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第一話「運命の力」17(最終回)

 三十分も走りつづけた。ホナミは『光の路』の前に立っていた。

『光の路』のビルの前は人っこ一人いない。

 あの重い扉には、本日の鑑定は終了しました、と貼られている。

 いつもはこの時間でも、鑑定を受け付けているはずだ。

 ホナミは予感していた。ヒカリに会えないのではないかと。

 会えない理由など考えつかなくとも、運命の力に妨げられるような気がしてならなかった。

 もう、運命は自分を一人ぼっちにするつもりなんだ。そう思うと、 無性に人に触れたいホナミだ。

 すると、はかない願いを叶えるように、携帯電話が鳴る。

 社長からだ。

 あんな社長でも、人の声を聞きたい、わたしの話を聞いてほしい、と心から思えた。

 携帯電話をとると、すぐに甲高い罵声が耳をついた。

「おめえ、どういうつもりだっ。客から逃げやがって、ひでえクレームだ! 仕事をなんだと思ってるんだ! キャストだぞ、おまえは!」

 男がホナミが逃げ出したことに、クレームをいれたのだ。犯罪つながりの間柄なので、男の行動をホナミは想像もしていなかった。

 窃盗を組んだことを知られなければ、ただの客とキャストの二人である。クレームできない理由はない。

 だが、言い訳のために男との関係を話せば、社長でも警察に通報するだろう。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 ホナミはそう謝るしかない。

「ごめんなさい……」

 社長の怒りはおさまることがない。

「もうお前なんかいらねえっ!」

 いらない。その言葉はホナミにとって一番聞きたくないものだった。


 ホナミは母と二人暮らしの子ども時代を過ごした。父は離婚後、他で家庭を持ったときく。

 母娘で慎ましく暮らしてきたが、ホナミが高校に入学した年に、母に好きな男ができ、帰りが夜中になり、ついには朝までホナミをほっておくようになった。

 ほどなく、母のお腹に新しい生命が宿った。

 新しい家族ができる。ホナミが幸せを想像できたのは一瞬だけだった。

 男は母と生まれてくる子とだけの家庭を望んだのだ。

 母は、それで結婚してもらえるならと、条件をのんだ。ホナミは母と離れたくなく、嫌だと強硬に抵抗した。

 だが母はもう、ホナミの母親でなく、妻であり懐胎婦だった。

「あなたにお母さんの幸せを奪う権利はない!」

 母の叫びに、ホナミの全身はビクリと硬直した。

 母は続けて、こう言ったのだった。

「もう、あなたはいらないの」

 母を失ったも同然となり、ホナミは高校をやめて東京に出た。


 そのあとは、思い出す必要もない。

 ホナミは携帯電話の電源を落とした。

 この前、入れなかったビル。今夜の足は、なんの抵抗もせずガラス扉を通らせた。

 屋上にあがると、遺書を書かなきゃ、とメモ帳とペンをハンドバッグから取り出した。

「なんて書けばいいの?」

 いざ書くとなると、文面が浮かんでこない。

 わざわざ、嫌なことを思い出す努力をしないといけない。

 遺書を残さずに死ぬ人の気持ちがわかる気がする。

 それでもホナミは文を絞り出した。


 もうこの世にいたくないので死にます

 生きてるのがいやです

 つらいことばかりです

 ヒカリさん ありがとう

 もう一度会いたかったです

 ゆーりんさん しあわせになってください

 わたしはあの世でしあわせになります


 これでいいのだろうか? 書いたことは嘘ではないが、なにか違う気がする。

 でもどう違うのかわからない。

 こんなところで迷うなんて。

 ホナミは、まだ自分を死なせてくれない運命の操り糸に動かされているのか、と試しに屋上の転落防止柵を乗り越えてみた。

 簡単に柵の外側に下りられた。片足を宙に上げ、ビルの外に出してみた。

 足が前に動かせる。やっぱりもう糸は切れてるんだ。自分はもう操られていない。

 暗い空を見上げて、目を閉じて前に倒れてみると、体が空気を切るのを感じた。

 頬は強い風を受けた。その感覚に、ハッと反射的に目を開いた。落ちている。地上に向かって落ちている。地面が目の前に迫っている──。

「やだ! やっぱりやだ!」

 直後、ホナミの全身がコンクリートに打たれ、小さく跳ねた。

 口と鼻からみるみる鮮血が広がり、割れた頭部から脳が飛び散っていた。



 ホナミが命を絶ったと知らせがヒカリへもたらされたのは、翌朝である。

 吉川巡査部長からの電話を切ると、ヒカリは両拳を壁に思い切り叩きつけた。

「私は……私は何を──」


 吉川巡査部長は、ホナミの血縁者に連絡をとろうとしたが、誰一人わからない。ホナミが所持していた携帯電話には、親兄弟の連絡先の登録はなく、縁者を見つけるまで数日はかかりそうだ。

