第四葉:ワタシの本棚(1)
体操服行方不明事件(?)から数日。探し当てられた理由やおかしな態度が気にならないではなかったけど、鳴子には何も聞いていない。それどころじゃなく体調が最悪だから。
「櫂凪ちゃん、大丈夫?」
食堂から戻るなりベッドに倒れ込むワタシを、鳴子が心配する。頭もお腹も痛いし、吐き気でまともに朝食を食べられなかった。不調で不眠になって、不眠で更に不調が増す。経験則では恐らく今日明日がピーク。わかっていても辛いものは辛い。
「へ、平気……。ちょっと酷いだけ……。あと二、三日で治まるから……」
「必要なものとか、して欲しいことがあったら言ってね」
「気にしないで。何かあったら管理者さんいるし……」
無理やり体を起こして、スクールバッグを開ける。せっかく土曜午前の自由時間なのに、図書館どころか自習室にも籠れないなんて……。ん? 図書館?
「あ」
「どうかしたの?」
鳴子が横から覗き込んだ。貸出カードを見られてしまう。
「過ぎてるね、本の期限」
「……忘れてた」
図書館で借りた本の返却期限が過ぎていた。まぁ、月曜に返せば……。うわ、ギリ貸出禁止になるなぁ。
「任せて! わたしが返してくる!」
「ありがと……。……え?」
ワタシから貸出カードを奪い、笑顔の鳴子。
「そんな、悪いよ」
「いいっていいって! ランニングついでだから!」
「ランニング?」
聞いたのはワタシなのに、鳴子は不思議そうにした。
「いつも走ってるよ? ……もしかして、気づいてなかった?」
知らなかった。言われてみれば、鳴子のベッドの下には運動靴の箱があるし、放課後一緒に帰った後、何度か服が変わってもいた。
「櫂凪ちゃん、時間あったら自習室行っちゃうもんね」
部屋中央のカーテンが閉まる。薄っすら見える体のラインの影。着替えているらしい。
ベッドに座り、待つこと数十秒。勢い良くカーテンは開かれた。
「じゃーん! どう? それっぽい??」
オレンジの長袖ジャケットに、黒タイツ黒ショートパンツ白キャップ。いかにもなランニングウェア。両腕を曲げ、片膝を上げて走るポーズ。
「うん。走るの好きそう」
「まぁまぁ好きだよ!」
「?」
ウェアを揃え、一時間そこらの自由時間を走ることに使っていて、『まぁまぁ』なんてことがあるのか。疑問が口をついた。
「まぁまぁ?」
「体を動かすのは好きだから、そう言う意味では好きなんだけど……。同じ運動なら、球技とか水泳の方が好き!」
「じゃあ、走るのは体力作り?」
「それもあるけど厳密には……、体力減らし?」
「減らし?」
聞きなれない言い回し。鳴子は苦笑いしている。
「わたし、昼にいきなり眠っちゃう分、夜の眠りが浅くて。だからしっかり眠るため疲れるようにしてるんだ! ずっと動いてればいきなり寝ないから、ランニングが一番良いの!」
「……ごめん。体質のこと忘れて、デリカシーなかった」
意味がわかって後悔。多分、好きなのに球技や水泳をしないのは、競技中や水中で眠ってしまうせい。
「謝ることじゃないよ! むしろ、忘れててもらえて良かった」
「良かった?」
「気にさせなかったってことだから! じゃあ、わたしちょっと行ってくるね! 安静にして寝てるんだよ?」
「え、と。ありがとう。大人しくしとく」
トートバッグに本と貸出カードを詰め、肩かけに。運動靴を持って鳴子は部屋を出た。扉が閉まり、賑やかだった部屋が静かになる。チェスト上から英単語帳を取り、ベッドに横になって目を通した。時間差で、鳴子の言葉の意味を理解。
「……確かに、気にしたことなかったな」
転校初日以降、鳴子の体質を気にしたことはほとんどない。立ったまま眠ったり食事中に眠ったりしてはいるが、声をかければすぐ起きるし、放っておいても目覚まし腕輪(?)で起きている。
授業中にも時々寝ているが、直近のテストではクラス平均の成績だったとか。ボイスレコーダーや授業動画を活用しているそうで、一度も頼み事(ノートを見せて欲しいとか)をされたことはない。
同じ部屋で暮らしているのに、ワタシは鳴子のことを『やや気が抜けてる子』くらいにしか認識していなかった。
「忘れてて良かった、か……」
頭痛が強まったので、目覚まし時計を全体学習時間の前に設定。不本意ながら少し眠る。夜は眠れないのに、日中になって顔を出す眠気にうんざりした。
