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第一話「運命の力」15

 まだ日は暮れきっていない。出る時間を間違えた幽霊のように、ホナミは駅前通りの裏道を、ゆらりゆらりと前に進んでいる。

 待ち人であふれていた『光の路』を出てから、もう自分は運命に見捨てられた、と思うほかないホナミだ。

 運命の力──ヒカリの言葉が頭をよぎる。

 たまに良いことが起こったって、死ぬほうに引き戻されるのが、自分の運命なんだ。

 もう死んじゃおう、飛び降りてしまおう、と高いビルの入り口前まで入ってみた。

 だが、手押しのガラス扉の前で立ち止まると、そこからホナミは動けなくなる。

 一度足を止めてしまうと、それ以上は進めなくなったのだ。屋上なんて、はるか遠い。

 こんなに生きてるのが嫌なのに、自分の気持ちってそんな程度らしい。

 生きていたくない、と、死にたい、は同じじゃない。

 そう悟ると、入り口で石のように固くなっていた足は、魔法が解けたように血が通いはじめた。ホナミはゆっくりと後ろに引き返した。

 どこに行くべきかもわからない。行きたい場所もない。何も考えないで歩いていたら、体は勝手に自分の部屋に戻っていた。

 ベッドに潜り込み、布団をかぶる。視界が闇になると、『光の路』を出る間際の、他の待ち人たちの会話が思い起こされた。

「今日は開くのがおそかったのよ。何かあったのかしら」

 それで待ち人が並んでいたんだ、とホナミは合点した。少し頭が冷えてきたらしい。

 とにかく、このまま眠ろう。

 ホナミは着替えもせずに、そのまま目を閉じた。涙がツーっと頬を伝わってきた。


 しかし、寝つく間もなく、携帯電話が鳴った。社長からである。

 ゆーりんさんの容態が変わったのかも。意識が戻ったのかもしれない。ホナミの思考が、現実に引き戻されていく。

「おう、俺だ」

 社長の声はいつもと変わらない調子に戻っている。

「あ、あの……」

「今夜な、お前に指名が入ったぞ。初見の客だから、うまく頼むな」

「あの……」

 いつものようにホナミに構わず、社長の喋りは一方的だ。

「久しぶりだなあ、お前に指名が付いたのは。ここんとこ、客付きがドン底だったからな、元気だして客を喜ばせて、いいきっかけにしてくれよ」

 これで励ましているつもりなのだろうか。げんなりして、早く電話を切りたいホナミだ。しかし、ゆーりんのことはどうしても聞いておきたい。

「あの、ゆーりんさんの容態は……」

 社長はすぐに、あっさりとした物言いで答える。

「あれは変わらねぇよ。目を覚ますか死ぬかしたら、病院から連絡くるだろうよ」


 この社長の下で働きたくない。そう強く思っても、この会社で客の相手をしなければ食べていけない。

 指名をとれなくて飛び込みばかりでも、もう七か月もこの世界の稼ぎで暮らせている。こんなに続いているのは、このデリバリーヘルスの仕事が初めてだ。

 ──でもこんなのイヤだ。

 イヤだ、イヤだ、イヤだ。何度も繰り返し、声にも出してしまうほどなのに、体は夜の仕事に備えようと、一眠りしかけている。自分が自分でないようで、抗い方すらわからない。

 まるで何者かに操られているようにすら感じてしまうホナミだが、マリオネットの糸は人形自身が切り離せないことも知っている。

 ──そっか。死にたいと思ってもそうできないのは、操られているからなんだ。

 見えない、触れない糸が天ほど高いところから下げられている気がして、掛け布団を剥いでじっと天井を、そして糸が垂れる屋根の上の高い空を思い浮かべて見やるホナミである。



