天間佐吉の話
本作品は歴史物語ですが、度々横文字が使われています。予めご了承ください。
天間佐吉は赤ん坊の頃、両親に捨てられた。記憶は全くない。だが、それについて深く考えたことはないし、これからもそのつもりはない。
そして、佐吉は竈門克也に拾われた。
克也が征侑士であるおかげで、佐吉は物心ついた時から剣術や学問を学んでいた。
征侑士の修行は厳しかった。命をかけて国の任務を全うする仕事だからだ。一日に何十時間も剣術を習わされる。挙げ句の果てには、あまりの肉体的苦痛で地面に吐いているのに、こんなところで吐くなと怒鳴られて蹴飛ばされる始末だ。
見習い征侑士の中には、佐吉ほど歳が若い人間は他にいなかった。既に成長しきっている青年ばかりである。それもそのはず、子供の頃から宿命の如く征侑士になるための修行している人間など、いるはずがない。征侑士は立派な仕事なのだ。佐吉は特殊な例だった。
年功序列が激しいこの世界で、佐吉はどれほど気を遣ったことか。征侑士の年少者は身体的にはもちろん、精神的にもダメージを多く負う。一番早く起き、一番遅く寝なければならない。風呂には佐吉が最後に入るのだが、物音一つ立ててはいけない。先輩の命令には必ず従わなければならない。一人たりとも佐吉に優しくしようとする人間はいなかった。これこそ非情な運命としか言いようがない。
だが、佐吉は逃げなかった。それには理由がある。佐吉を馬鹿にした人間にどうしても勝ちたかったのだ。
どれだけ練習しても、厳しくされても剣術では年上に敵わなかった。命を削る思いで、ほとんど睡眠を取らず、身体をどれだけ酷使したとしても、コテンパンにされるのが関の山だった。学問においても然りだ。そもそもの基礎知識がない佐吉にとっては、なかなか辛かった。
更には、その努力が報われることもなければ、誰かに認められるわけでもない。掛けられる言葉といえば怒声か馬鹿にされるかだけである。
いつか、実力で奴らをいつか見返すんだ。
しかし、佐吉は更に大きな壁にぶち当たることになる。
この美しい顔ををやっかまれたのだ。それは歳を重ねるにつれ顕著になった。美は成長するに連れて際立っていくものである。佐吉のせいではないのに。佐吉の両親は佐吉を捨てただけでなく、佐吉にとっては負でしかない遺産も残してくれたわけだ。これがある人にとっては皮肉でしかないことは、重々承知している。だが、こちら側からすると、とてもそういう風には思えない。確かに、美しい顔を持っていれば、得をすることも多いだろう。しかし、それが原因で付き纏われた挙げ句、殺される例も度々聞く。美しい顔を持つ代わりの代償がこれなら、何とも言いようがないじゃないか。
しかも、残酷にも佐吉をやっかんでいた人間は、わかりやすい虐め方をしてくる奴らだった。雨の日には後ろから蹴飛ばされ、足拭きにされた。無理やりミミズを食わされたこともある。披露したい数あるエピソードの中でも、一番焦ったのは、夜中に寝ていたところ、いきなり羽交締めにされて、服の中に手を入れられた時だった。二人組で手に油を持っており、それを佐吉の尻の穴に塗って女の代わりにしようというのだ。その時は結局、必死で抗ったおかげで、異変を感じた克也がやって来て止めてくれた。
絶対に奴らの上に立ってみせる。それが佐吉の原動力だった。
とはいえ、ずっとこんなに強気なわけではない。逃げ出すことや、奴らを殺すことも真剣に考えていた。ただ、それを実行する勇気がなかっただけなのである。
そんな佐吉も成長する。周りと見合うほどの年齢になってくると、小さい頃から鍛えられていた分、能力が垢抜けるようになった。
何も知らない人間は言う。天間佐吉は天才だと。生まれながらの征侑士だと。でも、それは違う。
今までどれだけもがいてきたか、あんたらにわかるか。どれだけ耐えてきたか、あんたらにわかるのか。
努力の甲斐あって、佐吉は征侑士の最年少記録を叩き出すこととなった。めでたく、一人前の征侑士として認められたのである。
しかし、その頃から克也の容態が急に悪化し、彼はあっさりと亡くなった。老衰だった。
そして、克也の代わりに佐吉の上司になったのが葦名辰巳である。辰巳も克也の教え子であった。家族が既にいて、妻と男の子一人という三人家族だった。辰巳とその妻は珍しく恋愛結婚だったという。城主の命令で、ある調査をしている最中に寄った茶屋の看板娘が今の妻で、そこから恋愛に発展したらしい。
そして、克也が亡くなったちょうどその頃、佐吉が仕えていた伊豆は荒れていた。というのも、先代の城主が亡くなり、後継者争いをしていたのである。長男に継がせるか次男に継がせるかの二派に分かれていた。通常なら長男が継ぐのだが、あいにく次男の方が出来が良かったのだ。
