その1
大地は、荒れ果てている。
人は遠い昔に大地を見捨てた。その大地に育まれてきたにも関わらず、だ。大地は植物を育み彼らに作物の実りを与えた。大地は岩壁に隙間を作り彼らに風雨を凌ぐ術を与えた。大地はその懐に多くの資源を抱え彼らの文明を発展させた。
しかし今や人々は大地を見捨てたのだ。
空を見上げれば誰もが見るだろう、空中を漂う巨大な都市を。人はその発展した文明の中で大地を歩くことを止め、空に自らの都市を築いた。
なぜだ!?
「この大地にはもはや資源なんざ残っちゃねえからな」
そう呟いて男は一冊の手記を目の前で燃える焚火の燃料へと換えた。少しだけ高く燃えた炎で彼は串に刺した肉を焼き始める。
「はあぁぁ、これで肉も最後か」
憂鬱な溜息には当然理由がある。彼が自らの腹をさすると浮いたあばら骨の感触がした。
「さっきの手記が何かの研究だったら少しは高く買ってもらえたかもしれねえのに、ただの日記だなんてついてねえ」
男は見捨てられた大地を渡り歩く者だ。もはやほとんど残されていない資源を探し大地を彷徨い歩く浮浪者だ。
空に都市を築いた人々はその時にまず誰が都市へ入るのかを決めた。当然ながら都市へ入ることの出来る人数には限界があり、それは世界中の人口に対してあまりにも少なかったのだ。空へ浮かんだ都市へと手を伸ばす者は大勢いたが、そのほとんどの手が届く前に都市は天へ昇って行った。
大地に残された人々は初めこそ元の暮らしを維持しようと努力をしていた。幸いにも人数が減った分だけより多くの資源を手に入れることが出来ると考えていたのもあり、寧ろ楽観的な者の方が多かっただろう。
しかしそれが間違いだと気付くのに時間は然程いらなかった。
「以前より畑で採れる作物が痩せているように感じます」
「漁へ出たが獲れた魚は去年の半分ってとこだな」
「一日鉱山を掘っても出て来た鉱石は掌一つ分だけだったぞ」
残された彼らはなぜ空へ行く必要があったのかをようやく理解した。
空中都市は完全に自給自足が可能となっている。そこにある工場では先進的な技術により植物を栽培、或いは培養し十分な食事を確保できる。都市の一部が壊れたとしてもその瓦礫を粉砕し特殊な工程を踏むことで元の形へ加工することが出来るようになっている。
空中都市はこの大地が持っていない全てを持っていた。都市内では大地を歩む者は浮浪者と蔑まれ、その端から大地を覗き見るのはそこでの最もメジャーな娯楽でさえあったのである。
そう、娯楽。
空の上は娯楽に欠けていた。
「確かに食料はある、しかしここには余剰の資源はほとんど無い」
何か新しい物を作るには何かしらの資源が必要だ。しかし空中都市にあるのは何かあった時の為の予備のみ、当然それを使うことは禁じられている。何か遊びが欲しい、楽しめる何かが欲しい。
「そうだ! 地上の連中を使おう!」
誰かの思い付きが世界を変えることがある。これはその一つだ。
空中都市は世界中を飛び回り地上の浮浪者へメッセージを送った。
『諸君らの尽力に応じて我々の食料を分け与えよう』
ある時、都市が地面へ降り立つと浮浪者の群れがそこに集う。彼らは手に持った様々な資源を彼らに渡し見返りとして食料を貰った。そしてその取引が終わると空中都市は再び飛び立つのである。こうして日々を生き延びた浮浪者は次の取引に備えて新たな資源を探しに向かう。
一方で都市の人々は資源を元に様々な物を作り始める。彼らは都市を空へ飛ばすほどの科学者だ、頭の中から出て来るアイデアに際限は無い。
いつからか都市が地上へ降りることは無くなった。彼らの技術で持ち寄った資源のみを回収できるからだ。空中都市は空中にありながらみるみる拡大を繰り返す。もはや地上にいる者が空中に都市があるのを当たり前だと認識し、あれが空を飛んだ日のことを覚えている者がいなくなった今でもそれは変わらなかった。
男の名はイチョウ、地上を彷徨う浮浪者だ。彼は大地を彷徨いながらかつて人々が過ごしていた廃墟を漁っては空中都市に高く買ってもらえる物を探している。
「さっきの日記は外れだったが、こんだけ本があれば何かしら高く買ってくれるだろ」
彼は廃墟と化した研究所から幾らかの物を運搬用の機械に乗せて出て来たばかりだ。そこは運よく同業の誰も手を出しておらず大量の物がそのまま放置されていた。次に空中都市が来る日を考えると物を精査する時間は無く、彼はありったけの本を乗せて外へ出たのである。夜になると月明かりの元、彼は機械に載せておいた枝木を火にくべて夜の寒さをしのぐ。
夜間の移動は危険だ、しかし寝てはいられない。この間に拾って置いた本を高く売れるかどうか選別しなければならないのだから。
「親父には感謝だな、文字なんて面倒なだけだと思ったが役に立つもんだ」
焚火の明かりを頼りに彼は本を読み進めて行く。
浮浪者の中に文字を読める者は少ない。彼らにそれは必要では無かったからだ。しかし一部の者は未だに文字を伝えられ、そしてその中で運の良い者は地上に残っている本の価値に気付くことが出来たのだ。多くの者がただの紙として空中都市に納品するそれらの価値に。
空中都市において文字は電子機器の中にしか存在せず、紙でできた本の中にはそこに記録されていない物が多々残っている。そしてその中でも空中都市に入ることが出来なかった科学者の研究記録と言うのはかなり高い価値を持つ。彼は子供の頃にたまたま見つけた一冊の研究ノートが数か月分の食料に代わったことをよく覚えている。だから彼はいつもそれを探し続けていた。
実の所、先ほど燃やされた個人の日記は空中都市で娯楽として価値が高いというのは彼には内緒にしておこう。
それはともかく、彼は数日ほどそんな旅をして空中都市が次に現れる場所を目指していた。幸い、あれは一定の周期で様々な場所を巡っているのでどこへ行けばいいか迷うことは無い。時間もまだまだ大丈夫とのんびり運搬用機械に乗って旅をしていたのだが。
「……異世界研究録?」
本の山の中に紛れていたその一冊が彼の人生を大きく変えることとなる。