めない。
「……羨ましいな」
レイシアは孤独な部屋の中で涙すら流せなかった。しかし彼女の意識には強く彼らの姿が焼き付けられ、何があろうと消えることは無い。
レイシアは自らの死を望んだ。彼らとの思い出を胸に消えて行けるのなら悪くない、そうとさえ思った。そんな彼女を前にイチョウは。
「まあ、色々と言ったけど別にお前を殺す理由は俺には無いんだよな」
そう言って頭を掻く。レイシアの困惑した表情を前にイチョウはただただ気まずい思いをしていたのだった。