第二十九葉:夜を想う
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身支度のお手伝いスタッフさんも帰ってしまって、執務個室にいるのはワタシ一人になった。デスク上の小ぶりな時計を見てそわそわ。落ち着かなくて、ソファに座っていられない。
「……やっぱやめとこ」
右往左往しようとして、怖くなって止め。ドレスの裾をひっかけたり踏んだりしたらまずい。緊張で喉が渇いてきたけど、ワゴンからお紅茶をいただくのも止め。零すのが恐ろしいし、トイレも大変だから。
「はぁ……。ワタシなんかでいいのかな」
扉横の姿見鏡を見る。映っているのは、黒・濃紺・青がグラデーションになったドレスを着た、痩身のワタシ。メイクをしてもらったり髪型をゆるふわハーフアップにしてもらったりと着飾っていても、素材がワタシの時点でメアさんの隣に相応しいとは思えない。
「これも……」
デスクから白い花のプロムブートニアを取って、左腕につけた同じ花のプロムコサージュと見比べる。どこにも隙がなく綺麗なコサージュと比べて、ブートニアはワイヤーやテープの処理が荒い。
「大違いだなぁ」
コサージュはメアさんが作ったもので、ブートニアはワタシが作ったもの。お金を持っていないので、お花も材料も全部メアさんに用意してもらった。同じ材料で、作り方を教わり、いくつも作って練習したのに、完成品の出来上がりは大違い。……と、言っても相手が相手。なんでも超人のメアさんが上手過ぎるのかも。
何にせよ、渡すのも億劫だし、横に並ぶのも億劫。
プロムに出るのが怖くなってきた。
そう思っていた矢先、扉の取っ手がカチャリと動いた。現れたのは、燕尾服に身を包んだメアさん。頬が赤くて、息の度に肩が小さく上下してる。
「お待たせ、櫂凪ちゃん。そろそろ行きましょうか」
「は、はひっ。……大丈夫ですか? お疲れに見えますけど」
メアさんは、鏡と向かい合って苦笑い。
「言う通りだわ。休みなく踊るのは毎年のことだけど、今年は早々に疲れちゃったみたい。鳴子ちゃんのおかげで皆、忙しい種目でもすっごいやる気だから」
「鳴子の?」
「わたくしと鳴子ちゃんで、デモンストレーションをやったの。でもごめんなさい。気が回らなくて、櫂凪ちゃんが見られない段取りにしちゃっていたわ」
肩を落としてメアさんが俯く。確かに残念。だけど文化祭の準備とか日々の諸々によるメアさんの忙しさを思うと、多少の抜けくらい人間味を感じてむしろ良い。
「気にしないでください。演技が見られなかったのは残念ですけど、大丈夫です。いつも完璧なメアお姉様の珍しい一面が見られて、ラッキーだなって」
「ありがとう。鳴子ちゃんも同じように励ましてくれたわ。二人とも優しいのね」
メアさんが表情を明るくする。
……そうだ。今のうちに渡しちゃおう。
「メアお姉様、これ……。不格好なので、嫌でしたらつけていただかなくても──」
「──そんなことないわ! 嬉しい!」
差し出したブートニアを、メアさんは一瞬で受け取った。上機嫌で襟元につけ、鏡でチェック。そして、満面の笑み。
「櫂凪ちゃんも、こっちに来て」
ワタシも鏡に映るよう肩を抱き寄せられる。二人並んだ姿を見て、メアさんはさらにご機嫌に。さっきまでの疲れた様子もなくなってる。
「バッチリね。さ、お手をどうぞ」
差し出される左手に、右手を重ねて。
先導するメアさんに続いて部屋を出た。
「自信を持って歩けば、裾は引きずらないわ」
「はいっ……」
何度も裾を見ながら廊下を歩くワタシに、アドバイス。『自信』、その言葉は、ちょうど気にしていたことでもあって。
「あの、メアお姉様。伺ってもよろしいですか?」
「もちろん。遠慮しなくていいのよ」
優しく言われて一呼吸。
意を決して、一番の疑問を尋ねる。
「……どうして、ワタシなんですか?」
人気のない廊下の静けさを感じる間もなく、メアさんは答えた。
「櫂凪ちゃんが素敵だから。隣に立っていてほしいと思うくらいに」
「でもワタシ、メアお姉様みたいに完璧じゃないです。教えてもらったのに、ブートニアも上手く作れなかったし……」
次のお返事も、滞りなく。
「完璧じゃなくたって、貴女は魅力を持っているわ。お勉強は、わたくしよりも得意になったでしょう?」
「今はそうですけど、それだけです。メアお姉様が専念すれば、簡単に抜かされます。それに、ワタシより上の順位の人は全国にいますから」
