第三葉:舟渡鳴子(1)
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久しぶりに、ワタシはそこに居た。宇宙の暗闇に浮かぶ無数の本棚。いっぱいに詰まった本は、ワタシの宝物。自由に飛んで表紙を眺める。手に取ってパラパラとめくる。ワタシの学んだことだけが、手に入れたことだけがここにはある。……はずなのに。
「~~く素敵~~所だね」
「アナタ誰? どうしてここに?」
微かに聞こえた誰かの声。声の主は遠くにいて、姿はハッキリ見えない。細長い何かの上に立ち、こちらを見つめていた。
「わたしは──」
誰かの言葉は、カンコンと響いた鐘の音でかき消された。
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「うるっさい! もう起きたって!」
しつこい鐘の音に悪態をついて起きる。向かいのベッドからゴソゴソ身動きする音が聞こえて、『しまった』と焦るところまでがワンセット。
「ん……」
「ごめん、舟渡さん。叫んでうるさかったよね?」
とっくに相部屋だった。中等部の二年間、長らく空いていた部屋の反対側は今や、同居人のもの。殺風景なワタシの側と違いたくさんの小物で飾られている。壁には写真や時間割などを貼ったコルクボード、チェスト上には写真立て(家族四人の写真入り)、ベッドのフレームには、蜘蛛の巣みたいな海外の民芸品。民芸品はドリームキャッチャーと言うらしいけど、蜘蛛は苦手だからちょっと怖い。
「気にしてないよ。おはよう、櫂凪ちゃん」
目をこすりながら鳴子が起きた。ひよこのイラストが沢山あしらわれた、橙色のパジャマが可愛い。
「おはよう。舟渡さん」
「……」
上半身を起こした状態で、鳴子は半開きの目を数回瞬き。両手を天に突き出した。
「起きた! 顔洗いに行こうっ!」
「う、うん」
目が覚めさえすればいきなり元気で、いつも驚いてしまう。
「髪、梳くの手伝おっか?」
ヘアブラシ片手に聞かれた。短いから早いのか。
ワタシの長い髪がブラシについたら悪いので、丁重にお断り。
「大丈夫。テキトーに留めるか結ぶだけだから」
「ええー、せっかく綺麗に伸ばしてるのにもったいないよー」
「伸ばしてない。ほっといたら伸びただけ」
雑な一房に髪をまとめるワタシを見て、鳴子は自分のふわふわ髪の毛先を、掌で上下に遊ばせた。
「羨ましいなぁー。わたしは伸ばしたら大爆発しちゃうから」
「ワタシからすると舟渡さんの方が羨ましいよ。ゆるふわで可愛いし、似合ってる」
「そ、そんなことないよー。櫂凪ちゃんだって──って、時間!」
照れて謙遜する鳴子が、チェスト上の時計を見て立ち上がる。こちらも支度が済んだので、タオル等を持って部屋を出た。
洗面室までの廊下。向こうから歩いてくる数人の下級生。ワタシが咳払いするうちに、鳴子は片手を上げて朗らかに一声。
「ごきげんよう!」
まだ挨拶の範囲には遠い気が……じゃない。続かないとタイミングを失う。
「ご、ごきげんよう」
ワタシが言い終わるかどうかのところで、もこもこパジャマ姿の下級生が会釈。
「「「ごきげんよう」」」
鳴子も会釈して、すれ違い様に軽く声かけ。
笑顔を添えて。
「良い朝だね! 田辺さん、三矢さん、菱山さん」
「あ、はい」「良い朝ですね」「どうして名前を?」
「毎日すれ違ったら覚えるよー! じゃあ、またね!」
名前を呼ばれた下級生が驚いている。ワタシも驚いている。彼女らと一年間は一緒に暮らしているのに、初めて名前を知った。
「よく下級生の名前覚えられるね」
「話せたらだいたい覚えられるかなっ」
胸を張って自慢げな鳴子。
「ワタシは全然だわ。何回か食事の班になった子でも怪しい」
「櫂凪ちゃん、勉強得意なのに意外だね」
家族からもよく言われること。たまに帰った実家で学校の話をしないワタシに、母や妹がいつも繰り返してくる。何度聞かれようと、答えは同じ。
「だって興味ないし」
「えっ……」
驚かれた。さすがに嫌われるかもしれない。もしくは家族みたいにガッカリするかも。いくつか反応を想定して身構えたけど、続いたのは想定外の言葉。
「じゃあ、勉強に興味があるってこと?」
「え? まぁ、そうなるかな」
