第一話「運命の力」11
いつも寝る前には、なにかしらの不安にさいなまれていたホナミである。
ある日は、一人も客がつかなかったことで、今日のご飯の心配をする。
家賃の支払い日が迫ると、どこまで滞納できるかを考える。
ある日は、客に言われた接客での失点が、布団をかぶっても頭のなかで繰り返され、ずっと、客に責められつづける。
ある日は客に、つまらねえ女だ、と呟かれたのを思いだし、涙が止まらなくなる。
気がつけば、学校で仲良くしていた友だちもみな疎遠。一人も残っていない。
付き合った男はどれも、関係が浅いうちに自然消滅。出会い系サイトに登録しても、風俗の臭いが消せないのかうまくいかない。
何か考えるだけで涙が出てくる。ここ一年ほどは、何を思い浮かべるでもなく、枕を濡らす日も多くなった。
そんな虚しい日々を送っていたホナミも、ゆーりんの世話焼きのおかげで、数年ぶりの明るい気持ちになれた。
「今日から前を見て過ごしていこう」
そう心に決めて、実に久しぶりに気持ち良く寝入っていたホナミである。
数時間眠っただろうか、枕元で携帯が鳴っている。社長からだ。
時計を見ると昼前の時間である。もしかして、今夜、久しぶりに指名を受けたのかも、とホナミは期待して出てみる。
電話の向こうで、社長は嘆いていた。
「ゆーりんがなあ、ゆうべ客に刺されて、あぁ……俺もさっきまで病院にいてな」
社長の声に、耳を疑う。
あまりの事に、ホナミは言葉すら出てこない。
しばしの間を埋めるように、社長が先に口にした。
「ありゃ、ダメかもしれねえなあ」
「そんな……!」
「とにかく、今夜からゆーりんの客のいくつか、お前に回すから──お前を育てねえとしょうがないから」
ゆーりんの安否よりも、彼女の稼ぎの穴を埋めるのが第一の社長に、ホナミは呆気にとられるやら、怒りが込み上げるやらで、自分の言いたいことすらわからなくなる。
「んじゃ、まあ、頑張って稼いでくれよ」
これを言いたかった社長は、用は済んだとばかりに、電話を切ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください! 切らないでっ!」
居ても立ってもいられないホナミは、化粧すらせずに自分のアパートを飛び出した。
花屋で、大切な人の回復を願って花を買いたい、と伝えると、店主の女性は大張り切りで、優しくも素晴らしい見た目の、大きな花束をこしらえた。
そしてホナミは、出来栄えにふさわしい花代として八千円を請求されたが、顧客が少ないホナミにとって、これは今の持ち金のほとんどをはたかなければならない金額だった。
それでも、ゆーりんのために祈りを込めると思えば、躊躇なく財布を開けられた。
社長から聞き出したことによれば、ゆーりんはゆうべ、顧客からの性行為の求めを断ったらしい。それだけで刃物沙汰になるとはこの世界では考えにくいが、今はそれしかわからないという。
刺してしまった顧客がすぐ自ら消防を呼んで、ゆーりんは搬送されたが、意識不明の容態のままらしい。
地下鉄を乗り継ぎ、教えられた病院に駆け込むと、受付で集中治療室から一般病棟に移ったと教えられた。緊急手術を終えたという。
病室番号を探して歩くと、その病室は野村百合と記されている。ゆーりんの本名らしい。
ドアをノックしようとしたとき、ホナミは面会謝絶の札がドアノブに吊り下げられているのに気がついた。
どうしようと思い、近くに看護師がいないかと廊下の奥に目をやると、こちらの方に男が歩いてくる。
──!
この男も花束を抱えているが、その顔を目にして、ホナミは息が止まった。瞬時に目をきつく瞑って、男に背を向けた。
長袖シャツを着て刺青は見えないが、先日駅前通りでズボンから財布を抜いた刺青男に間違いなかった。組んだ相方を一撃で叩き伏せた腕っぷしが、脳裏に蘇ってきた。
刺青男が病室の扉をノックすると、中から中年の女性看護師が現れた。看護師が病室に駐在していたのである。
「まだ意識が戻りません」
看護師は花束を受けとり、そう報告する。
「助けてやってください。あいつ、本当にいいヤツなんです。こんなことで死なせたくないんです」
ホナミは意外な姿を見た。刺青男は体を直角に折り曲げるほど、深々と頭を下げているのだ。
「チームで全力を尽くして治療させていただいてます。百合さんにきっと届きますよ、あなたのお気持ち」
ホナミは柱の陰に隠れて、二人のやりとりを聞いていた。ゆーりんが言っていた彼氏とはこの男だったのである。
これが巡り合わせというものなのか。
──よりによって、あの男がゆーりんさんの彼氏だなんて……。
ホナミは思った。あの日、私を助けようとして男を殴り倒したのだから、根はきっと良い人に違いない、と。
──もう、ゆーりんさんを頼れない。
ホナミはそう悟らざるを得なかった。
「ゆーりんさん、幸せになってください……」
涙がポロポロこぼれるままに、花束をその場に残して、ホナミは足早に病棟を去っていくのだった。
ホナミは『光の路』へ行かずにはいられなかった。心のすがりどころは、もうここしかないと思ったのだ。
重い扉を開くと、待ち合いの三席は順番待ちの人で埋まり、さらに三人、立ちで待っている。
自分の順番が回るまで、相当の時間がかかるだろう。それまで、心が耐えきれるだろうか。
──無理だ……。
ホナミは待ち人たちを目にして、また涙が止まらなくなった。
『光の路』を背にして、ホナミは亡者のように歩いていくのであった。