千葉薫子の話
本作品は歴史物語ですが、度々横文字が使われています。あらかじめご了承ください。
千葉薫子は美作出身のお嬢様であった。確かに、贅沢に育てられた自覚はある。両親はどちらも健在で、姉と妹という家族構成だった。薫子はその妹である。父親は仕事が忙しく、ほとんど顔を見たことはない。家に戻って来る時も、帰って来るというよりは泊っていくという表現の方がぴったりだった。怒られた記憶もなければ、可愛がられた記憶もない気がする。正直、影は薄かった。
薫子の家が裕福だったのは、父方の祖父のおかげである。薫子が生まれた時には既に亡くなっていた。祖父は元々、貧乏な町人の息子だったらしい。そんな中、祖父の両親は将来のために、お金を搾り出して、祖父を学校に行かせた。毎日片道二時間かかって通っていたらしい。勉強に励んだ祖父は断トツの優秀さを誇り、その後学校の先生になった。これは、貧乏な町人にとっては異例のことである。そもそも貧乏人は学校にすら行けないから、学校の先生になることは不可能に等しい。しかし、その偉業を祖父は成し遂げたのである。で、ようやく貧乏生活から脱したのだ。そうした先代の努力があったおかげで、薫子はお嬢様だったわけである。
母親はかなり厳しい人であった。自分にも他人にも厳しいところがあって、その上口が悪かった。基本的に完璧主義者で、自他ともに思い通りにならないと、機嫌が悪くなるという具合である。常に気を遣わなくてはいけない存在なわけだ。薫子にとっては辛い母親だった。それが家出のきっかけでもある。
母親と父親の出会いはお見合いであった。母親の条件としては、子育てする際は全面的に自分に任せるということだった。このお見合いの前にも、母親には想い人がいたらしいが、この条件を相手が呑めないということで破局していた。結局、そのためだけに、母親は全く好きでもない人と結婚することになったのである。裏を返せば、それだけ母親にとって子育ては、こだわりの強い事柄であるはずだった。
そういうわけで、薫子は母親によって厳しく育てられた。お嬢様なわけだから、幼い頃から礼儀作法や言葉遣いを覚え、学問も徹底的に教え込まれた。しかし、薫子は次第にこう考え始める。
何で作法だの学問だのをやらなければならないのだろうか。こんなことに何の意味があると言うのだろうか。やりたくもないのにやらされて、なんでこんなに厳しくされなければならないのか。
もちろん、他の人よりも多分に良い生活を送っていたことだろう。だが、隣の芝生は青く見えるものである。
だって、近所の子たちはこんなに学問を徹底していない。礼儀作法の躾だって碌にしていないのだ。薫子が家に閉じこもって厳しくされている間、彼らは外でのびのびと遊んでいる。なのに、何で私だけこんな退屈なことをしなくてはならないの?
こういう理由で、薫子は生活に窮屈感を覚えたのだった。外の世界に出たいと思うようになった。
自由になりたい。
というのも、薫子は全てにおいて姉よりも劣っていた。作法も学問も、全部姉の方が出来が良かった。母親に媚を売ることも姉は上手かった。そうなると、厳しい母親は自然と姉には優しくなるわけで、その代わり薫子とは相性が良くなかった。
何か上手く出来ないと、狭い物置きに半日閉じ込められたり、鞭で打たれたりした記憶がある。何度「あんたなんて生まれてこなければよかった」と言われたことか。
一方で、姉は薫子に優しかった。こっそりおやつをくれたり、わからないことは教えてくれたり、苦手なことは一緒に練習したりもした。今思っても、随分優しい姉だった。
だが、だんだん薫子はそれが憎くなった。
本当は心の中で馬鹿にしているくせに、見下しているくせに、優しくしてんじゃないわよ。そうやって私を利用して、母親に媚び売ってんじゃないよ。
いつもいつもそうだ。姉は薫子よりも上にいる。薫子がどれだけ頑張っても姉には追いつけっこない。母親に褒められるのはいつも姉で、怒られるのは薫子だ。
その中でも、特に腹が立ったことがあった。茶道の練習をしていた時のことだった。
