妻から祖母へ
「笹谷さん、お見舞いですよー」
四人で満室の病室に、患者はふたりだ。
まだ若手に数えられる男性の看護師がベッドを囲うカーテンを開くと、患者のひとりである笹谷アキ子がベッドで座っていた。
アキ子は編み物の手を止め、看護師の方を見た。垂れた瞼を持ち上げ、柔らかい頬を穏やかに持ち上げる。
「あら、孝明さん。また来てくださったんですね」
「笹谷さん、来てくれたのは――」
看護師の後ろにいた男が、看護師の言葉を手で制した。「いいんです」と小さく呟くと、看護師はほんの少しだけ言葉に詰まったが「分かりました」と次の瞬間には笑顔を作っていた。
「笹谷さん、良かったですね。夕ご飯の前にまた来ますからね」
「ええ、はいはい。いつもありがとうございます」
突っ立っていた男は看護師に軽く頭を下げた後、ベッド横の椅子に腰をかけた。小さな棚から持ち帰る洗濯物を取り、洗濯したての着替えと入れ替える。
「調子はどう」
「今日は調子がいいんですよ」
「昼飯を少し残したって看護師さんから聞いた。調子がいいならしっかり食べないと」
アキ子が編み針を膝の上に置いた。可愛い嘘をついた子供のように笑った彼女が細い指を口元に当てる。
「ばれちゃいましたか。――今日はね、法蓮草の御浸しがあったんですよ。孝明さんがいたらこっそり食べてもらえたのに」
また、ふふ、と小さく笑った彼女に男も薄く笑った。
「流石に病院食までは食ってやらないよ」
「孝明さんったら、意地悪ね」
「……退院したら法蓮草の御浸しも茶碗蒸しの銀杏も、代わりに食ってやるからさ」
「あら、じゃあ早く元気にならなくちゃいけませんね」
穏やかな話をしながら、男は端がすれて汚れたトートバッグの中からビニール包装を取り出す。彼女が好きなマシマロだ。外のパッケージを開けてから、棚に置いておく。
「まあ、マシマロ」
「食べようか。温かいお茶も持ってきたから」
アキ子は男がコンビニの白いビニール袋を膝の上で三角に折り畳む様子を見ていたが、はっとして口を開いた。
「そうだ、孝明さん」
「どうかした」
「少し前に行った庭園ってどこだったかしら。わたしね、看護婦さんにお話しようと思ったのだけれど場所が思い出せなくて。ほら、白と赤の躑躅がたくさん咲いていたでしょう、鯉が泳いでいる池があったところで……」
男が「どこだったかな」と首を傾げる。彼のあっさりした様子にアキ子が「ほら、結納の前に立ち寄った」と唇を尖らせた。
ちゃんと一緒に思い出してください、と顔に書いているアキ子に苦笑し、男は腕を組んだ。考えるようにひとつ呻く。
躑躅が綺麗な場所。
鯉のいる池。
「孝明さんったらまだ結納の前の週だっていうのに緊張していて。ほら、汗を拭こうとしたハンカチを池に落としたあそこですよ」
アキ子から出てきたエピソードに男がぷっと吹き出した。その様子に彼女は「ほうら、覚えてるじゃないですか」と笑い声と一緒に細い指をゆらゆらと揺らした。
男は個包装されたマシマロのひとつを開け、口に放り込んだ。笑いをごまかすように白い甘さを奥歯で遊ばせ、剃り残しがある顎を手のひらで撫でる。
「……あそこだろ、いつものお寺さん。庭園じゃなくて、お寺さんの躑躅だよ。小さい池があって、亀もいるところだ」
近所の、昔から――それこそ男の曽祖父があの土地に家を建ててからずっと縁のある寺だ。
庭園というような立派な庭はない。小さな池があって、そこの住人は錦鯉が一匹に亀が二匹だけ。躑躅だけではなく桜に牡丹にと少しずつ植えられた小さな寺だ。
アキ子は庭園とは違う答えに一瞬きょとんとしたが、すぐに両の手をぱちんと合わせてにっこりとした。