「すごい! わたしも興味が持てたら、櫂凪ちゃんみたいに賢くなれるかなー!」
目をキラキラさせて、というのは本当にあるんだなと思った。ワタシの言葉の良いところだけを取って明るく……これだ。体感してみて、同じクラスの子達の気持ちがわかった。転校してきて三週間、鳴子はフレンドリーとは言えない生徒ばかりのこの学校に、見事に馴染んでいる。ワタシと同じ異物にも関わらず、だ。
その理由の一つが、この朗らかで素直で、ポジティブな性格。言動や行動に嫌味が無く、話しているうちに自然と距離が縮まっていく。『さん』付けから『ちゃん』付けに変わったの、いつだったんだろう。気づかなかったし、悪い気もしていない。
……あ。何か言ってあげないとマズイ。鳴子もなれる、とか。ちょっと鼻につく感じだし無責任過ぎるか。一般論として勉強に興味があれば捗るけど、ほとんどの人はやったまま覚えられないらしいし……。
返答が浮かばず、チラリと顔色を伺う。
鳴子は小声で何か言っていた。
「~~そっか。だから、あんなにたくさん──」
「──だから? たくさん??」
聞き返したら、掌を横に振って慌てられた。
「あ、いや! だから、たくさんのことを知ってるんだなって!」
「ワタシ、そんな蘊蓄話したっけ?」
「たぶん?」
謎に疑問形。その後はいつも通り、身支度して別々の朝食班で食事を取った。黙々と食べるだけのワタシと違って、鳴子はちゃんと、班の人とお喋りする。だから部屋に戻るのはワタシの方が早い。一足先に着替えて登校準備。自習室に籠った。
~~
間仕切りされた机が並ぶ自習室。いるのはワタシだけ。ペンの音、消しゴムの音、本をめくる音。ワタシの行動で起こる音だけが聞こえる、心安らぐ時間。大学の受験前でもなければ、朝は大体こんなもの。朝食を急いで済ませても、登校まで三十分あるかないかなので、おかしくもない。
「ん。もうこんな時間」
ノートや筆箱をバックに詰め込み、放送に急かされる前に自習室を出る。鳴子が来てから勉強を少し短く切り上げて、一緒に登校しているから。いくらワタシでも、同室・同学年・同クラスの転校生を一人にするほど薄情ではない。数少ない庶民仲間(?)なのだから、なおのこと。
「お待たせー。……あれ? その格好──」
「──驚かせようと思って! お古をいただいたんだ!」
自室を開けて目に飛び込んできたのは、ワタシと同じ茶色の制服。待っていたらしい鳴子は部屋の真ん中で、体を右に左に半回転。膝下丈のチェック柄スカートがふわりと広がった。
茶っぽい髪色と制服の色が合っていて、宣伝モデルと言われても信じるしっくり具合。
「似合ってる。すごく」
「嬉しい! こうしたらお嬢様っぽいかな?」
スカート側面をつまんで片膝を後ろに、膝を折ってカーテシー。
「どうだろ? 学校でそれ、あんま見ない気がする」
「そっかー」
少し残念がって、鳴子はスクールバックを肩掛けに。
一緒に出発した。
「お古を貰ったって、誰から?」
「貰ったのは同じクラスの~~ちゃん。でも、制服はまた別の人のだよ。~~ちゃん、下の姉妹がいない知り合いに、声をかけてくれたらしくて。お礼は断られちゃったけど、お手紙を送ろうと思ってるんだ。今日~~ちゃんと一緒に写真を撮って添えたら~~」
そこまで人に可愛がられているとは……。話を聞いて驚くと共に予感がした。今日はもしかしたら、【鳴子の凄さを思い知らされる日】なのかもしれない。
~~
ワタシの予感は的中した。三限目の体力測定の時間。日差し降り注ぐ校庭で鳴子は、陸上部のエース【小清水涼香】から熱烈な勧誘を受けている。ミュージカルの男役が如く、凛々しくも爽やかな声で。
「鳴子さん、私と陸上をやってみない?」
「えっと……」
優雅に片手を差し出す、高身長アスリート体型・日焼け褐色・黒髪ショートカット・ボーイッシュ少女。やや高身長・健康優良・茶髪ゆるふわミディアムヘア少女は、頬を染め愛らしく戸惑った。涼香も鳴子も半袖半ズボン体操服ながら、主人公とヒロインに見える気がしないでもない。背景で花が咲いていそうな、少女マンガのビジュアル。
まぁ、戸惑う鳴子が頬を染めているのは、ついさっき百を超える回数も二十メートルシャトルランを走ったせいだけど。……だよね?
