第三話「すでに日は暮れて」27
少年は、顔色を失っている神田をまっすぐに見据える。だが少年の本当の視点は、神田の様子を差配がどのように受け取っているのか、その一点である。
差配はまだ、切り抜けられると思っているが、神田が屈してしまえばそれまでである。
「覚醒剤など、とんだ濡れ衣です。彼は契約書に書いたように、新薬の開発のための配布をしていたのです。先ほども、今後の計画を話し合っていたのです」
差配は門脇に向かい、身振りまで交えて、一所懸命に訴える。
「今後の計画──我々が外に出ている間、録音を回しておいたが、それにその計画が記録されているわけだな」
少年は自分のスマートホンを手にかざす。
神田も差配も、あっとなる。録音されていたことまでには考えが及ばなかったのだ。
「会話の中身は、シラを切り通すことの確認と、報酬のことだろう? だが、お前たち、いや、お前の罪の立証には使わない。これの使い道は、他にある」
少年は神田に迫るように口調を強くする。
お前たちではなくお前とは、どういう謎なんだ、と門脇が訝ったとき、
「門脇さん、今すぐにこの男を外へ連れていってください。代わりに塚原巡査を中へ」
門脇は配下のひとりに差配を連れ出させる。塚原巡査が小走りに入ってくると、少年は扉に駆け寄り、ガチャリと内鍵をかけてしまう。
門脇は驚いて少年を見るが、少年はまたも不敵に笑っている。
そして、目深な学生帽をとり、ニコリとした笑顔に変わるのだ。
少年の顔だが、少年ではない。これは女の子の顔だ。
「邪魔な公安は追い出しましたよ。そろそろ出てきてくださいな」
ペンギンちゃんに向かって声をかけるのである。
「いやいや、すっかり見通されました。おそれいりましたよ、ヒカリさん」
ペンギンちゃんが頭をもちあげると、着ぐるみの中に押野勇気が入っていたのである。
これには門脇ですら驚いた。
もはや格好だけが少年のヒカリは、神田を指さす。
「塚原さん、逮捕の準備を」
「しかし、容疑は……? 逮捕状はないのですよ」
「覚醒剤取締法違反の現行犯で良いですよ。」
「現行犯? ふざけないでくれますか。どこにそんなものがあるというのです」
言葉と裏腹に、顔は不安にまみれている神田だ。
「あなたのそのカバン、中には始末していない小分けした袋があるでしょう」
「ばかな。そんなものが──」
「入っているはずがない。そうですよね。通りかかりのゴミ収集車に全部持っていってもらったのですから」
「……!」
「今日は日曜日。ゴミの収集はありませんのよ」
もう声も言葉遣いも女の子に戻ったヒカリの言葉に、神田は愕然とする。あの収集車は、自分を陥れるためのものだったのだ。
神田はさらにハッとするのだ。自分が差配と契約書を書いたとき、この少年、いや、ヒカリという少女のほうを見ていなかった。自分のカバンのそばに行っていたのかもしれない。
そこにいる巡査からハンカチに包まれたものを手渡されたのを見ている。これは収集車から回収した、廃棄したつもりの覚醒剤入り粉糖の袋だったのではないか。それをひとつ、ヒカリが自分のカバンに忍ばせておいたのなら。
自分が、カバンの中にあるのは罠だと主張しても、いったんは現行犯逮捕される。そして、どのみち収集車に覚醒剤と精製の道具を渡したことが明らかになる。逃げ道はもうないのだ。
「神田さん、今ここで自首しなさいな。自首なら逮捕はされません。のちの情状酌量要素にもなります」
ヒカリの言葉に、神田はあっさりとすべてを認めるのだった。
「しかし、困りました。覚醒剤入りの袋をいれたとなれば、違法捜査の謗りは免れ得ません。他の証拠が有力でも、裁判では認められない公算が高いのですよ」
勇気は本当に困り顔だ。
「フフ。神田さん、カバンを開けてごらんなさい」
勇気は、人生で一番驚いたというほどの驚きようを見せる。
神田が中身をすべて出しても、覚醒剤入りの袋など入っていなかったのである。
ヒカリは学生服のポケットからハンカチを出して、包みを開いて中を見せる。そこには白い粉を封じた小袋があったのである。
塚原から受け取った袋を入れたと思わせておいて、入れなかったのだ。
ヒカリは塚原に指示して、神田が廃棄した覚醒剤入り粉糖の小袋を管理事務所の外で渡された。
差配に神田へ呼び出しの連絡を入れさせてから、神田が管理事務所へやってくるまでの間、ヒカリが一番頭を悩ませたのが、神田の荷物に小袋を隠し入れておくかどうかだったのである。
勇気が言うように、これは証拠の捏造であり、裁判では違法捜査をとられるだろう。だが、神田本人がゴミ収集車に証拠の一式を渡しているのだから、無罪はあり得ない。
とはいえ、民間捜査員の勇気の仕事には失点がつくのも間違いない。
神田が強い態度に出る男だったら、使わざるを得ないだろう。だが、それほどでもなかったなら、神田がどのような言動をとれば、この小袋を使わずに済むか、ヒカリは幾多のパターンを、神田が来るまでずっと考えていたのだ。
