第三話「すでに日は暮れて」25
ここからは少年の出番だ。
あかりがいなくなったので着替えには時間がかかるが、ここは早替わりの必要はないから、焦ることはない。
ユカリが公衆トイレへ入ると、多目的トイレは使用中だ。
女子用は狭い個室だが、着替えそのものには障りがない。バッグの口から一式取り出し、ユカリは少年に姿を変える。
ひとりではさらしをきつく巻けないのは仕方がない。学生ズボンを履き、靴を男子用に履き替え、学生服をまとい、ボタンをはめる。
首の絞め跡は予測よりもだいぶ早く消えてくれて、ユカリ姿のときもスカーフは要らなくなっているが、少年の格好では巻いておくことにする。
学生帽をいつものように目深にし、トイレから出てきたところ、多目的トイレから出てきた女性と鉢合わせになり、悲鳴をあげられてしまった。
逃げると厄介なことになってしまう。少年姿で、ちょっとまってください、と声を出すが、説明をしようにも女性は聞こうとしない。
そのうちに、悲鳴を聞いた誰かが通報したのか、制服警官がやってきて、交番までこい、と少年を連行しようとする。
こうなってしまえば仕方がない。少年は学生服のボタンをはずすと、女性の手をとってさらしの上から乳房を触らせた。
「こんな格好をしてますが、私は女ですから女子トイレでいいのです」
女性はわけがわからないまま一応納得して立ち去ったが、これは偶然の贈りものだ。
少年は警官を引きとめると、捜査一課に電話をする。吉川巡査部長たちはもう出てしまっているだろうが、課長は課内に残っているはずだ。
課長から制服警官に話がされると、制服警官は少年の指示に従って動くことになった。思いがけず駒を得た少年は、早速この警官に指示を出す。
はじめは子どもに従うのが面白くなさそうな顔だったが、
「うまくすれば、警視総監賞ものですよ」
人参がぶら下がると、俄然張りきりだして、警察手帳にいそいそと、指示をメモしだすのである。
「仙中新宿交番勤務、塚原望巡査です。よろしくお願いいたします」
塚原はこの少年が、男装姿であることがわかっている。性別を変える変装まで必要な事態なら大事件に違いない、と警察官になってはじめての手柄にしたいと奮い立つのだ。
そのころ、任侠をまとめる元締めのもとに、四人の若者たちが救いを求めて訪ねてきたことに、元締めはただならぬ事態が生じたと判断した。
あかりはどうしてここが匿ってくれるのか見当もつかないが、水商売に出入りしていた頃は、ヤクザといわれる客とも親しく話をしたものだ。
そんなあかりだから、公園にいるヒカリとユカリと少年のことをお願いします、と頭を下げたあと、お腹減っちゃいました、平気でおねだりができてしまうのである。
「賄いで良ければ馳走してやろう」
元締めの命令で若いものが四人を客間に案内すると、賄いとは名ばかりの豪勢な大皿料理が出されたのである。
「ヤクザ屋さんの料理は美味しいって聞きますけど、本当ですねえ」
遠慮もなしに大きな鶏肉を頬張っているあかりに、男の子や七海、栞はただただ唖然としている。
「みなさん、こういうところのご飯ははじめてでしょう?」
料理を運んできた四十くらいの中居姿の女性は、あかりの食べっぷりを感心して眺めて、お若いみなさんもどうぞ、と勧める。
「あたしもお若いほうのはずなんですけどねえ」
あかりの言葉に女性は吹き出し、釣られて七海たちも笑いが漏れる。
「そうですよね。失礼しました」
「全部こちらで作ってるんですか?」
あかりは三枚の大皿をさして聞いてみる。
「ええ。元締めにお作りした残り、というのが建前ですけど、ここの若い人たちにも食べさせる目的もあって、はじめからたくさんの量を作るんですよ」
「ははあ。それで賄いなんですね」
あかりはすっかりこの女性と打ち解けている。
「さっきお願いしたヒカリ、彼女も料理の腕がすごいんですよ。あなたの料理と同じくらい、元締めさんも気に入ると思いますよ」
それを聞いた七海は即座に口を挟む。