薫子は茶道が苦手で怒られてばかりいた。どうも手の動きが美しくないらしいのだ。そこで母親は、次に姉よりも上手く出来ないと、一日家から追い出すという。そうして薫子はやって見せたのだが、やはり上手く出来なかった。その次に姉がお手本を見せたのだが、普通ならば姉は完璧にこなせるはずだった。だが、姉は失敗をした。棗を落として、お茶を畳にぶちまけたのだ。母親は大変珍しがったのだが、薫子にはわかっていた。わざと失敗したのだ。
その行為に、薫子は異常に腹が立った。姉が薫子を思ってしたことなのだということは、わかっている。良かれと思ってとった行動だ。でも、薫子にとっては余計なお世話だった。悔しくてしょうがなかった。
そして、姉を憎むことしか出来ないのが嫌で、そんな事しか考えられない自分が嫌いだった。幸いなことに家は追い出されなかったが、その日はずっと自分の部屋に篭っていた。
ある日、お使いを頼まれて外を歩いていた時である。ふと思った。このまま家に戻らなかったらどうなるのだろうか。このまま逃げ出したらどうなるのだろうか。どうしても、母親が薫子を心配している様子が想像できない。思い浮かべられるのは、大して薫子を探すこともせず、姉を躾けている母親の姿。
そうだ。薫子がいると母親の気に障るだけ。怒らせるだけ。本人が言っているではないか。「あんたなんて生まれてこなければよかった」。だったら消えてやる。望み通りにしてやる。
その夜、薫子は家出をした。
当然死ぬかもしれないとは思っていた。考えれば、たった一人で村を出るのは初めてだった。勢いで家出したが、徐々に後悔の念が押し寄せてきた。でも、もう戻れない。後戻りは許されない。
どこだかわからない場所をひたすら彷徨い、土地を漂っていた時である。どこかの村で大道芸をやっている集団を見かけた。
薫子は思わず見入っていた。
こんな凄いものがこの世にあるなんて思わなかった。大道芸というのは、薫子にとって魔法だった。薫子が知らない世界で、こんな素晴らしいものが存在していたなんて。薫子はこの集団に加わりたいと思った。でも、どうすればいいのかわからない。このまま立ちすくしていても、話しかけられない気がする。もともと薫子は内気な性格なのだ。
でも、仲間入り出来るものならそうしたい。芸が終わり、片付けを始めている彼らの近くを行ったり来たりして、話しかけようかひどく迷っていた。
その時、大道芸の集団のうち、髭を格好良く伸ばしたおじさんに声をかけられた。
「お嬢ちゃん、さっきから何してるんだい?」
そこで、初めて自分が随分と怪しい動きをしていたことに気づいた。赤面した。
「あの……」
もじもじしていると、おじさんの方から口を開いた。
「ご両親はどこにいるの?」
「両親は……いないです」
集団に加えてくれと直接言うのは難しい。遠回しに言って、察してもらおうと考えた。
「おじさんは、何で大道芸をやっているんですか」
おじさんは、おそらく自慢に思っているであろう髭を撫でながら、微笑んだ。
「僕は昔から人を喜ばせるのが好きでね。 目立ちたがり屋だったから、子供の時から手品をよく周りに披露してたんだ。 次第にそういう職業に就きたいって思うようになって、この大道芸の集団を立ち上げたってわけさ。 おかげで両親には勘当されたけどな」
おじさんは薫子をじっと見つめる。
「もしかして、お嬢ちゃんもやりたいの?」
驚いて「ひえっ?」という奇妙な声を発していた。完全に動きが停止した。
なんと鋭いのだ。まさか、言い当てられるとは思っていなかった。
そんな薫子を見て、おじさんはケラケラ笑い出した。
「わかりやすいなあ、顔にやりたいって書いてあるよ」
薫子は慌てて俯いた。なんか恥ずかしい。
「大道芸なんて特殊な職業だからな。 勘当された奴や家出した奴は多い。 お嬢ちゃんもそのクチだろう」
薫子はまたまたびっくりした。この人はそんな事までわかってしまうのか。頭の中を読まれているみたいだ。
「同じような境遇の奴ってのはいわば似た者同士だ。 そういうのは同じ臭いがするっていうかな、なんとなくわかるもんだ。 お嬢ちゃんがやりたいって言うなら、こっちは構わんよ。 むしろ人手不足だしな」
そういうことで、めでたく大道芸師の仲間入りを果たした薫子であった。
芸を覚えることは難しかった。作法と同じ要領で、手の角度、身体の動かし方、指の扱い方など、細かいことが大切なのだ。異なるのは、技を習得するための慣れと努力の量が半端ではないことだ。苦労するのは覚悟していたが、これほどとは思わなかった。怪我とは常に隣り合わせ、結果主義の世界は想像するよりも厳しい。辞めてしまいそうになることは幾度となくあった。