 勤めていたデリバリーヘルスの社長によると、ホナミは茨城で母子家庭で育ったが、母親はホナミが高校に入学した年に交際相手と子どもを設け、それからは余計者とされて疎まれ、中退して東京に出てきたという。

 以後、母親とはまったく連絡をとらなかったらしい。

 実父母での兄弟もいないと、社長はきかされていたそうだ。

 そうなると、まったく身よりがない。

 吉川巡査部長は、昨日ヒカリから、ホナミに会いたいから助力して欲しいと頼まれていた。鑑定の被験者だという。

 刺傷事件の被害者である野村百合を通じて、ホナミに会うつもりだったのだろう。

 昼過ぎに検死を終えたと連絡を得た吉川巡査部長は、ヒカリにそれと伝えた。

 ヒカリは遺体との面会を望んだ。

 通常、血縁者か故人と関係の深い者にしか面会を許可しないのだが、縁者が見つかっても引き取りを断られる可能性が濃さそうだ。そうなったら、誰にも偲ばれないで火葬されることになる。それでは故人が不憫だと吉川巡査部長が課長に意見を述べると、ヒカリの希望は通った。

 心の内で、ヒカリに故人へ寄り添ってあげてほしいと願った吉川巡査部長である。



 ヒカリは喪服に着替えながら、頬を涙で濡らしている。

 前回この喪服をまとったのは、圭吾の葬儀だった。

 まもなく、百箇日を迎える。飄々とした口調で「ねえ、ヒカリ」と呼ぶ声が甦る。懐かしく、あたたかな声だ。

 だが、今流れている涙は、圭吾への想いのためなのか、ホナミの死を悼む涙なのか、ホナミの死への歩みをただ傍観していた結果になった自分への責めの涙なのか、ヒカリ自身にもわからない。

 ただ、この涙は流れるままにしておこう、と思うだけだ。


 吉川巡査部長が先に歩き、ホナミが安置されている地下へ、ヒカリは案内されていく。

 安置室の扉は思いのほか軽かった。命の重さとまるで対照なことに、やるせない思いがする。

 吉川巡査部長は無言で横たわるホナミへ手を指し向けた。

 ヒカリは合掌し、そっと、白い布を引き上げる。

 頭には包帯が巻かれている。検死のとき、頭部の割れを戻したあと、形を固定しているのであろう。

 おかげで、ホナミの表情は崩れていなかった。

 ホナミの死に顔をじっと見つめ、ヒカリはきつく目を瞑った。

 ヒカリにははっきり読み取れるのだった。

 眉間の翳り、薄く開いたまぶたから垣間見れる灯らない瞳。飛び降りたことを後悔する、ホナミの最期の心がここに宿っていると──。



 数日後、ヒカリは百合を見舞った。

 今さらでも、ホナミのことを聞かせてもらい、ホナミが死を選んだことを後悔したと伝えたかったのだ。。

 社長に頼み、病院まで連れていってもらった。社長ももはや、ヒカリを性的価値を量る目では見なかった。

 車中で社長は、ヒカリに話しかけた。

「あの日あんたが帰ってからすぐ、ホナミの客から電話があったんですよ。怒髪クレームですわ。ホナミ、客から逃げちまったんですよ」

「なんですって?」

 ヒカリも思わず聞き返す。

「それですぐにホナミに電話したんですが、ごめんなさいを繰り返すだけでね」

「それで……?」

 この社長がそのような状況でホナミを怒らないわけがない。怒りの言葉を畳みかけたかもしれない。

 それを言わないのは、社長の叱責が自殺の要因と、自分でも感じているからだろう。

 だがヒカリはそれよりも、胸を抉られるようなことを知ってしまった。あのとき、社長のもとにあとしばらく滞在していたら、ホナミと直接話すことができたであろう事実である。