大学模試の順位ではわずかに上回っていても、他に何もできないワタシと違って、メアさんは語学も教養も運動もダンスも何でもできる。比べたら勉強が得意などと、とても言う気にはなれない。
クスリと、メアさんは笑った。
「うふ。櫂凪ちゃんったら、わたくしをこの国一番の女と思っているのね」
「そ、それは……、話の流れではそうなりますけど──」
「──こういう時は訂正しなくていいの。その方がわたくし嬉しいから」
「うう……」
言い負かされて(?)言葉に窮していたら、メアさんは急に立ち止まって手を引いた。
美しいお顔が目の前になって、体が固まる。
「櫂凪ちゃん、ちょっといい?」
そう言って触れたのは、結び目を首の横にして巻いたスカーフの、花弁に似た結び目の布。愛おしむような、優しい手つきだった。
「完璧じゃない貴女がいいの。たった一つだとしても、自分の魅力を自分で育てて、懸命に夕霞で咲いた貴女が」
身に余る言葉。胸が熱くなる。
メアさんは小さく首を傾げて、ワタシに聞いた。
「覚えているかしら。昔にした、『夕霞には熱が無い』って話」
「オープンスクールの時の……。生徒にやる気がない、みたいな話ですよね。特待生制度とか進学クラスとか、利用する人がいないって」
「覚えていてくれたのね。実はその話、わたくしのことも含んでいるの。わたくし、何をやっても上手くいってしまうのが退屈で、本気になることがなくってね。さっきわたくしに『専念すれば』と言ってくれたけれど、専念するほどの熱が湧かないんだから、お勉強で櫂凪ちゃんに勝つ日はこないわ」
そう話すメアさんはどこか寂し気。けどすぐに笑顔が戻って、スカーフに触れていた手がワタシの頬に動く。掌の温もりが伝わった。
「ひたむきな貴女の熱が、物事に打ち込む力強い気持ちが、わたくしには眩しい。櫂凪ちゃんを素敵に思っている一番の理由は、わたくしには無い『熱』を持っていること。……これで、納得してくれたかしら?」
「メアお姉様……」
自分がこの人の【特別な存在】である気がした。もしかしたら、本当に、と。
ワタシの頬から掌を離して、メアさんが後ろを向く。
「わたくしのも皺の……、夕顔の花にして」
「……変に思われますよ、いいんですか」
「いいの。貴女と同じにしたいから」
髪を飾る白スカーフの花弁を、ちょっとだけ揉んで皺にする。
言い聞かせる調子でメアさんは言った。
「櫂凪ちゃん自身がそうであるように、櫂凪ちゃんの魅力がわからない人もいるかもしれない。夕顔のスカーフが、ただの皺スカーフに見えるみたいにね。でも、わたくしはそれでかまわないの──」
良い感じの皺ができたところで、メアさんが振り返る。
そして、両手を広げてワタシを……抱きしめた。
「──櫂凪ちゃんの内側で滾る熱を、わたくしだけが知っていれば、それで」
体が熱い。どちらの体温なんだろう。とにかく熱い。……あぁ、もう。
メアさんは離れて、名残惜しさで追いかけるワタシの手を取った。
「なんて。わたくしにもプライドはあるから、貴女のこと、必ず輝かせるつもりよ」
火照った体と頭で歩いていたら、気づけばそこは体育館の玄関。会場への扉は、あと一つ。人がたくさんいるだろうに、不思議と気にならなくなっていた。
扉は、横のボランティアの人達が開いてくれて。
眩しい光の中に、ワタシは足を踏み入れた。
「自信を持って、わたくしに身を委ねてちょうだい。そうしてくれたら、貴女の内側の魅力を透明な百合の紋章の冠にして、頭上に輝かせてみせるわ。皆に今年の夕霞プロムクイーンが誰なのか、わかるようにね」
~~
自信、身を委ねる、自信、身を委ねる、自信、身を──。
「──よろしくね、櫂凪ちゃん」
「ひ、ひゃい! ……あれ?」
いつの間にかワタシはダンスホールにいて、メアさんと向かい合って構えてる。……なんで? なんででもない。入場したからに決まってる。記憶が飛ぶとか、いくらなんでも緊張し過ぎ。ピアノの音まで聞こえてきた。
えっと、なんだっけ、そうだ、三拍子。やばい、始まる……!
「踊れるルーティンは知っているから安心して。ボックスから始めましょう。1、2、3、1、2、3……」
ボックス。鳴子とたくさん練習したので、それなら。メアさんが動き始めて、いくらか気持ちが落ち着いてきた。どこかで見ているはずの鳴子を探す余裕は……さすがにない。
「鳴子ちゃんなら今、お父様と踊っているわ」
「……え?」
視線を動かしただけで、意図を汲んでくれるメアさん。凄い洞察力。
それはそうと、鳴子が理事長と……、男性と踊ってる???