それでも、薫子は一生懸命技を練習した。自分が憧れて入った世界だ。仮に辞めたとして、薫子には生きる術がない。他の職業に就ける気もしていない。辞められるわけがなかった。
薫子の初の表舞台までの期間は五年であった。
それから三年もすれば、表舞台は板についてきた。給料も安定し、心にも余裕が出てきた。
だからこそ、周りに目が向いてきた。
次第に、自分が独りぼっちであることに気づいたのだ。わざと避けられるということはないのだが、気づけばいつもひとりだった。思えば、今まで技を練習するときも誰かと協力した記憶はない。ずっと、黙々と技に向き合ってきた。周りを見渡せば見知った顔は沢山あるが、彼らについては何も知らないのだ。今更、誰も薫子に話しかけようとはしない。和気あいあいと周りが会話している中に、薫子は入れない。
こんな具合に書くと、相当内気で陰湿な人間なのねと思われるかもしれない。が、決してそういうことではないのだ。薫子は内気だが、根暗ではない。大人しいが、無口ではない。
だが、皆さんは器用貧乏という言葉をご存じだろうか。意味は、何事も一応は上手く出来るために一事に徹底出来ず、かえって大成しないことらしい。この言葉を借りて言うなら、薫子は不器用貧乏だ。不器用なうえに、それを可愛い個性にするどころか、かえって失敗をこじらせる。だから、大成のしようがない。
念押ししておくが、別に虐められているわけではない。無視されているのでもない。だが、独りぼっちというのは意識し始めると途端に悪化する。悲観的になる。俯瞰して見れば大したことではない。だが、神経質になっている人間に何を言っても、響かないものなのだ。
薫子はまた、逃げ出した。
前の時のように、追い詰められていたわけではない。ただ、自分は独りぼっちであるという意識と、一人でも生きていけるだろうという自己過信が薫子にそうさせた。
家出は既に経験済みだし、あの頃からは成長もしていたので、それほど恐怖はなかった。だが、次第にふつふつと怒りが沸き始めた。誰に対してでもない、自分にだった。
逃げることしか能のない自分に怒っていた。自分の弱さに目を向けることが出来ない、自分に怒っていた。家出した時と、なんら変わっていない自分に怒っていた。
自分のことが大っ嫌いだ。
その後、薫子は習得した大道芸を披露して、お金を稼ぎながら土地を彷徨った。
そして、運命を変える出会いがあったのは、朝香村に辿りつき、例の如く芸をしてお金を集めていた時である。
その時、薫子は朝香村に二日滞在していた。芸をしながらでもお客さんの顔は意外と見ているもので、芸が終わると二日とも見覚えのある顔の女が近づいてきた。一日目は通りすがっただけなのだが、何しろ素晴らしいイケメンと一緒にいたから記憶に残っていたのである。
女がモノ言いたげに近づいてきたので、薫子から声をかけた。
「昨日通りすがった人でしょう!」
女はびっくりしたように立ち止まった。
そりゃそうよね。
「昨日すごくカッコいい人といたから覚えているわよ!」
女は納得したように頷いた。
「あの、ホントに凄いですね」
薫子は嬉しくなった。褒められるととびきり嬉しい。
「本当に? ありがとう!」
薫子の笑顔につられるように女も笑った。
「あの、お金とか持ってなくてあげられないんですけど、感動しました」
「そんな、お金なんて。観てくれて感動したなんて言ってくれるだけで嬉しいのよ」
女はほっとしたように頬を緩めた。
良かった。
「私、千葉薫子です。 よろしくね」
女は慌てて言った。
「わ、私は西田照です」
* * *
まさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。商人のおっさんに家出した過去を揺さぶられて、犯人探しをすることになるとは。まさか、訳ありらしい五人と出会って、こんな事件に巻き込まれるとは。中には薫子よりもハードな環境で育った人もいた。生い立ちが未だに謎な人もいるが、いずれにしても薫子は居心地は良かった。それぞれ個性が強く、慣れるまで時間を要したが、一概に皆んな優しい人たちだ。
