過去
本作品は歴史物語ですが、度々横文字が使われています。物語の内容自体も歴史にそぐわないものではありますが、語感やストーリーを優先させてそのようにしました。予めご了承ください。
時は遡って十八年ほど前へ。
越中の竹田という大名の家に、ある少女が生まれた。両親はその少女を「糸」と名付けた。糸は二人姉妹の次女だった。
この竹田という家、以前はあまり強い国ではなかった。が、糸の父親が大名が引き継いでからというもの、みるみる力をつけていった。
糸の父親はあまり争いを好まなかった。巷では「平和の父」と呼ばれるほどだ。
そんな彼が何故力をつけられたのか。
ひとえに彼の教養の高さと人柄だろう。子供の頃に培った和歌、蹴鞠、剣術などの力で実力者の元を渡り歩き、戦をほとんどすることなく同盟関係を多く結んだ。結果、彼は大名たちの橋渡し役として活躍したのだった。更に、部下にも家族にも優しく、病気になった時は領民から心配されるような大名だった。
竹田家は領地が広かったわけではない。細々と国を展開していたのである。ただ、父親は越中という国の居場所を確立した偉大な人だったのだ。
おかげで、糸は幸せに育てられ、沢山の人に愛されて、何不自由なかった。
話は変わって、竹田の隣には野坂という大名の国がある。無論、竹田と同盟関係を結んでいた。が、同盟に辿り着いたのはほんの最近であった。野坂はあまり多くの同盟関係を結んでいなかったのだ。領地が広かった上に、海と山に囲まれた地形だったので、同盟を結ぶ必要がなかったからだろう。そんな野坂だが、古くから頼りにしている国がある。それは、竹田を挟んで南の国、加賀の狭間という家である。かつて、野坂の大名の子息が狭間の人質だった頃から、同盟関係は続いていた。自分の娘を互いの子息に嫁がせているほどだ。
またまた話は変わって、糸が生まれてまだ数年の頃、狭間が戦をした。領地争いだ。竹田の同盟国と争いになったのである。もちろん竹田は隣国ということもあり、すぐに兵を出した。実質、竹田と狭間の国境が戦いの最前線だった。そして、味方は多い方が良い。竹田は野坂にも応援を要請した。
もちろん野坂も兵を出した。
そして、裏切った。
野坂としては、竹田が強くなっていったことが気に食わなかったのだろう。長年同盟国だった狭間を攻められたのが許せなかったのかもしれない。
狭間に兵を向かわせていると思いきや、実は竹田に向かわせていたのである。
竹田からしてみれば不意打ちだ。挟み撃ちにされて、なす術なく竹田は滅んだ。
そして、これが引き金となったかの如く、狭間と野坂はみるみる有利に戦を勝ち進み、勝利した。
糸の父親はなんとか農民の家へ逃げ込んだのだが、間もなく病気にかかって、桶一杯の鼻血を流し、下痢と痙攣をおこして死んだ。
母親は捕らえられてしまい、牢屋に入れられた。その夜、壁に頭を何度も打ちつけて自殺した。顔の皮が剥け、肉が剥き出しになり、骨が砕けていた、らしい。
これは、糸が実際に見たものではない。後々この出来事について調査して知ったことである。
それでも糸の姉はなんとか逃げていたのだが、その途中で野坂の兵に見つかり、槍で串刺しになって死んだ。
しかし、ただ一人だけ、奇跡的に生き残った者がいる。
糸である。
姉に連れられて一緒に逃げていたので、姉が殺された時にももちろんその場にいた。が、糸は元々同じ年齢の子供と比べて、非常に小さい体格だった。なので、たまたま深い木の根っこにちょうど隠れられたのだ。
結局その後、糸のことは誰も見つけられず、死体はないものの死んだということで結論づいた。
糸はまだ幼かったが、一人前の子供だった。しかも、賢い子供だったのだ。何が起こっているのかちゃんと理解していた。
糸は何日も何日も歩き続け、ある日、護身用に持っていた短剣を手に木の根っこに座りこんだ。死のうとしたのだ。しかし、いざ短剣を構え、目を閉じるとどうしても踏み切ることが出来ず、とうとう泣き出してしまった。
竹田の娘だということを除けば、糸はただの幼い女の子だ。なのに、どうしてこんな目に遭ってしまうの?なぜ家族を殺されなければならなかったの?