「理事長と……って、本当ですか?!」
「ええ。鳴子ちゃんが頼んだそうよ。ほら」
「ホントだ……」
ターンで向きが変わって、人混みの先に理事長が見えた。踊ってる相手は背中向きだから顔は見えない。でも、ふわふわミディアムヘアは鳴子で間違いない。男の人が苦手なのに、いったいどうしたんだろう。しかも、鳴子から頼んだって……。
「苦手を克服しようとしているんじゃないかしら。鳴子ちゃん、がんばりやさんだから」
「! ……そうですね。鳴子はとっても、がんばりやです」
ここ二ヵ月間で鳴子にしてもらったことの数々が、頭をよぎる。ほぼ指導みたいなダンスの練習相手に、美容の手伝い、文化祭準備での孤立防止など。自分のことだけで良かったワタシと違って、大忙しだったはず。
……とか考えていたら、メアさんのリードが少し変わった。
「リバースやシャッセ、スピンを入れてみましょう。櫂凪ちゃんも挑戦よ」
「は、はいっ!」
鳴子との練習では、成功率五割くらいだった動き。難しくても、せっかくなら──うわ、どっち向きかわかんなくなってきた。
「大丈夫。良く踊れているわ。櫂凪ちゃん」
「あ、ありがとうございます!」
できてた、らしい。必死過ぎてわからなかった。身を任せている間に動作が決まっていくのは、練習の成果なのか、メアさんのおかげなのか。……とにかく。
鳴子、見ててくれたかな?
そのまま、踊れるルーティンを数セット。後になるほど慣れてきて、最後の方はとっても気持ち良かった。だけど。
「櫂凪ちゃん、ちょっといいかしら」
「はいっ、なんでしょうか?」
返事をした瞬間、メアさんが耳打ちの距離まで顔を近づける。
振り付けにない動き。どうしたんだろう。
「汗を拭くために戻りたいの。連れて行ってくださらない?」
頬がまた赤くなってる。それに、背中に触れる手の力も弱くなってるような。
「汗を……、わかりましたっ。執務個室ですよね?」
「お願い。わたくしったら、ハリキリ過ぎて疲れちゃったみたい。ごめんなさいね」
「そんなこと! 一緒に踊れて嬉しかったです。ワタシが支えますから、任せてください!」
幸い、出入口が近く曲も終わり際。演奏が止まって即座に、メアさんの手を取り扉へ急ぐ。後ろが少し騒がしかったけど、人が集まったら悪いので気にせず進んだ。
~~
玄関口から校舎の渡り廊下を通過。だんだん人が少なくなり、執務個室前はほとんど無人。メアさんに鍵を開けてもらって二人で入り、落ち着けるよう速やかに鍵を閉めた。
「大丈夫ですか? メアお姉様」
「おかげ様で。だけど、今年はここまでにしておくわ。去年は折り返しまで居られたのに、わたくしったらだらしないわね……」
ワタシに肩を預けて、残念そうに言う。疲労で赤く上気した頬や荒い息遣いがやたらに色っぽくて、状況を弁えずにドキドキ──じゃない!
体力を使い果たすまで皆と踊ったんだから、メアさんが責任を感じることは全くないって伝えないと。
「だらしなくなんか! 期待に応えるためだとしても、がんばり過ぎなくらいです!」
「……わたくし、がんばっていたのね。また会場に顔を出せるかわからないから、ここでお別れを言っておくわ。櫂凪ちゃん、今日はありがとう。今までで一番楽しかった」
「ワタシもです!」
「それじゃあ、わたくし着替えるから……」
ふらふらとクローゼットまで歩いて、ゆっくりした動きで制服を取るメアさん。……とても心配。せめてもう少し、一緒に。
「あ、あのっ。ワタシ、着替えが済むまで待ってます! プロムは中休みですし、後半までに戻れれば良いので!」
心配、その気持ちだけのつもりだったのに、返事を聞いて嬉しくなる自分がいた。
「……嬉しい。櫂凪ちゃんとこうしていられるなら、がんばった甲斐があったと思えるわ」
「言い過ぎです、ワタシにそんな価値──」
「──またわたくしの評価を否定しようとしていて?」
しまった。メアさんがおふざけ顔をしているから、今度は冗談だってわかるけど……。ついつい謙遜……ううん。自分を卑下してしまった。人の評価を、気持ちを否定するのは良くないって学んだばっかりなのに。
「い、いえ。喜んでもらえて、嬉しいです」
「そうそう。誇ってくれていいの。わたくしこっちで着替えるから、櫂凪ちゃんはどうぞソファに座って」
