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第一話「運命の力」3

 暴行と傷害事件が起きた。容疑者も目の前にいるが、被害者が逃げてしまっては逮捕できない。親告罪ではないが、被害の立証が困難では、浜田巡査部長も手がないのである。

 刺青男はそんな要件を知らないのだが、前を見ると、交番勤務と思われる制服警官が三人、こちらに走ってくる。誰かが警察に通報していたらしい。

 刺青男は、思わず逃げ出した。

 その後ろ姿を、何を思ったか少女は難しい顔をして見送っている。浜田巡査部長は、少女に声をかけてみた。



 大通りを避けて、細道から裏道を走ると、街を二分する大きな川に出る。川べりも含めて五十メートルはあろう。刺青男がこの川に架かるアーチ型の橋梁にさしかかると、柵を乗り越えて、外側から道路橋の下に身を隠した。

 保守のために、橋梁裏の鉄骨に降りられるハンドルがあるのを知っていたのである。

 数分たち、もう警官たちも行ってしまっただろう。

 その場を見下ろすと、十メートルほど下は水面だ。

 ── 水難……。

 少女の予言が頭をよぎった。

 金難を当てられただけに、意識し過ぎてしまう。足の運びも余計に固くなる。

 案の定、埃ですべり、刺青男は真っ逆さまに川の中に落ちてしまった。


 運良く水深があり、川底に打ちつけられることなく済んだ。

 川底近くまで沈んだが、子どもの頃は川で泳いで夏を過ごした刺青男である。水深はニ、三メートルだろう。他の者なら大事だろうが、流れも緩やかで、自分ならこの深さの川では溺れることなどない。

「水難もこの程度で済むのは、俺だからだな」

 岸に泳ぎ始めようと水面へ出ようとした時──何かが足に絡みついていることに気がついた。ズボンの生地の上からチクチクと刺さる痛みも感じる。

 その部分に手を当ててみるなり、「あっ」と心が声を出し、全身が震える恐怖を感じた。

 川中に投げ捨てられていた有刺鉄線がズボンに絡んでいたのである。

 もがけばもがくほど、鉄線の絡みが増えていく。

 三十秒経ち、一分が過ぎ。もう息が続かない。

「いけねぇ。もういけねぇ……」

 今までの自分の反社会たる行いが、走馬灯のごとく脳裡を巡りはじめた。

 思いは、いっぱしのワルを気取りはじめたいわゆる中坊、やんちゃな小学生、母親から離れられなかった幼少期へと遡っていく。

 やがて目の前が暗くなったとき──。誰かに腕をつかまれた気がした。もう終わりだ、全部終わった、と意識が消えていく。腕を引かれて、あの世に連れて行かれるらしい……。


 誰かが顔を引っ叩いている。なのに無痛だ。何度も叩かれ続けているのはわかる。

 頬の感触がだんだん痛みを伴ったとき、刺青男は正気にかえった。

「気がつくのが遅すぎよ」

 二十代後半か三十くらいか、八分袖のブラウスにチノパンをはいた女性が、しゃがみ込んで、刺青男の顔を覗き見ている。

 女性は髪の毛から足先まで、全身がずぶ濡れである。

「もしかして、助けてくれたのか?」

「そうよ」

 女性はニコニコ笑い、川面を指さした。

「あそこだけ水面がやけに揺れていたから。橋の下だし、誰か落ちたんだと思って、入ってみたわよ」

 川べりの道を歩いていて、人が沈んでいるかもしれない、と気づいたという。水の中で腕をつかんだのは、あの世への案内人ではなかったのだ。

「自分は水泳も潜水も得意だからね。人助けなんて、生まれてはじめてだけど、まあ、できるもんなのね」

 と、濡れた前髪をかき上げる。清々しい表情だ。


 刺青男は、自分の下半身が下着だけになっているのに気づいた。

「あのトゲトゲを取るのは無理だから、川の中でズボンを脱がせたわよ」

 それから川べりに引き上げて、胸を圧して、水を吐かせたという。

 刺青男は、ズボンを脱げば良かったのだと、今頃気づく。そして、大きな体躯の自分を、小柄な女性が引きずってくれたのかと、胸が熱くなってきた。

「すまねえ、姉さん、命の恩人だよ」

「姉さん? あはは。そうそう、お礼をもらうのに名前を教えておかないと。百合よ」

 ちゃめっ気たっぷりに返してくるあたり、人の良さがうかがえる。なぜ川に落ちたのかを聞こうとしないのも、良い理由でないことを想像してのことだろう。


「タクシー呼んで、さっさと帰りなさいよ。風邪引くわよ。わたしもうちでシャワー浴びるわ」

「いや、実は金なくて……全部スラれちまった」

「はあ? なんなのよ。スラれたって……」

 呆れ顔で大笑いする百合である。

 化粧っ気はないが、タレントにでもしたいような、愛くるしい顔立ち。濡れたブラウスから透けるキャミソールの柄が、色っぽさを強める。

 そんな甘えんぼうな外見と違い、世話好きな性質らしい。

「しょうがないわね」

 口から漏れるため息も、まんざら嫌そうではないのだ。刺青を彫り、どこを見てもヤクザ風な男にもあたたかく接せるのは、百合の身近にそのような人間がいるのかもしれない。

 水で冷たくなった体が、温もりをもったかのように感じてくる刺青男なのであった。

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