しかし、近頃は違う。今までは尊敬の念を抱いていたが、今では劣等感の方が強くなってきた。皆んなが強い人間に見えてきたのだ。それは単に力が強いとかではなくて、人間的に強いということだ。
そう思い始めたのは、長谷川勇介の盗賊騒ぎの後からだった。勇介は自分の敵に果敢に立ち向かい、見事に相手を破った。勇介だけではなく、天間佐吉も自分の過去と真摯に向き合い、行動している。無論、彼らは薫子よりも、はるかに険しい道を歩んできたことだろう。薫子からすれば、普通の人ではなかった。それでも、彼らは自分の弱さと罪を認め、前を向こうとしている。過去を乗り越えようとしている。そこが薫子と決定的に違うのだ。薫子は逃げることしかしてこなかった。未だ、母親にも、裏切ってしまった大道芸の人々にも向き合える自信はない。
思えば、まだ薫子は勇介たちの何の助けにもなっていない。力になれていないのだ。だって、いち大道芸師になにができる?犯人を捕まえるための作戦を考えることも出来なければ、敵と戦うことも出来ない。
またこれだ。他人を羨んでばかりで自分は何もできない。何かしようと努力もしない。いつもと同じパターンじゃないか。
そうして気持ちが悶々としていた時である。家の縁側に佐吉が座っていた。刀を研いでいる。
この男、過去は壮絶であるが、ハンサムだし、頭はいいし、強いし、非の打ち所がない人間である。強いていうなら、もっと愛想よくすればいいのにと思う。頬を緩ませることはあるものの、完全に笑っている顔は見たことがない。刀をくわえて生まれてきたような男だし、今まで微笑んだことすらないのではないかという気さえしてくる。
とはいえ、薫子は佐吉とあまり話したことがない。五人の中で一番話した記憶が少ないかもしれない。なんとなく、気圧される雰囲気を感じるのだ。目を合わせることすら敬遠している節もある。
だが、刀を黙々と研ぐ佐吉の姿を見て、ふと薫子は聞いてみたくなった。薫子が今までの生い立ちを打ち明けたら、彼は何と返すのだろうか。何を話すのだろうか。しかし、声をかける勇気もなく、その場に立ち尽くしていたら、佐吉の方から振り返った。
「どうしたの」
薫子はほっとすると同時に、心臓がどきどきしてきた。
私、このハンサム男に何を話すつもりなの?
薫子はぎくしゃくと佐吉の隣に座った。無論、人の半分くらいのスペースを開けて。その時、佐吉こそがこの犯人探しの最大の功労者であることを思い出した。
「盗賊が押し寄せてきた時、佐吉が戦ってるのホント凄かったよ」
その後も、何を話せばいいのかわからない薫子は、矢継ぎ早に称賛の声を送った。やっと息継ぎの時間ができた時、佐吉から遠慮のない視線を送られていることに気づいた。
「えっ……な、何?」
「いや、ずっと褒めてくれてるから。 どうもありがとう」
佐吉は真顔のまま、刀を研ぐ作業に戻った。薫子は打ちのめされたように固まった。
何なんだ、こいつは。
「よくあんな賭けみたいなこと出来るよね」
薫子はぎょっとした。驚くほど、言葉がすぽんと出てきたのだ。
私、何を言おうとしてる?
慌てふためく薫子のことなどつゆ知らず、佐吉は刀を研ぎ続ける。
「まあ、そういう性格なんだろうね」
佐吉はいたって簡単に回答をまとめた。
そういう性格だからって、一人で盗賊どもに立ち向かえたら苦労しないだろうが。
「なんか……強いよね」
佐吉はやっと手を止めて、不可解そうな目で薫子を見た。薫子は手で目を覆いたくなった。
これじゃあ、ただの変な奴じゃないか。
しかし、一度出かかった言葉は抑えられなかった。
「力もそうだけど、精神的にも強いってことなんだけど」
「強くないよ」
佐吉は穏やかに言った。
「お世話になった人を殺めた僕が、強いはずがない。 精神的に強いなら、今もこんなに苦しんでない。 強いふりをしてるだけだよ。 きっと皆んなそうだと思うけど」
それは薫子もわかっている。皆んな、強い自分を演じているだけだ。
でも、傍から見ればそうは思えないのが悲しい。
「それに、僕は弱いのが悪いとは思わない。 世の中には弱くても生きている大人が沢山いるでしょう。 今は弱くても生きていける世界なんだよ」
では、薫子にとって何が差し支えたのだろう。他の人からしたら、薫子だって普通の人ではないだろう。何を間違ったのだろうか?