~~
「櫂凪ちゃん、今日くらい休んだ方がいいんじゃない? 午後だって勉強してたんだし」
夕食後。部屋で自習の準備をしていたら、鳴子に止められた。
「やる。やらないとストレスだから」
それだけ伝えて、自習道具を持って部屋を出た。二十三時半の完全消灯まで、四時間の自由時間。午前中まともに出来なかった分、しっかり勉強に充てたい。
自習室は、一番乗りで静かだった。寄宿舎と言っても週末は実家に帰る子がほとんどなので、土曜の夜は最も人が少ない。一週間のうちで一番好きな時間。後から数名ほどポツポツ現れたけど、自由時間に勉強する熱心な子だけなので、紙とペンの音くらいしか聞こえない澄み切った空間を味わえた。
「~~舟渡さん、帰るよ」
「えっ……? あっ! わたしの方が起こされちゃった?!」
消灯五分前。自習室を出る前に、机に突っ伏する鳴子を起こす。鳴子は二時間くらい前に来て、寝て起きてを繰り返しながら自習していた。様子を見に来てくれたのだと思う。
「心配かけてごめん。でも毎月のことだから、本当に気にしないでいいよ。前にここで力尽きた時、管理者さんが来てくれたし」
「えぇ……でも……。……ううん、わかった」
ずいぶん悩んだ後、鳴子は分かりやすく納得していない調子で返事。特に話す事も時間も無いので、部屋に戻って各々ベッドに入った。
☆☆☆☆☆
……痛い。そして、息が浅くなるカビの臭い。
「~~きゃはは! さすが~~君。マジ~~ウザいよね~~アタシも~~」
黒ジャージ姿で携帯電話を握る海佳姉ぇの、はしゃいだ声。甲高い笑いが頭痛の頭にキンキン響く。通話している相手は多分、最近できたらしい彼氏。夜中だってうるさく話すのだから、土曜のお昼ならなおさら。抗議の視線を送ったら、銀のラメ入りペディキュアが光る足で蹴りの動き。風邪をひいたワタシが悪いと言っている。
部屋の隅に寄せた布団から体を起こして、近くの布バッグに手を伸ばした。気分転換に本でも読もう。……あれ、ない?
図書館で借りた本が無くなってる。元素図鑑も宇宙の図解も小説も、何もかも。嫌な予感がしてリビングへ。テーブル前の椅子には、ピンクの女児服を着た妹のお団子後頭部。右手に黒のサインペンが見える。
「あ! 真帆!!」
覗き込んで思わず大声。宇宙の図解書は、妹のイタズラで落書きだらけだった。声を聞いて、キッチンから母が近づいてくる。事情を説明しないと。
「お母さん、真帆が汚した! 図書館の本!」
「ちょっと真帆っ、何やってるの!!」
母は妹からサインペンを取り上げ、軽く頬を引っぱたいた。火が付いたように妹が泣き出し、ますます頭が痛くなる。
「あー、もう! これ弁償しなきゃいけないじゃない! ……櫂凪!」
怒り声のまま、母がワタシを呼ぶ。
……なんで?
「櫂凪が出しっぱなしにしてたんでしょ?!」
「してない! バッグに入れてたもん」
「真帆が取れるところに置くのが悪い!」
五人家族、公営住宅2LDK、三人すし詰めの子ども部屋。バッグを置いていたのは、姉妹で取り決めた、ワタシの持ち場である部屋の端。
「ワタシのとこから取る方が悪い!!」
「真帆がわからなかったら意味ないでしょ!! どっちも悪いから、二人とも図書館で本借りるの禁止!!!」
「なんで!! ワタシ悪くない!!!」
「親に口答えしない!!!」
喧嘩ですらないのに両成敗。ワタシまで平手打ちされ、図書館の貸出カードを取り上げられた。妹は図書館に行かないので、損をしたのはワタシだけ。結局禁止は小学校卒業まで解除されず。仕方なく、図書館に入り浸って好きなものは全部覚えた。
ワタシだけの物も時間も、家のどこにもない。……そうだ。それが嫌で、家を出たんだっけ。
~~
景色が変わる。ざらざらフローリングや痛んだ畳の公営住宅は消え、視界に広がるのは深緑並木の坂道。全国模試で良い点を取ったから、担任の先生が色々手配して、行けることになったんだった。
「ここが、夕霞女子学院……!」
オープンスクールで訪れた夕霞女子学院は、何もかもが驚きだった。古いのに老朽化していない中等部、新築最新設備の高等部、我が家よりずっと綺麗な寄宿舎、立派な図書館……。
「夕霞の蔵書数は全国でも屈指。寄宿舎向けに土曜も開館しておりますわ」
