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第三話「すでに日は暮れて」14

 今夜は押野勇気とのデートだという日に、あかりはヒカリの私室を訪ねてきた。

 ヒカリは昨日、警察署に出向き、押野勇気という人物が実在するのか、過去に何らかの事件でその名があがったことがあるのかを、吉川巡査部長に調べてもらったのだ。

 驚くことに、押野勇気は実在しており、警察では秘匿情報者として登録されていた。

「秘匿情報者とはどういった扱いの人なのですか」

 ヒカリもそのような区分ははじめて聞くから尋ねてみると、吉川巡査部長の歯切れが悪い。そして、

「なんといいますか、謎の人物ということです。ヒカリさんも秘匿情報者なのですよ」

 と、意外なことを口にする。

「私もですか」

 ヒカリはそれでなんとなく想像がついてくる。

 本来の戸籍を抹消して、新たな戸籍を作った人物のことだろう。そして、本来の戸籍のことは、表向きには一切を触れない。多くは死亡したか、ヒカリのように海外の国籍に転籍したことにする。新しい戸籍が作られても、作成日以前のことは空白となり、何もわからないので、謎の人物なのだ。

「その押野なる人物が、例の裸スタンガン男ですと、密売側の線は薄くなりますな。秘匿情報者は警察が警護しなければいけない人物でもあります。警護の理由はさまざまですが、その人物が犯罪に加担、ましてや麻薬密売組織に入ろうものなら、警察に組織の存在を教えるようなものです」

 ヒカリは思い当たることを話してみる。勇気がどこかのエリート社会人だとしたら、である。

 吉川巡査部長は、少し悔しそうな顔をする。

「ありえるなら、警察に協力する組織の一員かもしれません。彼らは特殊な訓練を受けますが、総じて高学歴者で、報酬も高額です。麻薬であれば、警視庁の組織犯罪対策課、厚労省なら麻薬取締部、いずれも協力組織との連携があります。潜入捜査に警察官を使うと早晩露見する場合など、組対や麻取に代わって捜査するのです」

「捜査する側ということですね。公安とも違う立場で潜入とは、足の引っ張りあいにならないといいのですが」

「さすがヒカリさん。そこに気がつきますか」

 麻薬や覚醒剤の密売をするような組織なら、人員の素性は徹底的に洗うだろう。公安なら警察庁、警視庁あるいは厚生労働省としての籍があり、協力組織ならある時期からの過去がない。

 とちらも不都合を隠すための捏造は施すが、あちらが立てばこちらが立たずの状況、つまりはどちらかが身を守るために、もうどちらかの正体が明らかになってしまうこともあり得る。

 勇気が秘匿情報者であることは、あかりには話さないでおこうと思う。麻薬捜査に関係しているかはともかく、そのような立場なら、遠くないうちに、勇気のほうから、あかりの前から姿を消すだろうと思われる。だから、せめて今夜のデートくらいはときめかせてあげたい。

「今夜うちの鑑定所は早じまいするの。高いところから、一緒に夜景でも見て、美味しいもの食べて」

 あかりはデートプランをひとりで作っているようだ。こういうものは、男が考えるか、二人で相談するものだ。あかりらしい、とヒカリは可笑しくなる。

「この前はおごらせたんだから、今度は出しなさいよ」

「もちろんよ。きちんと割り勘にするわ」

「全部出しなさいよ」

 ヒカリは呆れ笑いが出てしまう。

「居酒屋なんかじゃなくて、高めのレストランにするから、割り勘でないとね。ちょこっとお酒も入れて」

「あんたがちょこっとで済むの?」

「済ますわよ。正気を保ってなきゃ。食事のあとは熱い一夜をともにするの。そして朝には二人の間に愛が育まれているって寸法よ」

 二日のうちに、想いはどんどん大きくなって、妄想の域に入ったらしい。ヒカリは心が痛んでこずにはいられない。

「あんたねえ、そんな下心を起こすと、うまくいくものもうまくいかなくなるわよ」

「なんの、見てらっしゃい。相思相愛になって帰ってくるから」

 どんな根拠があるのか、勇気を落とせる自信があるらしい。水商売や風俗の世界で、男性経験も積んでいるあかりだから、自信過剰もさもありなんだろう。



『光の路』での鑑定を済ませたのが午後十一時すぎ。いつもより早く終えることができて、煮物でも作りましょと思い立つ。優美ヶ丘女子高等学校の調理部を懐かしく思いながら材料を切っていると、ドアを叩く音が聞こえてくる。

