心配
本作品は歴史物語ですが、度々横文字が使われています。予めご了承ください。
赤井川虎丸はすっかり陽が落ちた頃に帰り始めた。失踪した西田照の行方を捜索をしていたのである。
朝香村の中心部にはまだ人はいるが、そこから一歩脇道に逸れると、人っこ一人いなくなる。
長谷川勇介と園田桜は照のことを放っておけと言う。天間佐吉は黙視しており、照を探すのは千葉薫子と虎丸だけだ。だが、薫子も三割くらいは諦めている。朝から晩まで全力で照を探しているのは虎丸のみだ。
確かに、勇介や桜が言うこともわかる。裏切り者や逃亡者はばっさりと切り捨てるべき。それが普通なのだろう。大人の世界はそれほど甘くない。過程を認めてくれる人はほとんどおらず、結果主義。一度集団から離脱した者は追わず、そして二度と受け付けない。
だが、虎丸にはそれが出来なかった。自分が甘っちょろいことは重々承知だ。理想主義者であることも自覚している。だが、照とはこれまで一緒に頑張ってきたじゃないか。助け、助けられ、励まし、励まされてきた。それを何もなかったかのように切り捨てるのは、あまりに悲しい。それが幻想だとしても、虎丸は希望を信じたかった。
すると、背後から迫る足音に気づいた。
ぱたぱた、ぱたぱた。
誰だ?と振り返ろうとした瞬間、
いきなり、後頭部を衝撃が襲った。
頭部がもげ、眼球が飛び出そうになるほどの衝撃。息が止まり、口腔と鼻腔に血の味が広がる。
視界と思考が急速に窄まる。
間もなく意識が薄らいできた。
* * *
ゆっくり目蓋を開くと、木の壁が目の前に見えた。どうやら屋内にいるらしい。
頭を上げた途端に後頭部に痛みがはしり、虎丸は叫び声を上げそうになる。
今にも朦朧としそうな意識を必死に繋ぎ止めていると、ようやく思考が甦ってきた。
後頭部の衝撃はおそらく殴打によるものだ。素手にしろ道具にしろ、手加減は感じられない。節々で抵抗を感じるのは、おそらく縄のようなもので拘束されているからだろう。
ぞっとした。何をされるかは判然としないが、無事に帰されないのは察しがつく。
その時、扉が開いた。虎丸の目に、開いた扉の間から室内に踏み込んでくる二本の脚が見えた。
黒田栄だ。
栄は床にしゃがみ込むと、虎丸と同じめの高さになった。
「目が覚めたのね」
栄は口の端を歪めて笑った。
その時虎丸は、栄が随分泣き顔であることに気づいた。笑っているのに泣いているように見える。
栄はどうしてこんな顔で笑うのだろう。
「……捕まるに決まってる」
「何ですって?」
「こんなことをして捕まるに決まってる」
栄は歯の間から洩れるような、擦れた声で嗤った。
「私の最終目的は野坂道残よ。 あいつのせいでどれだけ多くの人が血の涙を流したことか。 野坂道残を城主から引きずり降ろして地獄に突き落とせるなら、後はどうなったって構わない。 どうせ私は死んでるのも同然なんだから」
栄は皮肉な笑みを浮かべながら言っているのを聞きながら、虎丸は悲しくなっていた。おそらくは、未来も希望も失った人間の、せめてもの虚勢だろう。
「……人のためなんかじゃない」
「何?」
「これは人のためでもなんでもない。 いくら道残に殺された人の無念を晴らすためとはいえ、無関係な人たちを巻き添えにするなんてただの腹いせだ。 あんたは嘘つきだ」
不憫だった。たった一人の人間の復讐の巻き添えで亡くなった人々も不憫なら、いいように操られ不安を煽られた朝香村の村民も不憫だ。
「本当にこんなことを続けるのか」
「当然でしょ? 罪のない人々を惨殺して、自らは崇高な人物として振舞っているのよ。 相応の報いを受けてもらわなくちゃ」
栄は傲然と言い放つ。たとえ法律や道徳に背いたとしても、栄の正義は決して変えられないだと虎丸は思った。
「こんなことを続けるべきじゃない。 もともとあんたはこんな人間じゃないはずなんだ。 だけど、あんたは家族を無惨に殺されて辛い思いをして、だから人生が狂って、人格が歪んだんだ」
「人格が歪んでる?」
「そうだよ。 本当なら人殺しをするような人生じゃなかったはずだ。 だけど、今はどうだよ。 朝香村のお尋ね者じゃないか。 捕まれば即死刑、首をはねられて死なないといけない。 結局はあんただって操り人形でしかないんだ。 野坂家に手のひらで転がされて、人殺しまでさせられてる。 だって、復讐とはいえ、実際に手を汚してるのはあんた自身じゃないか。 あんたの手が血塗られているのは紛れもない事実だ。 あんたはただいいように操られて、人生を壊されているだけだ」
その瞬間拳が飛んできて、気が付いたら虎丸は床にすっ転んでいた。
目の前に血だまりが広がる。おそらく無残にも鼻がひしゃげたのだろう。鼻で呼吸ができず、ぜいぜいと口で喘ぐしかない。口の端から血と唾液が混ざったものが滴り落ちた。
それを見て、栄は洪笑し始めた。
「とんだ誇大妄想ね! 愉快だわ。 本当に愉快。 私が操り人形? あいつの? あっははは、これは傑作よ。 素晴らしいわね」
やがて栄は嗤うのをやめ、虎丸の腕を掴んで、引っ張りあげた。今にも虎丸の腕の骨をへし折ってしまうことができそうな力が込められていた。
「私は野坂道残を地獄に引きずり降ろすためなら鬼畜にもなろうと誓った。 家族を殺された悲しみと復讐の怒りは違うって、そんなこと分かってる。 朝香村の村民たちは復讐の道具じゃないって、そんなことも分かってる! だから、無差別に殺すのではなくちゃんと人を選んでた。 なのに、あんたたちがヘンに首を突っ込んだせいで、数多の人々が迷惑を被り、亡くなった人もいた。 亡くなった人やその家族はさぞかし無念でしょうね。 だけど、それももとは道残のせいでしょ? 道残がどんな罪を犯そうが、誰も罰することはできなかった。 だけど、今回ばかりは役立たずの城主を永らえさせたことを後悔してるはずよ」
鼻から出た血が切れた唇を伝って流れる。それを吐き捨てながら、虎丸は続けた。
「こんなことはもうやめろ。 こんなの間違ってる!」
栄は虎丸の言葉を無視すると、ゆらりと立ち上がった。
「私とお話ししてくれてありがとう。 でも、これ以上話しても堂々巡りよ。 あなたには最後の仕事を果たしてもらわなくちゃ」
栄は刀を抜き、振りかぶった。
虎丸は、刀が空を切っている間中、両目を開いてその一部始終を見ていた。一瞬が無限に引き延ばされ、虎丸は死を経験していた。
そして、刀の刃が虎丸の頸動脈を断ち切るその瞬間もまた、虎丸は栄を、照を、そして残された仲間たちの身を案じていた。
赤井川虎丸は死んだ。
本作品はフィクションであり、作中で起こる出来事や登場人物は全て創作です。