本当なら、こんなことから離れていたかった。こんな気持ち知りたくもなかった。無理矢理知らされたのだ。無理矢理こう仕向けられたのだ。
一時間ほど、泣いたり泣き止んだりを繰り返し、そのうち涙を拭いて立ち上がった。もう死のうとは思わなかった。負けちゃだめだと、自分で自分に言い聞かせた。私まで死んだら奴らの思うツボだ。
その時、糸はある豪商に出会った。
豪商は一目で糸が竹田の娘であることがわかったが、無意味にも野坂に差し出すことはしなかった。むしろ、大変同情して、決して見つからないように引き取ることにした。
糸はその豪商の家で女房として働くこととなった。
名前も変えた。野坂にバレないようにするためだ。その改名後の名前が、黒田栄である。
最初は幼いし、何も出来ないので周りから散々馬鹿にされて、虐められた。それでも、栄にはここで働く以外生きる術がない。なので、辛抱強く働いた。その甲斐あって、栄が成人した頃には若いながらも、一人前の女房になっていた。
その間、栄は自分の家族が殺されたことを決して忘れたことはない。許したこともない。しかし、豪商に拾われてからは、そんなことを考えている暇がなかった。当時の野坂の大名が病気で死んだことも聞きいていたので、黒い感情は風化しつつあった。
だが、ある時、野坂の城がある越中の朝香村が荒れている、と聞いた。新しい城主——栄の親を殺した男の子息——もだめだめだと聞いた。治安も悪くなっているという。そして何より、
虐殺事件が起こったということを聞いた。
通りすがりのただの妊婦のお腹を悪戯に裂いて殺したのだ。
そして、それ以外にも似たような事が度々起こっているという。
——また同じことが繰り返されている
その瞬間、憤怒が栄の身体の底から湧き上がってきた。北風の唸りにも似た怒りが、凶暴に栄を揺さぶった。
今もリアルで血を流し続けている回想。栄に憑りついてしまった記憶。
それは強大に膨れ上がり、栄の心を黒く染め、蝕んだ。一人の人間ではコントロールができないほどに覆い尽くした。
誰の心にでも潜んでいる化け物。人によってその化け物の眠りの深さは違う。
しかし恨みという化け物が目覚めた時、体を起こし覚醒した時、人は自分の意思を持てなくなる。化け物によって身体が奪われ、利用される。その時にとる行動は自分の行動ではない。あくまで化け物が「人間の身体」を支配することで実体化し、自分は上手いように利用され、コントロールされているに過ぎないのだ。
だが、栄がそれに気づくのはまだまだ先の話である。
虐殺事件を聞いて、
——許せない
親が親なら子も子なのだ。たった一人の傲慢な人間のせいで、沢山の人が犠牲になっている。
そんなことはあってはならない。
他者を傷づけてはばからず、他者の人格と尊厳を傷つけて成り立つ国など、必要ない。
滅ぼさなくてはならない。
どれほどの人が悲しんだだろう。苦しんだだろう。恨んだだろう。
二度と犠牲者が出ないように。
二度と誰かの我儘で苦しむ人が出ないように。
二度と悪人が生まれないように。
私が立ち上がるんだ。そして、こんなひどいことをする野坂家にふさわしい報いを与えよう。
ここに、栄の気持ちを理解し助言をしてくれる人がいたならばこう言っただろう。
今からあなたがしようとしていることは、人々のためではない。野坂に復讐するために、都合の良い理由をつけているだけなのだ、と。
しかし、栄の側にそのような人はいなかった。
私が野坂の国を救うんだ。野坂の傲慢の檻から人々を救い出すんだ。
私は正しい。
その時、栄の口元でとある点と点が結びついた。それは現実世界にあるどんな物差しを使っても図れない完璧な直線だった。それは正義と復習の二点間を最短距離で結んだ線。
全部壊してやる。全部取り上げてやる。完膚なきまでにやっつけるんだ。
栄はにんまりと笑い始めた。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。また、糸の出身地である「越中」はかつて実在したものではありますが、「竹田家」「野坂家」「狭間家」は実在しておらず、歴史的事実に基づいたものではありません。