 あかりは勇気とお楽しみの最中だから、あかりではない。誰だろうと玄関を開けてみると、あかりなのである。

「酔っぱらいがきましたよぉ~」

 上がり込むなり、ソファで横になる。これはだいぶ酒を飲んでいる。

「ちょっと、あんた。どうしたのよ」

 ヒカリの顔を見て、ホッとしたものがあるのか、あかりはそのまま寝入ってしまう。

 この時間にこれである。勇気は現れなかったに違いない。すっぽかされての自棄酒なのだ。

 ヒカリは、あかりの着ているスーツが、真新しいのに気づく。あかりらしからぬ、控えめな色とシルエットだ。

 水商売用の一張羅はもっていたはずだが、一般のものはなかっただろう。今夜のために新調したのだ。

「せっかくのスーツにシワがつくわよ。ハンガーにかけてあげなきゃ」

 ヒカリは自分のパジャマに着替えさせようと、あかりのスーツを脱がせる。

 派手に赤い上下の下着が見えてくる。

「これ、勝負下着ってやつよね?」

 交際なしで結婚したヒカリは必要なかったが、多くの女性は持っているから、どんなものかは知っている。

 透け感のあるブラジャーに、勝負下着の定番のTバックショーツの組み合わせだ。

「あんた、本気で好きになろうとしていたんだね……」

 言葉だけではなかったあかりの意地らしさに、ホロリと涙ぐむヒカリなのであった。



 あれからあかりは勇気のことを口にしない。ヒカリはときが経って自然に癒されるのを待ってあげるのみである。

 ずいぶん思い込みが大きくなったが、二人で会ったのは一回だけ。実際の傷は浅いのだ。

 新宿に出て、澄花への結婚祝いの品を選んだ帰り、地下鉄の駅入り口近くの公園に、ヒカリは懐かしい顔を見つけた。

 七海である。一緒に、同じ歳くらいの男の子がおり、親しく話をしている。

 七海の好きな人ってこの人ね、とすぐにわかるヒカリだ。

 やがて顔を寄せあうと、静かにキスを交わしはじめる。男の子は、七海の体格にふさわしい豊かな胸に手を当てている。

「あらまあ、真っ昼間なのに」

 ヒカリはそれでも、見守るような目で二人の姿を眺めている。太った容姿のために、遅れてやってきた初恋なのだ。人目があるというのに、お互いを求める気持ちの入り口を見せあうのは微笑ましいじゃないの、と足をとめつづけるのだ。

 ふと気づくと、自分の前で、やはり二人の様子を陰からうかがっている男性がいる。長い髪を束ねたその後ろ姿は、間違いなく見覚えのあるものだ。

「あら、すっぽかしのお兄さん」

「や、これはこれは」

 勇気は少し慌てた顔で、ヒカリのほうを見る。あかりの友だちなのだから、バツが悪そうだ。

 だがヒカリのほうは、おおかたのことはわかっているのだ。

「あかりのことを巻き込まないようにしてくれたのね。お礼をいうわ」

 言いながら、ヒカリは物陰に身を移す。勇気はそれで、ヒカリが自分の正体を察しているのだと理解した。

「あの二人を見ているのね」

 勇気は無言でうなずいている。

 男の子と七海が別れると、勇気は男の子のほうのあとを追っていく。

 するとヒカリは、勇気にくっつき腕を組んだ。

「これならある程度近づいても怪しまれないでしょ」

「ありがとうございます」

 カップルを装って、男の子をつけていくと、角を曲がってすぐのところで、男の子は中年の男と話をしていた。何かの指示を受けているようだ。

 ヒカリたちは曲がってすぐ鉢合わせになったが、

「やり過ごしましょう」

 そうアイコンタクトをして、ヒカリは勇気にさらに体を寄せて、通りすぎていく。うしろなどまったく振り返らないが、スマートホンのカメラを使って後ろの様子をうかがおうとして、勇気に無言で止められた。

 しばらく歩くと、勇気は、他の者と交替したのでという。いつの間にか仲間が合流していたらしい。

「これは助かりました。おかげで指示役が出した指示の一部が聞けました」

 ヒカリがいなかったら、通りすがりを装えなかったと、両手をあわせて拝むのだ。

 ヒカリには指示など聞こえなかったが、勇気は訓練を受けているのだろう。あの男の子は組織の手先か、購入者だろう。七海がかわいそうになるヒカリだ。

「スマホはいけませんよ。こういうところにも、向こうは注意を払います。今回は大丈夫だと思いますが、自分は肝を冷やしましたよ」

「それはすみませんでした」

「あかりさんの友だちですよね。あかりさんには申し訳ないことをしました。はじめは探りを入れられているようで警戒しましたが、話しているうちに一般人と確信しました。実は会うことになっていた夜は、自分のほうがつけられていたんですよ。あかりさんに危害が及ぶので、遠く離れました」

「あかりには可哀想だけど、もう会わないほうが良いですよ」

「わかっています。ですが、あなたのほうは、ただ者ではないですよね。よろしかったら、お名前を聞かせてもらえますか」

 ヒカリが名前を伝えると、勇気はひどく驚いて、まじまじとヒカリのほうを見つめる。

「八矢ヒカリさん……? では、あなたが八矢の奥さん、占術士の」

「主人をご存じなのですか?」

 今度はヒカリのほうが驚く番だ。圭吾の勤め先の他に、圭吾を知る人物が現れたのははじめてである。

 勤め先の者たちはまるで心当たりがないといっていた、圭吾が誰に殺害されてしまったのか、その真実を知る人物かもしれない。

 ヒカリの胸の鼓動がどんどん速まっていく。

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