そんな薫子を見て、佐吉は言った。
「何か闇が深そう」
小さく息を吐いて、目をそらした。
「あまり自分を卑下しない方がいいよ。 僕は言霊をけっこう信じてるから。 口に出し過ぎるとその通りになると思う」
そんな事を言われたって、事実は事実である。薫子は逃げることしかできない。明るくて前向きなふりをしているだけで、心の中は弱い人間だ。誰も、内側に潜む自己嫌悪と、根深い怒りを知らないのだ。
そこまで思ってどきりとした。
本当だ。私、自分に呪いをかけてるみたいだ。
脇汗がじっとりと出てきた。
慌てる薫子を一瞥して、佐吉は再び刀を研ぐ作業に戻った。その姿を見て、薫子は唐突に思った。
この人は信頼していい人かもしれない。この人を見ていれば、いいことがあるかもしれない。
その瞬間、薫子は佐吉について行こうと決めたのだ。
* * *
千葉薫子は美作に来ていた。故郷に帰ってきた。久しぶりの地元の村は昔と殆ど変わっていなかった。
一歩一歩踏み出す間にも、薫子の心は囁く。
今すぐ、帰れ。この場から立ち去れ。だって、今更何をしに行くっていうんだ。家出をした言い訳でもしに行くのか。
そして、とうとう昔の薫子の家の前が見えてきた。この家も全く変わっていなかった。洋館風の建物で二階建て。今でも家の中の構造、家具の配置は鮮明に思い出せる。もっとも、今現在もその通りであるかはわからないが。
薫子は家に前に立った。さっきから身体が熱くなったり、冷たくなったりしている。
大丈夫だ。とって喰われるわけじゃない。この戸を叩くだけだ。叩いてしまえば全て終わりだ。
薫子は戸を叩いた。
はーいと女の声が聞こえた。
久しぶりに聞いた、母親の声だった。
戸が開いて、母親が顔を覗かせた。鋭い光を宿した目、細い眉、上向きの鼻、尖った顎。母親は予想していたより随分と老けていた。十歳くらい一気に年をとったみたいだ。出で立ちも野暮ったくて、色あせた着物にはちょこちょこと綿埃がついている。そりゃそうなるだろう。娘がどこにいるかも分からないまま、長い日々を過ごしてきたのだ。いくら厳しかったとはいえ、母親であることに変わりはない。
家の中も、薫子の記憶より雑然としていた。三畳ほどある玄関も、そこらじゅうに箱が積み重ねられていて、ひどく狭苦しい。
申し訳ない気持ちになった。今の母親には、かつての整然とした面影はない。それが自分のせいかもしれないと思うと、もの哀しい。
母親は薫子が挨拶をする間もなく、みるみる目を吊り上げ、早口に甲高い声で怒鳴った。
「あんた、どこ行ってたの。 何なのよ今更、ふざけるんじゃないわよ!」
機関銃のように言い募る。
「何で帰ってきたのよ? あんたなんか帰ってくる必要なかったのに。 勝手に出て行ったくせに。 今ごろ、どの面下げて来てるのよ!」
「お母さん」
「誰がお母さんですって? 私には、あんたみたいな親不孝者の娘はいません! あんたなんて私の娘じゃないわ!」
そう言うと、薫子を押しやり、扉をばたんと閉めた。
薫子はしばらくその場に突っ立っていたのだが、おずおずと家に背を向けようとした時である。
家の戸が開いた。
母親は薫子を睨みながら静かに言った。
「中に入りなさい」
姉は既に別の人のところに嫁いでいて、この家には既にいないらしい。
だから、家の中が暗いのだと思った。さほど広い家ではないが、一人でこの空間を埋めるのはあまりに寂しい。
「あんたが出て行った後、こっちはあんたのこと必死で探してたのよ。 あんたの姉さんは顔色を変えてあちこち探し回って、父さんも家に帰ってきて右往左往してた。 それでも見つからないし、帰って来る気配もないから、あんたは死んだんだって思うことにしてたの」
ピリリと辛い皮肉である。
母親はため息をついた。
「あんたを探してたらね、ある時、知らない商人のおっさんが話しかけてきたの。 それでね、千葉薫子さんのお母様ですかって聞くのよ」
薫子のこめかみを汗が伝うのを感じた。暑いからではない。動揺したからだ。
商人のおっさんだと?
「そうです、娘の居場所を知っているんですかって聞いたら、知っていますって」
母親は当然、娘がどこにいるのか聞くだろう。だが、商人のおっさんは答えてくれなかったという。その代わりに、おっさんはこう言ったのだ。
「薫子さんは自分で家を出て行ったんです。 拐われた訳じゃないから安心してください。 今、彼女は彼女なりに一生懸命に生きていますよ」
母親が何故それを知っているのかと聞くと、おっさんは、
「彼女はこの先僕がお世話になる子ですからね」
と言って去ってしまったという。
改めて薫子は思う。
あのおっさんは何者だ?