「そうそう、お寺さんでしたね。孝明さんと出会ったのもあそこでしたもの」
男は「そうだったかなあ」と適当に答えながら、彼女がマシマロに手を伸ばしたのを見て包装を破って手渡す。それからトートバッグの中から水筒を取り出し、熱い茶を紙コップに半分ほど注ぐ。
「躑躅、綺麗だよなあ、あそこ。退院したら見に行こうか。連れて行くよ」
「まあ。孝明さんがお花を見たいなんて珍しい」
アキ子が照れたようにはにかみ、頬に手を当てた。マシマロの蕩ける甘さに頬でも落ちそうなのか、まるで支えているようだ。
「早く退院したいですね」
恥ずかしがる時に、ふふ、と頬を押さえて笑うのはアキ子の癖だった。
昔からの癖だ。写真に残っているアキ子もそうやって恥ずかしそうに笑っているものがたくさん残っている。
「そうだね。みんな家で待っているよ」
男が熱い茶に「気をつけて」と言葉を添えてアキ子に持たせる。その際に手が触れる。痩せた手が冷たい、だが、温かい。
アキ子は「ありがとうございます」と紙コップを受け取るが、口には運ばなかった。
マシマロをまだ口内で転がしている彼女を見ながら、男はトートバッグからスマートフォンを取り出した。滑らかな画面に指を滑らせる。メッセージが入っていた。母親からだ。
「あら、それはなんですか」
男がメッセージへの返事を後回しに、顔を上げる。
「……。カメラだよ。こっち向いて。後で母さんたちに見せるから」
「やですよ、孝明さん……。お化粧もしていないのに……」
レンズをアキ子に向けると、彼女はまた頬に手を当て、困ったように微笑んだ。
「そう。躑躅の綺麗な庭園だって言ってたよ。結納前で、ガチガチに緊張してたみたいでさ、ハンカチを池に落としたんだって――」
「あら、お父さん。今日は陽子とノブは一緒じゃないんですか」
見舞いに顔を出した途端の言葉に、男は目をぱちくりさせた。しばらくそのまま硬直した後、「あ、ああ」とぎこちなく頷いた。何度か頷きながら、いつもどおり椅子に腰を下ろす。
「ああ、そうなんだ。一緒じゃないよ」
また頷く。その頃には男の首は滑らかに動くようになっていた。いつもどおり、端の汚れたトートバッグから新しい着替えと、マシマロと、水筒を取り出す。
「遊び盛りですもの。病院なんて退屈して嫌がっちゃいますものね」
「……まあ、遊び盛りって感じでは、なくなったかもしれないけど」
「まあ。陽子もノブもお利口さんにしているようで何よりです。私が言っても、なあんにも聞きやしないのに」
アキ子がむっと顔をしかめ、すぐに笑った。編み物の手を動かしながら、男をちらりと見る。
「……お父さん。陽子とノブがどうかしましたか? 幼稚園で怪我でもして帰ってきましたか?」
「え?」
「いつもはふたりの話をたくさんしてくれるのに、今日は黙っちゃうんですもの。それに、ふたりがついてきていないのも初めてですから、何かあったのかと……」
男はマシマロのパッケージを開けた。それから苦笑いを浮かべて首を振った。
「……ふたりとも、元気だよ。ただ、毎日忙しくて疲れているみたいで、その……」
「お昼寝から起きませんでしたか? お義母さんが見てくださっているの?」
「え、ああ……。今度は、連れてくるよ。今日はあまりに、よく眠っていたから」
アキ子は男の態度に納得がいかないようだったが、彼が喋りにくそうにしているのを見て「分かりました。次に会えるのを楽しみにしていますね」と苦笑いを浮かべた。
男は小さく、小さく「ごめんよ」と申し訳なさそうに呟いて、マシマロをひとつ食べた。
「見舞い? 私もお父さんも忙しいんだから、あんたにお願いしてるんでしょう。私が行ったって……どうせ……。――分かった、分かってるわよ。今度ちゃんと行くから」