 まばたきも忘れ、ヒカリは暗然とするのだった。


「ホナミはね、一度ここにきたみたいなの」

 ベッドで上体を起こせるまで回復してきた百合は、花瓶に生けられている見事な花束を見やっている。

 多分私が面会謝絶だったので帰ったのだと思う、と視線を落とした。

「ホナミは生きるのに精一杯だったと思うの。今思うとね、私のあの子との付き合い方、心にほんの少しのゆとりがある子へのものだったな、て」

 あの子はどんな気持ちで生きてきたのかな、と百合は呟く。

「ギリギリのところを解ってあげてなかったのよ──。いえ、私には解らないものだったの」

 社長が百合を制して言う。

「遺書を見ましたがね、ありゃ絶望しての覚悟の自殺ですよ。自分でこれでいいと納得して、この世と訣別したんですな。」

 ヒカリの唇がピクリと動いたことに、二人は気づかない。ヒカリも目を閉じて、何も話そうとはしない。喋ることを思いとどまったのだ。

「もし人が生まれ変わるなら、次は幸せな人生でないとね。そうでなきゃ、死を選んだ甲斐がないわよ」

 百合はそこで、大粒の涙をこぼすのだった。

 結局、ヒカリは、ホナミが最期に死を悔やんだことを伝えずに、病院をあとにした。

 送っていく、という社長の申し出を断り、一人地下鉄の風に吹かれて、飛び降りてからの後悔の気持ちを想像しようと諸々の念を払うのだった。



 鑑定所に戻ると、吉川巡査部長が訪ねてきた。その手には、ホナミの遺書が携えられていた。

「ヒカリさんへも一言あったのですよ」

 ヒカリは、読ませてもらいます、と手に取り、吉川巡査部長も頷いた。

 もう一度会いたかった──。ホナミはそう書いていた。

 二度も三度も、繰り返し読んだ。

 ヒカリはハッと思いあたり、吉川巡査部長の腕を引いて、ビルの管理者室へ向かった。

「ホナミさんが亡くなった日の、入り口の映像を見せてもらえるよう頼んでください」


 ヒカリは吉川巡査部長と、ビルの入り口の防犯カメラの映像を見た。あの日、夕方前と夜と、二回ホナミは『光の路』を訪れていたのを確認した。

 夕方前は、開くのが遅れて一番待ち人が多かった時間帯。夜は、社長のもとを訪れるために出かけた直後の時間だった。

 ──会いにきてくれていた。私に。

 夜の映像に映るホナミは、靴も履かず、髪も乱れている。そして、遺体と同じ服を着ている。

 生きているホナミの、最後の姿である。


 ──きていた。私に会えなくて帰った。先客が何人もいたから、仕方ないのか? そういうかみ合わせだったのか?

 ──それで終わったことにして良いのか?

 ──デリヘルの社長を訪ねて、ホナミが指名でいないから、それでその日を終わりにした自分は正しかったのか?

 ──社長が嫌で、百合の意識回復にかこつけ、また明日にとのんびり構えた自分に事の一端はないのか?

「すみません。一人にしてくれますか」

 吉川巡査部長に頭を下げ、ヒカリは言う。それは込み上げる感情を抑えている声だった。


 ヒカリは鑑定所の、被験者の椅子に座って、深く俯いた。少しでも被験者の心に近づきたいがゆえだ。

 占術士は鑑定のとき以外、被験者とは関わらない。だが、ホナミの死を聞き、被験者と関わる意味をヒカリは感じる。

 運命の力──最後の岐路において、その力は絶対だ。そう考えていた。占術の世界ではそうなのだ。

 ──本当にそうなのか?

 安置所でホナミの死に顔を見て、最後の思いが、本当は死にたくなかった、自殺したくなかったと知ったヒカリだ。

 もし、あの日に会えていたら、自分が死の運命を回避させることができたかもしれない。ホナミは最後の運命を変えてもらいにきたのだ。

 ──運命の力よりも強い力。

 ヒカリは強く確信する。

 ──あるならば、それは人の力、そして人の想いに違いない。


 ヒカリはやっと前を向いて、鑑定者の席に座る自分をイメージした。そして、そこにいる自分を強い眼光で刺した。被験者からのメッセージを送ったつもりで。

 これからは、被験者と関わることを厭わない占術士であろうと心に決めたのだ。

 ──いいじゃない。異端の占術士でも。

 立ち上がると、鑑定所の内鍵を解いた。鑑定を始める時間にはまだ早いが、気持ちが逸るヒカリだ。

「ね、圭吾くん。私は私の思うとおりにやるから」

 そして、圭吾くん、お母さん、お父さん、と甘えた声で呼びかけ、前から決めている気持ちを声にする。

「全部かたを付けたら、私もそっちに行くからね」

第一話「運命の力」はここで終わりです。

お読みくださったみなさん、ありがとうございました。

次回から第二話「死と変容」です。

よろしくお願いします。


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