「ヒカリは料理の天才、いえ、神様なんです。一度食べてみてもらうと、そのすごさがわかります」
「あら、それはぜひとも口にしてみたいわ。わたしももっと料理の勉強をして、上達したいですもの」
女性はあかりに烏龍茶を注ぎながら、どんなにすごいものなのか想像しているようだ。
「私はヒカリの料理、食べたことないの。七海が羨ましいな」
栞が箸をつけはじめると、
「七海、ヒカリさんに教えてもらって、俺に作ってくれよ」
男の子も小皿に取り分けをしている。
ヤクザの家だ、と緊張で体も腕も動かなかった三人も、和やかに食事のひとときを楽しみはじめている。
「あなたはここの女中さんみたいなお仕事なんですか?」
あかりは聞いてみる。
「いえいえ、わたしはここの者の女房なんです。主人が元締めのお世話になってますから、わたしもここでおつとめさせていただいてるのよ」
「あら、ご亭主もこちらで」
夫婦で頭目に仕えるのはよくあることだが、奥向きまで担うのは珍しい。元締めは妻を亡くしているのだろうと、あかりは察する。
「主人は幹部としてお仕えしているのですよ。あれでも四天王と称されてましてね」
あかりたちをもてなした女性の夫、四天王のひとりである門脇卓を、元締めは呼び出し、少年を援護するよう命じた。
四十半ばの男盛りで、文武両才そなえた、元締めの懐刀である。
門脇は、武闘派の配下ふたりを従えて、東原公園に向かう。
身内でもない少年のために、幹部を送り出すなど、天地がひっくり返ってもあり得ないはずのことだ。それを元締めは命じている。
「元締めはよほどあの少年が気に入ったんだな。いや、よほど以上だ……」
会ってはいないが、少年の頭脳と行動力は、話を聞いただけでも、逆境を乗り越え、人をまとめる力を発揮するだろうと感じる。
少年の素性は、双龍の舎弟だということ以外はわからない。だが、双龍はかつて門脇の舎弟だった男である。短慮なところはあるが、気持ちの大きい実直な若者だった。
所帯をもつからと元締めのもとを離れたが、戻ってくるなら元締めはいつでも迎える気持ちでいるはずだし、兄貴分の門脇も同じ思いなのだ。
才気あふれる少年を伴って、杯を再び受けるなら、現状維持に甘んじている今の任侠界を打開する、その力になってくれるはずだ。
そこまで思いを膨らませる門脇自身、任侠や暴力団を変革したい意欲を、ずっとあたためているのだ。
みかじめの性格を変えた少年は、自分よりも先に手近なところから変革を実践した。自分の先をいかれたことなど、小さい嫉妬だ。あの才能が欲しい、とまで思うのである。
黒塗りのメルセデスが公園前に停まると、後部席から降りてきた門脇が、公園の人々の様子を確認しながら、管理事務所に向かい歩いていく。
後ろにつくのは、双龍にも劣らない屈強な体躯を持つ配下のひとりだ。運転をしてきたもうひとりは、車を駐車場へ入庫させに向かっている。
管理事務所の前で、学生服姿の少年が待っている。
──この少年だな。
深くかぶる学生帽で表情はわからないが、想像していたより、なよっとした印象である。それに小柄な体格だ。
「ご足労、恐れ入ります」
少年は、言葉だけで頭は下げない。門脇が元締めの肝煎りで来たと、察しがついているのだ。
──なるほど、慇懃無礼にならない態度を心得ている。
これだけで、少年の器量がわかろうというものだ。
門脇は公園を担っている差配を呼び出していた。
差配は緊張の面持ちで管理事務所に入ってくると、深々と一礼をする。
幹部が直接出向いてくるのだから、重要な指示か、厳しい詰問のどちらかだ。それ以外なら呼び出される。
「ここ最近、公園内で販促を行っているものについて、把握していることを言ってみろ」
用向きは詰問だった。差配は、さらに緊張を強めて、姿勢をまっすぐにする。
「今月に入ってから、製薬会社の販促として、試薬の配布の申し出があり、継続中です」
少年からも、元締めのところへ駆け込んできたあかりという女性からも、話を聞かされている門脇だ。これが覚醒剤を無償配布して依存者を出させるためのものと、すぐにわかる。