そうなると征侑士も無関係ではいられない。征侑士は国から雇われているから、政治の影響をもろに受ける。長男と次男の二派に必然的に分かれることになった。
佐吉は長男派だった。これは佐吉の意見が反映した結果ではない。辰巳が長男派だったからそれに従っていただけである。しかし、辰巳も辰巳なりの人間関係があっての長男派だったように思える。
そのような事態の中で、長男側からある命令が下された。次男の妾を殺せというのだ。それは辰巳と佐吉に任された。
この妾は一般市民である。独り身で夫はいない。若くて美人だった。つまり、次男はいつの間にか、こっそりと市民にも手を出していたわけだ。そして、この妾には子供がいた。次男との子供である。男の子だ。まだ小さい赤ちゃんだった。
そして、次男は子供が出来てからも度々妾の元へ足を運んでいたらしい。どうやら彼のお気に入りになったようである。
その妾を殺せというのだ。
長男の方からしても――こういう言い方は良くないだろうが――宣戦布告の最初の一手としてはちょうどよかったのだろう。
佐吉はそれまで、自分が殺される可能性のある仕事は受け持っても、誰かを殺すという仕事はしたことがなかった。
結局、仕事を決行するのは夜中ということになった。相手の寝ているところを不意打ちしようとしたのだ。
そうして、誰もが寝静まった夜中に、辰巳と佐吉は二人で妾の家に忍び込んだ。灯りは佐吉が持っているが隠してある。そして、建物に足を一歩踏み入れた時である。これは本当に運が悪かった。子供が泣き出したのである。赤ちゃんなら仕方のないことだが、そのことで妾――子供の母親も起きてしまった。
悲鳴をあげられる前に人思いに殺そうとしたのだが、突然辰巳に手で遮られた。
「殺すな」
辰巳の言っている意味が分からず、固まってしまった。どうすればいいのか分からなかった。
辰巳はしばらくその場に突っ立った後、黙って家から出ていった。
佐吉は妾と子供とその場に残された。
今思えば、辰巳の気持ちもわからないではない。自分も家族を持っていて、妾の家族と同じ、妻と男の子という家族構成なのである。自分と重なり、殺せなかったのだろう。
勝手に殺す訳にもいかず、慌てて辰巳の後を追いかけたのだが、彼の姿は既になかった。
戻って妾とその子供を殺すか殺さまいか激しく逡巡して、結局何もせずに帰った。
帰ってそれを報告すると、征侑士の長に見事に吹き飛ばされた。
「何やってんだ、お前!」
辰巳は帰ってきていなかった。逃亡していたのだ。やはり、あの家族を殺さなかったのは彼の独断行動だったらしい。正直――そうまでして何故あの家族を守りたかったのか疑問だった。
任務を果たせず、顔が二倍に腫れ上がるまで殴られた。だが、佐吉にはまだ情状酌量の余地があった。しかし、罰として辰巳を見つけ出し、首を持って来いとの命令が下された。
妾と子供を殺す任務は別の征侑士が任されていた。あの家族は結局殺されたらしい。
そこからというもの、佐吉は三年に渡って全国で辰巳を探し続けた。しかし、辰巳がどこにいるかなんて分かるわけもなく、山の中にいるとすれば一生かかっても見つからない可能性もある。だが、これこそが佐吉が受けるべき罰なのだ。しかも、探してはいたものの、見つけた後どうするべきなのかは見当もついていなかった。本当に自分が辰巳を殺せるとも思っていなかった。
しかし、辰巳は佐吉が思っているよりもあっさりと見つかったのである。
佐吉が笹身山の中を歩いていた時だった。まさか、こんなところで辰巳を見つけるとは思いもしないで探していた。
それは細い小川の近くにあった。川上に向かって歩いていくと、小屋のような小さな建物が建っている。そこに子供がいた。ぱっと見て、十二歳くらいか。
佐吉はその子供に近づいて行った。
子供は佐吉が近くに来るいよいよのところまで気が付かなかった。
子供は佐吉を見ると、言葉通り飛び上がると回れ右して逃げ出した。
素早く首根っこを掴んで止めたのだが、その時、子供が振り返った時に視線が一瞬佐吉の後ろに移った。
佐吉が横に避けると、案の定そこに刀が振り下ろされていた。刀を抜いて相手と向き直ると予想していた人物がいた。辰巳だった。そして、この子供こそが寧々なのである。
そこから、佐吉は辰巳と乱闘を繰り広げることになる。母親は建物から出てきて、どうすることも出来ずに寧々を抱きしめながら見守っていた。
ただ、刀を交えながらも、辰巳の腕は確実に落ちていることは目に見えてわかった。動きは鈍いし体力も落ちている。
とうとう佐吉が馬乗りになり、右足で辰巳の胸を踏みつけ、刀の剣先を辰巳に突きつけるところまで追い詰めた。
そこで、辰巳はこう言ったのである。
「俺は、お前を人殺しにしたくはない」
手が汗でじっとりと濡れていた。
自分が追い詰めているはずなのに、なぜか追い詰められている気分になるのは何故だろう?