「あんたが無事で何よりよ。 勿論……」
薫子は母親の言葉を遮った。
「ごめんなさい。 私、ここに帰ってきたわけじゃないの」
すると、母親はすぐに顔つきが変わった。
「何ですって?」
怖いけど、言わなくてはならない。逃げてはいけない。
「私、ここにきりをつけにきたの」
拳を握った。汗でべとべとしていて気持ち悪い。
「私、ずっと自分のことが嫌いで逃げてきたの。 でも、いろんな人に出会った。 その過程で思ったの。やっぱり逃げちゃ駄目だって。 私が信頼する人と一緒にいたいから逃げちゃ駄目なの。 胸の張って隣にいたいからちゃんと向き合わなきゃいけないの。 変わりたいって思った。 その人たちに勇気を貰って、背中を押されてここにきたの」
薫子は母親の目を真っ直ぐに見ることが出来た。
「だから私、言わなきゃいけないことがある」
カラカラの口から無理矢理唾を飲み込んだ。
「お世話になりました。 おいたとまいたします」
そう言って頭を下げた。
やっと言えた。
もうきっとこの家には戻らないけれど、これは逃げたんじゃない。新しい人生を始めるために、再出発したんだ。
しばらく、母親は薫子を眺めていた。
そして、薫子が思っていたよりもずっと穏やかな声で言った。
「良かったわね」
思わず顔を上げてしまった。
「へ?」
「あんたのことを見守ってくれる人がちゃんといればいいのよ。 あんたがそんなに信頼できる人がいるのなら良かった」
母親は薫子を見て、口の端だけ上げて笑った。
「だって、そりゃ娘が一人なんて心配するでしょうよ。 でも、あんたに何かあった時、それに気づいてくれたり、助けてくれる人がいればいいのよ」
母親は背を向けた。
「おいとまするんでしょ。 さっさと行きなさい」
薫子はもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
母親は手を振った。
薫子は家から出た。
薫子の睫毛は濡れていた。きっと、母親もそうだろうと思う。薫子がこの場から立ち去った後に泣くのだ。薫子に怒るのだ。
「よお、こんなところで会うとはな」
聞き覚えのある声だった。ぎょっとして見ると、案の定商人のおっさんだった。
「おっさん!」
思わず叫ぶと、途端におっさんは分かりやすく機嫌が悪くなった。
「おい、会って最初におっさんとは何事だ」
「だって!」
薫子はおっさんに詰め寄った。
「何で私が家出した事を知ってたの? その時、まだ出会ってなかったでしょ?」
薫子の追求をおっさんはのらりくらりとかわす。
「まあまあ、それはそのうちわかる。 それよりな」
勝手に話を進めないで欲しい。
「いま朝香村でまた厄介なことが起きてるんだよ」
今度は何だ?あの犯人たちはもう捕まえたはずだ。
「お前らが捕まえた犯人が牢屋から逃げ出したんだと」
おっさんは薫子の肩に手を置いた。
「勿論、お前も犯人探しを手伝ってくれるよな?」
薫子は頷いた。
お世話になった大道芸集団は全国を回っている。そう簡単には見つけられまい。でも、この犯人を見つけて、捕まえさえすれば、きっと彼らの耳に届くだろう。
* * *
千葉薫子は朝香村のおっさんの家に帰った。
西田照に出迎えられた。
「何で薫子がここにいるの⁉︎」
薫子は美作でおっさんに出会った事を伝えた。
おっさん?と照は首を捻っていたが、さして重要な事柄ではなかったらしい。すぐに、ふうんと頷いた。
「ところで、他の人たちは今どこにいるの?」
家の中には人がいる気配がない。
すると、照は苦々しく言った。
「ああ、あの人たちは笹身山の犯人たちが潜伏してたところにいるよ」
彼らが笹身山にいる理由をかくかくしかじか説明された。
「それって……大丈夫なの? 犯人たちは逃げ出したんだよね」
「わからない。 そもそも何もないかも知れないし」
ただね、と照は続けた。
「何かあった時には当然戦うかもしれないわけでしょ。 笹身山にはね、ここの近くに谷があるわけ。 崖になってるんだけど、もしそこに行って万が一追い詰められる羽目になったら最悪よ」