「貴様、製薬会社の実態を調べずに許可したのか」
「は。規定の金額を早々に納めましたので、少々の胡散臭さは──」
「これまでもそのように素通ししてきたのか。いちいち調べろとまでは言わないが、ザルのように薬まで通すとは、貴様、それでも差配か」
強い口調で叱責されて、縮こまるしかない差配だ。
門脇がふと見ると、少年は差配のほうに顔を向けている。学生帽が視線を遮っているが、まるで突き抜けて差配をとらえているかのようだ。
「この分では他にもありそうだな。言ってみろ」
「他は警察からの協力要請だけです。風船配りをするとかで、目的はわかりませんが、警察へは協力することで貸し借りの関係を保つことになっていますので」
確かにそのような通達はしているのだが、何も考えずに受け入れたのか。
門脇は苛立つ。要は差配の役は荷が重いのだ。以前からそう感じていたのである。
「今日は元締めが見込んだ少年が差配をする。お前は休ませるつもりだったが、少年の下について、勉強しろ」
門脇は差配に、そこをどけ、と言い捨て、少年に、どうぞ指示を、と促す。
少年は、販促を申し出た製薬会社の人間を呼び出すよう、指示をする。
「今は覚醒剤のことは知らぬ振りをするように。感づかれて逃げられると、警察は我々がそいつを使って薬の配布を主導したことにして、こちらの勢力を弱めることに利用できる。そいつがここにきてから、はじめて問い詰めろ」
「呼び出す口実は、どうするのですか」
「……口実?」
少年は呆れている。
「口実などいらない。すぐにこい、それだけでいい」
門脇はいちいち感心しながら、少年の言葉を聞いている。
理由を伝えずに呼びつけるのは、本来なら常套手段だ。だが近頃は理由を示さないとならないような、一般企業のような風潮がある。
力関係を改めて相手に意識させるには、昔のように、有無を言わせない物腰が必要なのだ。
「良く覚えておけ。貴様のような世間一般のサラリーマンと同じやり口では、務まらないとな」
門脇は差配に向かって、吐き捨てるように言うのだ。
少年は導き出している。
おそらく、差配は配布の薬が覚醒剤と承知しながら、配布の許可を出したのだ。元締めにはないしょで見返りも当然受け取っている──そう読んだのである。
これが少年の、いや、ヒカリの策略の大前提となる。だから、差配に呼び出しの電話をかけさせたとき、あえて、管理事務所の外でかけさせた。
実際に厚いコンクリート造りで窓もないから、携帯電話の電波もつかみにくい。それを口実に利用したのだ。
差配と通じているなら、トップの人間は必ずくると踏んでいる。ここで姿を消したら、差配はただでは済まない。元締めから厳しい処分が下されるだろう。指を詰めるくらいでは許されないとなれば、差配としては是が非でもここに来させざるを得ないのだ。
差配からの電話で、トップの男は覚醒剤精製の隠蔽のために動くはずだ。それに応じた策は、塚原に指示してある。
はたしてやってきた男は、少年がユカリ姿で中年の男を尾行したときに、道の角でその男と話していた男だ。
これを確認すると、少年は、門脇さんちょっと、と門脇に声をかけ、配下の者も一緒に管理事務所の外に出る。
「あの者たちをふたりきりにさせて良いのですか」
門脇は不審顔で少年に尋ねる。
「こちらはそれが狙いです。ひとつお聞きしますが、あの差配はいつからそちらの配下に加わっているのですか」
「元締めから杯をもらったのは、まだ五年ほど前です。見ての通り、あまり有能とはいえません」
「差配の役はいつから?」
「二年近く前です。まあ、大きなしくじりもなく、良くいえばお役所仕事のように実務をこなしていまして、だから、それ以上にはなれない男でもあります」
それを聞き、少年はひとつ、確信を持った。
──そういうことだったのね。
ヒカリの声で、心で呟く。
──勇気さん、やっぱりいい人だった。
押野勇気がここまで姿を見せない理由も、これでわかったのである。