男が静かに座ると、アキ子は閉じていた瞼をもぞもぞと動かした。
今日は調子が良くないようで、看護師から「今日は起きないかもしれませんね」と言われてしまった。容態が急激に悪化しているわけではないようだが、男は心配そうな目でアキ子の手を撫でた。
「ごめんよ。母さん、やっぱり来られないってさ」
聞こえていないだろうと思って呟く。
アキ子は寝ぼけた様子で何度か瞬きを繰り返し、男に焦点を合わせた。
「あら……お祖父さん、いらしてたんですか。ごめんなさいね、今日はちょっと、体が重くって……」
「いいんだよ。ゆっくりしていて」
皺くちゃの手の甲を撫でながら、男はアキ子の言葉をもう一度頭で繰り返した。
お祖父さん。
「でも、お話したいことがたくさんあって。――こないだは陽子が久しぶりに孫の顔を見せてくれたってお話をしましたっけね。明宏ったらね、もう小学生になるっていうんですよ。あっという間ですねえ」
男は眉を寄せた。
祖父は、死んでいる。
「……そう。小学生か」
「ええ、ええ。これからランドセルを見に行くんだって言ってね。お兄ちゃんにもなるものですから、随分張り切っていましたよ。陽子のお腹も大きくなって、ありがたいことに、母子ともに健康だそうですよ」
祖父は孫が生まれる前に死んでいる。
男はなんとかどうにか眉の力を抜きながら、「そう。そうか、そうなんだね」とアキ子の皺くちゃの手を撫でた。彼女が誰と――誰かは明白だが――話しているのか、戸惑いが胸の中でぐるぐると渦巻く。
「お腹の子は女の子でね、名前に悩んでいるそうですよ。カナちゃんか、マユちゃんかって」
「……佳奈になるよ」
「あら。お祖父さんは詳しいんですね。ふふ、まるで、未来を見てきたみたい」
未来を生きているんだよ、とは言い出せず、男はそうっとアキ子から手を離す。
「でも、あんまり詳しいことは言わないでくださいね。私、知らないままを楽しみにしているんですから」
アキ子が目を閉じた。すう、と息が深くなる。眠たいのだろう、喋り口も少しずつとろりとしてきている。
男は相槌をうつだけに止め、いつもどおり着替えを用意していく。
「明宏はね、いい子に育ちますよ。将来の夢は、ふふ、お母さんみたいな先生かトラックだって。運転手かしらって思っていたら、違うよトラックだよって言うんです。黄色いトラックが好きなんですって。きっと背の大きな、頑丈な子になるでしょうね……」
男が自分の手を見下ろした。
背は大きくなった。頑丈であるかどうかはさておき、太り気味の体は風邪もひかず大病も今までにない。
ただ、トラックにはなれていない。
教師にも。
「……そう、佳奈ちゃんにも優しいんですよ、明宏は。お兄ちゃんだからって我慢もたくさんしているでしょうに……。佳奈ちゃんがうっかり破いたぬいぐるみを持ってきてね……。お母さんは直せないからおばあちゃんが直してって、うちまで来たんですよ。自転車に乗って、わざわざ、こんなところまで」
ああ、そんなこともあったなあ、と男が微笑む。
金網に引っ掛けて破れたぬいぐるみ。母は新しいものを買うと言った。だが、妹はこれじゃないと嫌だと泣いて泣いて仕方なかったのだ。
「きっと、人の気持ちが分かる、立派な人になります。明宏はね、あなたによく似ているんですもの……孝明さんに……。それに、自慢の孫ですものね……」
教師には、なれなかった。
男が唇を内側に巻き込む。ただ、その表情を見られることはなく、アキ子は眠ってしまっていた。
「……教師には、なれなかったよ。ばあちゃん」
明宏は目を伏せ、黙って椅子から立ち上がった。
このままでは、人にすらなれない気がした。
帰ろう。