今度は薫子がふうんと、相槌を打とうと思った時である。薫子の頭に稲妻が走った。いや、本当に雷が薫子に落ちたのではない。とある考えが閃いたのだ。
「照、私ちょっと笹身山に行ってくる!」
なにしろ、逃げる事は薫子の得意技だ。
* * *
天間佐吉は黒田栄らのかつての潜伏場所を見に行った。征侑士としては、まず現場を見ろと散々言われたので、癖になってしまった。
笹身山の奥まった所に建物が建っていたのだが、既にあっけらかんとしている。
今、考えなければならないのは、黒田栄たちが脱走した後、どう行動するのかということだ。あまり目立ったことはできないだろう。自分が犯人だったらどうするだろうか。どういう思考回路で行動するだろうか。
そう考えた時だった。
背後に人の気配を感じた。
振り向くと、山埜瀬名という少年が立っていた。
何をするでもなく、突っ立ってこちらを見ている。これから何かをするようにも見えない。その表情からは感情が窺い知れない。
佐吉が近づくと、瀬名は回れ右して逃げ出した。小柄なものだから、叢をいとも簡単にすり抜けていく。佐吉よりもずっと身軽だ。だが、いくら超人である瀬名とはいえ、険しい山道で視界が悪いことは同じである。
瀬名が見えなくなる前に、佐吉も猛然と走り出した。
追いかけると、瀬名は道の方へ向かっていることがわかった。そして、道がある程度開けると、途端に立ち止まり、踵を返してこちらに向かって来たのである。あっという間に、横っ跳びで飛び掛かられた。
勢い余って、二人の身体は叢に投げ出される。瀬名の縛はいささかも緩まない。今度は短剣を佐吉に刺そうと、刃を振り回す。間隙を縫って、刃先が右の二の腕に刺さる。刃がより深く食い込む前に、すんでのところで瀬名を突き飛ばすと、ぐふっと呻いて佐吉から離れた。しかし、佐吉が刀を抜く前に、宙を切る音がしたかと思うと、太腿に強烈な一撃がきた。冷たい異物感があった。短剣で刺されたのだ。瀬名は第三打を見舞うべく、短剣を持った手を宙に振り翳した。胸を狙っているのだ。
佐吉はごろりと身体を回転させ、その場を逃れる。標的を失った瀬名の刃が地面を刺した。その隙に佐吉は刀を抜き、我ながら無慈悲に瀬名の脇腹に差し込んだ。刀はすぐに血に染まった。刃は確実に腹部の血管と組織を抉っているだろう。刀を引き抜くと同時に、血しぶきの大輪が咲く。
瀬名は膝から崩れ落ち、仰向けに倒れた。
佐吉は瀬名の脈を測って、心臓が止まっていることを確認した。
頭がぼうっとする。またやってしまった。あれだけ後悔しているというのに、再び人を殺めてしまった。自分の身を守るためとはいえ、もっと違う方法があったのではないか。
その時、瀬名が目を開いた。腕を振り上げて、拳で殴り掛かった。
佐吉は仰け反り何とか避けたが、拳が鼻先を掠めるのがわかった。
瀬名はというと、何事もなかったかのようにむくむく起き上がっている。確かに佐吉は瀬名の脇腹を刀で刺した。脈も確認したし、瀬名の服には血がべっとりと付いている。それなのに、今はむしろ腕や首を回していて、元気そうである。
瀬名は顔を上げた。ばっちりと目が合った。
そんなバカな。
瀬名は短剣を拾い上げ、佐吉に向かってきた。佐吉は身体が固まって動けない。
その時、巨大な塊が叢から飛び出して、佐吉にまともに激突した。
園田桜だった。彼女は佐吉とともに来ていたのである。
二人して地面に転んだ。
その後、桜の後を追うように飛び出して来たのは――、おそらく人間だろう――女である。これが勇介たちが言っていた。獣女――、田中乙女だろう。
乙女が桜に飛びかかり、瀬名が佐吉に短剣を振り翳す。桜は両脚を上げ、後ろから乙女の首に巻き付ける。重力を利用して、相手を引き倒した。巻き込まれるところを瀬名は器用に避けて、未だ動けずにいる佐吉に、再び短剣を振り上げた。これはなんとか避けたが、瀬名は攻撃の手を緩めない。高々と短剣が振り上げられるのがわかった。一撃で殺すつもりだ。佐吉は渾身の力で刀を瀬名の足元に振った。瀬名はつまずき、地面に倒れた。