やってきた神田は、ヒカリの目力に簡単に気圧され、不安いっぱいの顔を隠すことすらしなかった。あんなに考えたのに無駄骨だったわ、と内心苦笑して、神田のカバンには何も入れず、しかし神田には、仕込まれたと思わせる言動をとったのである。
「お外でガンガンうるさいのは、公安ですね」
管理事務所の扉を盛大に叩きつづける音が聞こえはじめたのだ。開けろという大声も混じっている。
「差配として潜入していた奴が、連絡したのでしょう。門脇さんの配下に公安の身分を明かし、電話をしたのでしょうね。神田を自分たちで押さえようと、公安の連中が駆けつけたようです」
勇気は、どうしたものかと思案顔だ。だが、それよりも、ヒカリに聞いてみたい。
「いつあの差配が公安の潜入捜査官と見破ったのですか」
勇気の言葉に、門脇も差配が公安の潜入者だった事実にただ驚くばかりで、言葉も出ないでいる。
「こちらの門脇さんから、差配の人のことを聞いたときです。いつから任侠に身を投じたのか、その期間。それと、正体を隠しても、思考や身についた感覚は隠せません。仕事ぶりの話から、確信しました」
「そして、奴を外に出したのも、ここしかないというタイミングでした。あれ以上居させたら──」
「あの差配の前で神田さんに認めさせてしまったら、差配はここで公安の正体を明かして、身柄も証拠のゴミ袋もみんな持っていってしまうでしょう。だからその直前に追い出しました。差配は、元締めさんたち任侠の人たちに、覚醒剤の配布の罪をかぶせて、任侠とそれにつながる暴力団を一掃できる段階まで潜入をつづけるつもりだったはずです。五年も辛抱していたんですから。だから、契約書を書かせたのです」
「ほう。これは説明を聞かないとわかりません」
ヒカリは契約書を勇気に見せて、
「これがあれば、公安の正体を明かして、任侠に罪を付けて摘発が可能ですからね。契約書を書いているときに、ワン切りコールや空メールなどの合図で、仲間の公安に公園にくるように知らせたはずです。摘発後は公安の人間であることがバレるわけですから、任侠の中にはもういられなくなりますよね。これはアクシデントで摘発ができなくなっても同じこと。つまり、差配の男に公安の正体を明かさせるのが、契約書の目的だったのです」
「これはすごい。あのタイミングで追い出されれば、差配の公安は、やってきた仲間と合流して、神田、そして任侠を摘発するしかない。契約書が証拠にできると思い込んでいるでしょうから。それが摘発できずに失敗させられても、もう任侠に戻ってくることはできない。ヒカリさんは、任侠から潜入捜査官を叩き出したわけだ」
勇気は門脇のほうを見て、しみじみと言う。
「あなたたちは、本当にすごい人と巡りあったのです。ヒカリさんはまさに幸運の女神ですよ」
「よしてくださいよ。それよりも」
ヒカリは契約書をクシャクシャに丸めると、門脇に、燃やしてください、と手渡す。門脇はヒカリの両手をひしと握り、感謝の気持ちを伝えるのだ。
ヒカリは、煙と燃えカスになった契約書を見て、これで差配が何を言おうが口だけです、と笑う。
スマートホンに録音した内容も、ふたりを慌てさせただけの役で終わったと言い、消去する。
そして、神田のほうを向き、優しい眼差しを向けるのだ。
「神田さん。あなたの薬の配分は魔法のさじ加減でした。粉糖を使ったアイデアも素晴らしいものです。初犯であっても執行猶予がつくかは微妙ですけど、仮に服役したとしても、出所後にあなたなら世の中が認める医薬品を開発できますよ。その才能、埋もれさせないでください」
これが自分をすくませた目と同じ目なのか。神田は、今度はその目に打たれるのである。
「これからの市販医薬品は、店頭小売りでなく、通信販売ですよ。まだ通販専門の医薬品メーカーはわずかです。切り拓いてください。あなたならできます」
神田はヒカリに深々と頭を下げ、向き直ると塚原に、お願いします、とまた頭を下げるのだ。
勇気はその様子を感慨深く見ると、ヒカリに言うのだった。
「あの男、目が未来に向かっていましたよ。ヒカリさん、ひとりの人間を救ったかもしれませんね」
これから表の公安の連中をかき分けて、勇気の依頼先に神田をつれていくことになる。
「ヒカリさん。麻取の手柄にしていただいて、お礼の申し上げようもない」
「勇気さんは厚生労働省の麻薬取締部との連携だったのですね。もうこちらにお呼びしたのでしょう?」
「はい。そして、公安は地団駄を踏みます」
勇気も苦笑いだ。元の所属だけに、ここから外に出ても、顔を合わせづらいのだろう。
「勇気さんはペンギンちゃんに入って外に出てくださいな。麻取さんへの引き渡しは塚原さんがいますから、大丈夫です」
「何から何まで、お気遣い、すみません」
「お互いさまですよ。私が公衆トイレで悲鳴をあげられたとき、塚原さんに通報したのはあなたでしょう? 私はあのとき、あなたがずっと私の行動を見えないところから見てくれていたのだとわかりました」
「さすがですねえ」
「そこらへん、もうちょっとお聞きしたいのです。なぜ塚原さんを選んで来させたのか──あとで三人で話しましょう」
扉を叩きつづけた音が止んでいる。麻薬取締部が到着したのだろう。