「わたし、その、スタート合図を待ってる間に眠っちゃうから……」
「心配しないで。フィールド競技ならスタート難も多少フォローできると思うから。跳躍も投擲も、鳴子さん凄い結果を残せるはず。陸上をやらない手はないよ!」
断る鳴子に涼香はひと押し。そう言いたくなるのもわかる。鳴子は走る種目でこそ僅差で涼香に及ばなかったが、握力や反復横跳び、ボール投げでは勝っていた。これで運動部の経験は無いというのだから恐ろしい。草花を愛でてそうな可愛い顔をしておいて、とんでもないフィジカルモンスターだったのだ。
再びの誘いに対し、鳴子は答えと同時に頭を下げた。
「ごめんなさい! わたしっ、人の注目が集まるの、苦手なんです!」
あ、そっか。陸上のユニフォームって、動きやすさ重視過ぎるから……。男の人が苦手らしい鳴子からすれば、注目が集まる服装は嫌なんだろう。スタイルも良いし。事情を知らない(かもしれない)涼香に伝わるかな……。
様子を心配していたら、涼香は眉をハの字に困り顔で笑った。
「それなら仕方ないね。強引に誘ってごめん」
「気にしないで! 褒めてもらえて嬉しかった!」
「褒めるとも。私についてこられるなんて、夕霞では鳴子さんが初めて。良く鍛えているね」
顔に似合わずバリッとしたふくらはぎを見て、感心する涼香。鳴子はちょっと照れつつも嬉しそうにする。それはセーフなんだ。
~~
昼休み。ワタシにとっては最もツマラナイ時間。でも、鳴子にとっては違う。
「櫂凪ちゃん! 一緒にご飯食べない?」
「遠慮しとく。早く図書館行きたいし。無理して誘わなくていいからね?」
「無理してないよー。いつか一緒に食べたいから、また誘うね!」
購買で一番安い総菜パンを買って、教室へ戻る道すがら。同じく購買を利用する鳴子はいつも、ワタシを昼食に誘った。鳴子だけなら応じても良いが、そうならないから毎回断っている。
教室に戻ってからは、それぞれの席へ。給食でもないのに食事は必ず教室で取らないといけないのが煩わしい。誰かしらと席をくっつけるクラスメイトを横目に、一人で食べる。
水筒の水でパンを流し込んでいたら、前で机五つ分の島を作っている沙耶が振り向いた。
「櫂凪。いい加減その品の無い食べ方を止めてちょうだい」
「沙耶に迷惑かけてないでしょ」
「馬鹿ね。貴女がそれで喉に詰めて、救急車でも呼ばれてみなさい。夕霞女子学院が世間から笑いものにされてしまうわ」
そこまで言って、沙耶はジロジロとワタシの買ったパンの包装紙を見てくる。
「栄養費、出てるんでしょ?」
「それが何?」
「減らされでもした?」
「違うけど」
「じゃあ節約?」
「してない。領収書提出制だし」
「じゃあ間違ったダイエット」
「してないって」
沙耶は溜息をついた。
「はぁ。だったらもっとちゃんと食べたら? 貴女、やたらに背が伸びたんだから。そんなんじゃ育たないわよ」
体をねじってワタシを向く沙耶は、わざとらしく胸を張って見せる。伝えたいのは、プロポーションの良さ。平坦痩せ身のワタシと違って、沙耶には確かな《《メリハリ》》がある。
「別にどうでも。アンタと違って婚活に興味ないし」
「ふんっ。わかってないわね。増えて栄えるは生物の基本。ウチの優秀な遺伝子を次世代に残さなきゃ、世界の損失だもの。それに、一代限りじゃないから先のことを考えられるの。家も国も、そういうものでしょ?」
ドヤ顔。沙耶にとって勉強や趣味の武道は、自分の魅力(知力、体力、忍耐力、健康な肉体など)を高め、アピールするためのもの。優秀な旦那を捕まえて跡継ぎを作り、家を繁栄させるんだとか。中三とは思えない、なんとも高尚な考え方。
同じ増えるでも、増えて困窮している我が家とは大違い。狭い部屋を思い出して気分が下がった。
「はいはい。ご立派なことですね、沙耶様は」
「ええ、立派よ。と言うか、本当にわかってないみたいだから、もう一回言ってあげる。健やかさや逞しさの力を軽視しないこと。あらゆる場面で役立つのだから。今後はしっかり食べなさい。貴女一人に施すのをとやかく言う小物なんて、この夕霞にはいないもの」
返答を待たず、沙耶は前に向き直った。……パン一個にしてるのは、早く食べ終えて図書館に行きたいからなんだけど。それに沙耶が違うだけで、ワタシが学費その他を免除されていることを嫌う人は、そこそこいる。
食べ終わって即、鞄を持って席を立った。教室前方の扉から出る時に一瞬だけ、近くで席を固めるグループと目が合う。机に化粧品を広げた、派手な茶色巻き髪の【権真理華】と、取り巻き数人。
視線を外して扉に手をかけても、何も言ってこない。嫌がらせしてきていた中一の頃とは、えらい違い。教室を出て廊下へ。曇りガラス窓の向こうの会話が、ちょっとだけ聞こえた。
『アイツ、上から目線でマジ調子ノってる。実もそう思うよね?!』
『えっと、その……』
『実んちの寄付金、アイツに使われてんだよ??? それであの態度は絶対、調子ノってるって!!!』
『う、うん……』
『あ、そうだ。いいこと思いついた。この後さ~~』
気弱な声の子に、何やら言う真理華。小声だしどうせツマラナイ話なので、構わず図書館に行く。圧をかけられていたのは多分、【小野里実】さん。背が低くて大人しい……もしかして、沙耶が言っていたのはそういうこと?