その時、瀬名の背後から人影が現れた。
見ると、向こうから千葉薫子が走って来ている。
この状況にも佐吉は混乱した。
何故薫子がいる?彼女は美作に行ったのではなかったか。
薫子に気づいたのは佐吉だけではなかった。
起き上がった乙女は薫子を見た。薫子もそれに気づいた。
よく見ると、薫子の更にその後ろから西田照が走って来ていた。走り方がどうも奇妙である。どうやら運動は苦手らしい。
桜の腕が乙女を捕える前に、乙女は薫子に向かって駆け出した。薫子は後ずさりすると、脇の叢に飛び入った。
乙女もそれを追いかける。
照の表情がひどく焦ったものになった。急に青ざめて二人の後を追いかける。
その表情に嫌な予感がした。ただ薫子が追いかけられているからではなさそうだ。
桜は右手で瀬名の盆の窪を殴った。延髄に当たる箇所で、頭部では一番の急所のはずだ。さすがの瀬名もぐらりとよろめき、横倒れになった。
「追いかけてください。 あいつら何も出来ないから」
佐吉は刀を引っ掴んで叢に飛び込んだ。
照にはすぐに追いつくことができた。
「まずいことになってる!」
息を切らしながら照は言った。
「この先に崖がある。このままじゃ薫子の逃げ場が無くなっちゃう!」
山道はやや上り坂になっていて、見上げればすぐに奴らがどこにいるのかがわかる。
薫子はさすが大道芸師という身軽さで、どんどん坂を登ってゆく。だが、乙女も脱兎の如くそれを追いかける。
登れば登るほど辺りは険しくなってゆく。ごつごつとした岩が増え、佐吉も今頃になって脚の傷が効いてきた。傷口は熱い。脚を引きずりながらなので、登るのにも一苦労だ。薫子はというと、叢を掻き分けながら、岩を次々に飛び移ってゆく。突如、薫子と乙女の姿が視界から消えた。佐吉は照に手伝ってもらい、薫子たちの後を急ぐ。
しばらくすると、急に景色が開けた。すぐ向こうには崖が見える。その崖の縁に薫子が立っており、乙女がじわじわと追い詰めている。いつの間にか、薫子は派手な模様をしたマントを羽織っていた。乙女が飛び掛かるのと、薫子の身体が宙に浮くのが同時だった。
薫子が、飛んだ。
マントが羽のように開いて、ぴんと張っている。薫子は風に乗って、みるみる向こうの陸まで飛んでゆく。
佐吉も照も唖然とした。
乙女は勢いよく飛び掛かった勢いで、身体のバランスを崩している。形勢逆転、佐吉らが乙女を追い詰める形になった。
捕えるなら、今だ。
佐吉が刀を振り翳した時である。
横から何者かが飛び出して、佐吉の刀を弾いた。思わずよろめくほどの威力である。
そこにいたのは女だった。
鋭い目でこちらを睨み据えている。鬼気迫る形相である。
「あんたが黒田栄か」
女は答えない。
先程の刀の弾き方は素人ではあり得ない。それも、かなりの上級者でないと無理だ。
「どこで刀を習った?」
女は刀を構えた。
「習ってなど、ない」
すると、どこからか、もくもくと黒い煙が出て来た。その煙が佐吉たちを包み込んだ途端、肉体のどの部分も命令を聞かなくなった。身体の至る所が痛みを訴える。思わず膝をついてしまった。
煙はどんどん佐吉たちを包み込んでいく。
しかし、その時間は短かった。
煙がなくなった時には、乙女も栄も忽然と消えていた。
後で聞いたら、桜も瀬名を逃してしまったらしい。
結局、敵の誰も捕まえることは出来なかった。
* * *
薫子は満足していた。
薫子は、自分が今と昔で変わっていると思う。昔はただ逃げていただけだった。母親からも自分からも逃げていた。でも、今は違う。薫子が朝香村に戻ってきたのは、皆んなに会って、一緒に犯人を捕まえようって思ったからだ。薫子は薫子の意思でそうしたのだ。それも母親から逃げていると言われればそれまでだが、薫子はきちんと挨拶をした。多分に迷惑や心配をかけた薫子だが、きちんときりをつけられた。それは昔の感覚とはちょっと違う。
それに、薫子はよろず何も出来なくて馬鹿みたいだけど、今回は、ちょっとは役に立てた気がする。
本作品はフィクションであり、登場人物や作中で起こる出来事は全て創作です。