「メアお姉様がこっちじゃなくて良いんですか? お疲れでしょう?」
「そちらの方が良いは良いけど、櫂凪ちゃんを座らせるには、こちらの幅は狭いわ」
ソファに座ることを促されたのは、ワタシがデスク周りでドレスの裾をひっかけないようにするための配慮、みたい。『それなら立ってます』と言いたい気持ちを抑えて、素直に指示に従う。せっかくの好意を拒むのは良くない。
「わかりました。お言葉に甘えて、こちらで待たせてもらいます」
「うん。ゆっくりしていて。カーテン、閉めさせてもらうわね」
ワタシがソファに腰かけてから、メアお姉様はカーテンを閉めた。
スカーフを外して髪を解く音が聞こえる。
「灯りを消しても良いかしら? わたくし、明るすぎると落ち着かなくて」
メアさんの意外な(?)一面。ワタシみたいに、貧相な痩身がみすぼらしくて嫌とかならともかく、メアさんくらいの美貌でそんなことあるんだ。
「いいですけど、暗くないですか?」
「今夜は良い天気だから、ブラインドを調整すれば問題ないわ」
「そっちの方が恥ずかしい気がしますけど」
電灯が消えて部屋が暗くなる。ブラインドの角度が変えられて、天井近い高さの横長窓から月光が差し込み、室内は青く照らされた。
「うふふ。お月様なら覗けるかもね」
パサ、とジャケットがかけられる音。カーテンに薄っすら浮かぶシルエットが動いて、最初に上を、次に下を脱いだ、と思う。まじまじ見ちゃダメなのはわかってる。でも、ソファの向きがそうなってるから仕方ない。
ほとんど体のラインそのままのシルエットが数歩動いて、何かを探してガサガサ。甘いフローラルの香りがしてきたから多分、汗を拭くシートみたいなやつ。片手を上げて……は、さすがに見ないでおこう。ワタシも疲れたし、ちょっと休憩……。
☆☆ ☆
「……ん」
……ねてた。暗かったし、緊張の糸が解けたのかも。着替える前に飲んだ紅茶の、リラックス効果の影響もあったりして。今、何時かな。早く会場に戻らなきゃ。
というか、メアさんは──。
「──メアさん……?」
今の今まで重たく感じていた瞼が、開いた状態で固まる。半分くらいカーテンが開いていて、メアさんが立ってた。月明かりの青に照らされる、同じ色の下着。メアさんが身に着けているものは、他になくて。
「……こっちに、忘れ物ですか?」
「いいえ。何も」
「だったら、どうして……」
滑らかな光沢、繊細なレース。美を追求して作られた高級品は、普通、身に着ける人を彩ってくれる代物であるのに。それすらも包装紙のごとく不必要で煩わしい物に思わせる、神の被造物としての美を表す魅惑の肢体。背に回った手でサイドベルトが外され、ストラップが緩む。とっさに声が出た。
「ダメです! メアお姉様っ!」
「貴女がいけないのよ、櫂凪ちゃん。わたくし、今日はもうお別れって言ったのに」
声は聞き届けられず、メアさんを包むたった二つの布はどちらも、ワタシの目の前で取り除かれた。
「あ……、あ……」
制止したのは、見てはいけないと思ったから。一度見てしまえば、自分の意志では目を逸らせない、予感ではなく確信があった。
「自惚れだけど自信があるの。ほとんど大人なのに、まだ透明でいるわたくしに」
細くしなやかなのに大きくもあって、ハリがあるのに柔らかいようで。扇情的な大人の体と、微かに残る少女の無垢。この時この瞬間だけの、他のどこにもない魅力。もう、目は逸らせない。
「……本気、なんですか。ワタシなんかに──」
「──貴女だからよ。さぁ、もっと近くでわたくしを見て、触れて」
何歩もない距離が、一歩、二歩と縮まる。後ろに下がれず、背もたれに当たる。メアさんはドレスの裾を撫ぜて太腿までめくり、ワタシの脚の間に膝を踏み出した。
下半身に伝わる空気の冷たさとメアさんの温度で、頭がどうにかなりそう。拒むこともできるはずなのに、鎖で繋がれてるみたいに手足が重くて、身動きできない。
「待ってください、おかしいです。女同士で、こんな──」
オーバーヒート寸前の理性による、最後の抵抗。
封じる術を、メアさんは知っていた。
「──好きよ、櫂凪ちゃん。後輩でも妹役でも友人でもなく、ただ一人の、特別な人として」
唇に触れる温もりと弾力で、息が止まる。時間も。
どんな言葉も、口を封じられれば出ない。ただ、それだけ。