 送迎のワゴン車には、運転手の男一人だけだった。指名を受けている他のキャストもいるだろうが、指名時間がすれ違っているのだろう。

 送りの道すがら、ゆーりんのことを男に聞いてみる。何か新しい情報を知っているかもしれない。

 すると、男がボソボソと口にしてくれた。

「さっき、社長のところに警察がきたんですよ。何を調べにきたかはわからないんですが」

 やっぱりこの人じゃわからないか、と半ばがっかりすると、男は意外な言葉を続けてきた。

「占いの『光の路』の占い師が、ゆーりんさんは助かると言いきったそうですよ。警察が社長に言ってたのを聞きましたよ」

「えっ?」

「社長も同じように、えっ、て言ってましたよ」

 なぜ警察が『光の路』でゆーりんさんのことを聞いたのかわからない。

 でも、ヒカリがいうなら、きっと助かるに違いない。

 スッと、気持ちが軽くなってきたホナミである。


 派遣先は見るからに安家賃とわかる、古びた低層マンション。この二階の一部屋が今夜の客である。

 三十年は使われていそうなチャイムを押すと、外のこちらにまで音が聞こえてくる。

「開いてるから入って」

 若そうな男の声がして、ホナミは、できるだけ明るく、こんばんは、お邪魔します、と高いトーンで挨拶を返した。

「そこ座ってて。今、缶チュー出すから」

 ホナミを待つ間、雑誌を読んでいたのか、まだ読みながら歩くので、男の顔は見えない。

 男がわざと顔を見せないようにしていたのを、ホナミは気づけなかった。

 男は冷蔵庫の中から缶酎ハイを手にして、こっちを向く。

 そして、おい、と急に声の調子を変えて、雑誌と缶を放り投げて、ホナミに顔を見せる。

「俺を忘れたわけじゃないだろう?」

 男の声は怒りに滲んで、しかし冷徹な笑みを作っている。

「あっ……!」

 ホナミはこれ以上ないほどの驚きの声をあげた。

 男は、往来で迷惑ナンパの演技をして、止めに入った通行人の懐を抜く、劇場型窃盗を組んだ相方その人だったのだ。

 ──こんな偶然って……。

 ホナミの顔色が途端に蒼白にかわる。

 偶然に顔を合わせたのではなかった。男はデリバリーヘルスで憂さ晴らしをしようと、いくつかの店のキャストの顔写真を眺めて、好みの顔立ちを探していたのだ。

 その中に、身入りのすべてを持って連絡を絶ったホナミを見つけたのである。

「あのときは、ひでえことしてくれたな。全部持っていきやがって」

「ごめんなさい……。警察がきて、あたし、慌てちゃって……」

「警察は関わるだけでこっちが危ないから、逃げたのは許してやる。あのでかい奴の財布、いくら入っていた?」

「いち……」

 言いかけて、ホナミは思い直した。嘘を言って、追求されると怖い気がする。

「十万円くらい……」

「だろうな。ヤクザみたいなだったから、それくらい持ってただろ」

「ま、まあ……」

「こっちは軽くないケガさせられたんだ。半分の五万で済ますってことはないだろう?」

 黙り込むホナミに、やっぱり使い込んでいやがる、と見下す目を向けてくる。

「こっちの電話にも出ないでバックレたんだから、そうだろうとは思ったさ。まあ、金を返せないなら、体で返せや」

 男ははじめからそのつもりで、ホナミを指名したのだ。

「そ、そんな……」

 体で返せという言葉に応じても、売り上げをもらえなければ店に戻れない。

 それに、窃盗での男の取り分を考えても、これ一度で済むはずがない。いや、関係をもってしまったら、今後ずっと、体とお金をしゃぶられつづけるかもしれない。きっとそうなるだろう。

「おい、早く脱げよ」

 男が歩み寄ってくる。ゆーりんを刺した客がこんな物言いだったのでは、と咄嗟にイメージが重なる。

 ゆーりんは男に近寄られるまま、刺されたに違いない。

 自分が刺される姿の想像があふれてくる。

 ホナミは踵を返して玄関まで逃げた。だが、いつの間にかチェーンロックを掛けられている。隙間程度しか開けられない。

 追い詰められた体のホナミは、

「せ、せめて今夜の料金だけでも払って……」

 目を潤ませて懇願する。

「バカ言ってんじゃねえよ。料金だと? もう先払いしてるだろうが!」

 声を荒らげると、たいして美人でもねえくせに、と吐き捨てて、ホナミの乳房をブラウスの上からつかんだ。

 胸にハンドバッグを抱きしめた体を、一層縮めてホナミは抵抗する。それでも男は、拒まれるのを愉しむかのように、

「デリヘルやってるんだから、テクは上手いんだろ?」

 と今度は両手で左右の乳房を揉んでくる。

 ホナミはもう、自分がわからなくなった。無意識に、抱えたハンドバッグに手を入れていた。

 香水の瓶をつかむと、男の目の間近で噴いた。もう、本能的な防御の行動だった。

 男が目を押さえて怯んだ隙にチェーンをはずし、玄関を飛び出した。

「てめえっ」

 男も通路に走り出るが、折しも同じ階の住人が通りかかった。何ごとか、という目で見られた男は、ホナミを追わずに、部屋に慌てて戻っていく。

 ホナミは、一生一度出せるだけの走りでその場から逃げた。ヒールを男の部屋に置いてきている。そんなことはかまわなかった。

 ストッキングの足裏が破けても、男が追ってこないとわかっても、走るのをやめない。少しでも遠くへ逃げたい、その一心で、静かな下町を駆けつづけるのだった。

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