「俺はあの家族を助けたつもりだった」
佐吉は自分の心が揺らがないようにぐっと刀を握りしめた。
「だが、俺はあの妾の家族も、自分の家族も、そしてお前のことも助けてやることは出来なかった」
殺してくれ。
佐吉は一瞬の間に様々なことを考えた。
本当に殺してもいいのだろうか?
仮に殺さなかったにして、その後佐吉はどうすれば良い?自分が殺されるか、一生全国を彷徨い続けるかどちらかだ。
だが、これは命令である。殺さなくてはならない相手が今、目の前にいる。三年間探し続けて、けれども会いたくなかった人間だ。
刀をもう少し下に下ろすだけ。怖いのは今だけだ。やってしまえば一瞬だ。
佐吉は辰巳を刺した。まともに返り血を浴びた。あの時の感覚は忘れまい。刀さえ弾き飛ばしてしまいそうな分厚い身体が思いの外柔らかくて、蒸した芋に包丁を入れるように食い込んだ刃。
今でも思う。
命をかけてまで辰巳が守りたかったものとは何なのだろう?
その後、母親からは泣いて自分も殺してくれと頼まれたので殺した。
だが、泣いている寧々を見て、彼だけはどうしても殺せなかった。それが彼にとっていいことなのかは分からなかったが、どうしても身体が動かなかった。
そうして佐吉はその場から立ち去ったわけだが、辰巳の首は取らなかった。子供がいる前でその父親の首を斬るなんてできるわけがない。その後、刀は川で何回も洗って、全身着替えた。
この後、自分はどうするべきなのだろう?辰巳や母親の身体はそのうち腐ってなくなるだろう。それとも寧々がどうにかするだろうか。いずれにしても、佐吉は二度と自分の国には戻れまい。永遠に彷徨い続けることになるのだ。
辰巳を殺してから、何日かもわからない時間を笹身山で過ごした。自分の身体に苦を強いろうとしたからではない。単に、山を降りる道を見失っただけである。碌な食べ物や水も飲んでいなかったが、意外にも苦しくはなかった。
とある日に雨が降って来た。本降りではないことが幸いだったが、しとしとしているのも絶妙に気持ち悪い。
ぬかるんだ地面を踏みしめながら歩いていくと、明かりのついた建物が見えた。宿だろうか?
そこに行くか行かまいか激しく悩んだが、背に腹はかえられない。結局、その建物に行く事にした。
入ると三人の人間がいた。一人はこの建物の主らしい女。いかにも人が良さそうな顔をしている。そしてもう二人は男と女で、床に座り込んで、食事を目の前にしていた。どちらとも綺麗な格好とはなかなか言い難く、特に男の方は酷かった。服もボロボロだし、髪もパサパサだ。その上、がりがりに痩せている。いたずらっぽい瞳と勝気そうな唇。世に言う浮浪者では無さそうだ。女の方は普通の人だった。特に目立った特徴はない。強いて言うならば、男とは逆で口角が垂れ気味、目には真面目そうな堅い光が見える。
この二人こそ、長谷川勇介と西田照であった。
* * *
長谷川勇介という男は意外にも慎重な人間である。
彼と関わって改めて、やはり彼が元盗賊の頭領だということを実感した。佐吉は人を二人殺しただけでこれほど苦しんでいるが、勇介はそんなことを考えてはいない。何しろ人殺しが仕事みたいなものではないか。更にはその元頭領である。
彼と共に旅をすることになったのは、西田照がそう提案をしたからだった。あの時、佐吉は咄嗟に反論しようとしたが、自分も人殺しをしている身分で、勇介に対してだけ人殺しだからと責めることは出来なかった。だから、行動を共にする決断をしたである。
それよりも奇妙な行動をしたのは西田照だ。
何度も言うが、勇介は元々とはいえ盗賊である。佐吉なら何かあっても自分の身を守れるが、彼女はどうだ?未だ発覚してはいないが、彼女は何か隠しているのではないか。盗賊と共に旅をしても大丈夫な何かを。思えば、勇介を探しに盗賊が山から降りてきて家に押し入って来た時も、彼女が地下室を用意していた。いや、有り難かったのだが、そういうことじゃなくて、なんか――
彼女には鋭い洞察力と豊富な知識がある。ただ、まだ《・・》彼女のことを調べようと思っていない。それはまだ後のことだ。
一体この先どうなるのか、全く先が読めない。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中の出来事は全て創作です。