ワタシが小五だから、説明してくれたメアさんは中一。そうは思えない落ち着きだったけど。無視しても良かったろうに、メアさんは特待生制度のこととか寄宿舎のこととか、丁寧に教えてくれて。進路を決めるきっかけになった。
「貴女、もう高校の範囲を勉強するくらい優秀だそうね。……わたくし待っておりますから、特待生の権利、ぜひ勝ち取ってみせて」
「なんでですか?」
メアさんは説明の最後に、ワタシを夕霞に誘った。
「熱を、感じたいから」
「?」
「夕霞には熱が無いの。特待生制度は形ばかりで使われないし、進学コースも退屈しのぎでしかない。生まれた時からゴールが決まっている子ばかりだから、仕方がないのだけど。……って、ごめんなさい。わたくしったら愚痴っちゃった」
言葉の意味は入学してわかった。周りの子は全員お金持ちで、どんな進路になってもいずれは、近い家格の相手と結婚し家庭に入る。夕霞はほとんど、花嫁養成学校みたいなものだった。
……まぁ、お金持ち相手なだけに設備や教師陣は揃っている上、ガツガツした人もいないから順番待ち無く学べて、ワタシには都合良かったけど。同級生と話が合わないとか、庶民だと区別されるとか、ちょっとの悪口とか。そういう多少の面倒くささはあっても、自室や図書が自由に使える快適さと比べたら、些細なこと。
そうしてワタシは多くの知識を学んで、手に入れた。……はずなのに。
~~
再び景色が変わる。真っ暗闇に遍在する星の光。辺りを漂うたくさんの本棚。ここはワタシの頭の中。本棚を埋めているのはワタシの知識。
手近な本棚から一冊取る。高校数学の本。……うん。全部埋まってる。今度は現代文の本。全部埋まってる。世界史は、英語は、物理は、生物は……。
「ッ! またっ!!」
音楽の本になぜだか挟まる、学校行事のオペラ鑑賞。近くに居た子が周りの子に『もうずいぶん観てる~~』とか、『この歌手は~~』とか、内輪話や蘊蓄をつらつらと話すところ。要らないのでページを破って捨てる。
「どうして!」
家庭科の本には、レストランでのテーブルマナー研修が。同じテーブルの子が何かにつけて、『使い慣れてないのね』と煽ってきた。これも要らない。捨てる。
「……」
日本史の本に、茶道体験授業が混じっていた。不格好なワタシに、ドヤ顔で腕前を披露する沙耶。沙耶は……。いや、これも要らない。ページを切り取って捨てる。
捨てる。捨てる。捨てる。
覚えてしまったことを捨てる。ワタシの中には、ワタシが欲しいと思ったことだけあればいい。手に取ったバレエの本には、制服でくるくる回るメアさんの姿。
これは──。
「──どうして捨てないの? 全部同じことでしょう?」
声がした。陰気で細い、ワタシの声。制服姿のワタシが長い髪を垂らして、座るワタシを見下ろした。開いていた本が奪われる。
奪ったワタシは、さっきワタシがそうしたようにページを掴んで……。
「止めて! それは捨てないで!!」
「勝手に入ってくることなんか、忘れてしまいたい。それが、ワタシの願い」
「あ……、あ……」
止めたいのに、体が上手く動かない。立ち上がることもできず、ページが千切られるのをただ、見上げるだけ。
ビリ、と破けたページは捨てられ、宇宙のどこかへ──。
「──捨てちゃダメーーー!!」
再び声。今度は別の人の。聞いたことのある女の子の声でいて、一度も聞いたことのない強い語気。
「「なに?」!」
立っているワタシも、座っているワタシも視線を向ける。声の主、制服を着た鳴子は手を伸ばして、勢い良く飛んだ。
「櫂凪ちゃんっ! 本当は何も、捨てたくないんだよね?」
「鳴子?!」
「?! わたしのこと、名前で呼んでくれてたんだ!!」
鳴子は笑顔で、宇宙を漂うページを掴み取る。
「おっ、とと」
そのまま手足を動かして遊泳。ワタシの元へ。
「どうして鳴子がここに?」
「それは……。ごめん、説明する時間は無いみたい」
尋ねるワタシに、鳴子はページを押し付けた。
「櫂凪ちゃん。本当の願いを思い出して」
「本当の、願い……?」
答えを聞くことは叶わなかった。もう一人のワタシが鳴子に平手打ち。途端に鳴子の体は、光の粒子になって消えてしまう。
カンコンと、鐘の音が聞こえた。
☆☆☆☆☆