「ぬいぐるみ? ああ、あのうさちゃん。覚えてる覚えてる。破れて大泣きしたよね、私。片目が可愛いボタンになってさ、余計に愛着湧いたんだよねー」
明宏は襟元が伸びて波打ってきたティーシャツを脱ぎ、量販店で買った安い新品に着替えた。踵を踏むせいで変な癖がついてしまったスニーカーを靴箱に片付け、あまり履かない別のスニーカーに足を突っ込んだ。靴紐を緩めて、足をねじ込む。
「今日はバイトだった?」
「休み。ばあちゃんとこ行ってくる」
母親を振り返る。
「……母さんも、時々くらい顔だしてやったら」
「今日はお父さんも休みだし、午後から行くつもりだったわよ。一緒に行く?」
「先に行ってる」
「ああそう? 行ってらっしゃい」
彼は端が汚れたトートバッグを肩に、外へ出た。大学を卒業してから放ったらかしだった自転車を、駐車場の奥からひっぱりだす。
当然タイヤの空気が抜けている。
錆も酷い。
だが、乗れないことはなさそうだ。
ブレーキがキイキイと甲高い音を立てる自転車が病院に到着した時には明宏は汗だくだった。やらなきゃよかったと思うと同時に、やってよかったと達成感もあった。
汗をタオルで拭きながら、病院へ入る。休日なのであまり人がいない、がらんとした病院内を進む。エレベーターに乗り、アキ子の病室を開けた。
カーテンを開けると、アキ子はまた編み物をしていた。
「あら、孝明さん。お忙しいのに、また来てくださったんですね。ありがとうございます」
「忙しくなんてない。フリーターだよ。なんだったらこないだまでニートだったし」
正面からアキ子に答える。
ずっと孝明――明宏から見て祖父――だと思われている通りに振る舞ってきた。最初はいちいち説明するのが面倒だったから。それに、大好きな祖母が自分を分かってくれないことを受け止められなかったから。
加えて、こうやって孫と夫を間違えて喋ってくれるアキ子の穏やかな様子は、危機感を薄れされてくれる。家では認知症が進んだこの祖母を今後どうするかと着々と話し合いがされているというのに。
アキ子はにこにことしたまま、編み物を膝に置いた。今日は調子がいいのか瞳がきらきらとしている。
「明宏は優しくていい子ですよ。孝明さんに似ているから、間違いありません」
彼女は一体いつの誰と話しているつもりだろう、と明宏は分からないまま「そうかな」と首を傾げた。
「こうやってお見舞いも来てくれて、だんだんと目に力も入ってきました。孝明さんそっくりの目ですよ」
「……俺、今度、塾講の面接受けてくるよ。母さんみたいな立派な先生にはなれないかもしれないけど」
「――ええ、大丈夫。明宏なら大丈夫ですよ」
ありがとう、と答えようとして飲み込んだ。
祖母だ。間違いなく、目の前にいるのは自分の祖母だ。
「こんなおばあちゃんに言われても、説得力がないかしら」
「ばあちゃん」
「はい。おばあちゃんですよ」
明宏は椅子に座った。彼女が編んでいるものの形がだんだんとはっきりしてきていた。季節はすっかりずれてしまっているが、ひざ掛けか、ストールか。歪んだ四角だ。
以前のように綺麗に真っ直ぐに編めなくなっていることに気づいているのか、いないのか。
アキ子が少しずつ作り上げた四角だ。
「……今度、躑躅を見に行こうか」
「――あら、どうしましょう」
「どうって?」
アキ子が頬に手をあて、ふふ、と笑う。
「躑躅は今度孝明さんと一緒に行くんですよ。ふたりきりで、綺麗な躑躅を見に行くんです。――それまで、お預けにしておきたくって」
まるで少女に戻ったようなアキ子の笑みに、明宏は目をぱちくりさせて大きく笑った。
「それじゃあ俺はお邪魔にならないよう、デートはじいちゃんに譲るよ」