ワタシが何もされなくなったのは、中一の途中から背が伸びて、真理華よりずっと高くなったから、かもしれない。痩身のままだと迫力が無いって言いたかったのか。
考えてみれば鳴子も転校翌日、真理華にちょっかいをかけられていた(冗談にカムフラージュして肩を強く押されていた)けど、ビクともしないで普通に笑っていて……。それ以降、真理華に絡まれていない。なるほど。
昼休み以降、真理華の嫌がらせを一応警戒してみたものの、変わったことはなかった。
~~
「む」
終礼が終わり、教室後方のロッカーを開けて気づく。ない。面倒だな。空きロッカーにも……ない。ベランダは──。
「──櫂凪ちゃん、一緒に帰ろう!」
「あー……、探し物あるから、舟渡さんは先に帰ってて」
声をかけてきた鳴子に、掌だけで返事。
残念ながら聞き分けてもらえず。
「探し物って?」
「体操服。失くした」
「……誰かにイジワルされた?」
意外にも直球で聞いてきた。心配されたくないので、軽く返す。
「恐らくね。たまーにあることだから。気にしないで」
「気にするよ! わたし、聞いてこようか?」
鳴子は僅かに鼻息を荒くした。聞くってことは、目星がついてる。ほわほわしているようで耳聡い。ワタシも、鳴子と同じ相手に視線を向けた。三つ編みお下げ髪で丸眼鏡の小柄な女子と、目が合う。女子──小野里さんは自覚があるのか、ビクリと肩を震わせた。
「ほっといていいよ。別にやりたくてやってないだろうし」
体操服隠しの実行犯なのは間違いない。だけど聞く気にはなれなかった。
「……。櫂凪ちゃんがそう言うなら聞かない。許してあげて優しいね!」
誤解されたので、首を横に振って返事。
「ううん、普通に恨んでるよ。一秒でも長く勉強したいのに、こんな無駄な時間をさ」
不憫だから攻めないだけで、それなりに腹は立っている。つい語気が強まってしまったせいか、鳴子は視線を落とした。
「ご、ごめん」
「なんでよ。舟渡さんは悪くないから」
「……」
目を瞑って考え込んでいる。……違った、寝てる。
「おーい、寝てるよー」
「っ、はっ! ねぇ櫂凪ちゃん、こっちに来て!」
目を開けるなり、鳴子はワタシの腕を取った。力が強い。
「ちょ、いきなりなに?!」
「いいからいいから!」
ぐいぐい引っ張って、教室の外へ。
目的地は最寄りの女子トイレ。
「舟渡さん、我慢してたの??」
「ち、違うよ! たぶん、ここに──」
綺麗に清掃されたトイレの一番奥。鳴子は腕まくりをして、掃除用具入れの扉を開いた。
……は?
「──ワタシの?!」
水を張った床拭きモップ用バケツに浮かぶ、体操服袋。もちろん、ワタシの。入ってるのはいい。でも、どうして……。
「なんでわかったの???」
「あっ、えっと、それは……、勘?」
回答に困る鳴子。本人が疑問にする通り、勘と言うには、見つけるまでに迷いが無さ過ぎる。事前に知っていたとか、見ていたとかでないと説明がつかない。でもそうだとしたら、教えるメリットが──。
「──ふ、舟渡さん、汚れてるから!」
「勘だなんて、変だよね。でも……」
考えは頭から飛んで行った。鳴子は迷いなくバケツに素手を突っ込み、体操服袋を回収。中身と袋を流し台で水洗いして、ぎゅっと絞る。
「本当に、わかっちゃっただけなんだ。わかったら、やらなくちゃって、それだけ。……こんなの、気持ち悪いよね?」
苦笑い。困っていそうな、苦しそうな。なんとも言い表せない含みを感じる表情だった。