透過光
「あら、森下さん、どちらに行かれるの?」
放課後、靴箱とは逆の方向に歩き出した私を見て、同じクラスの少女が私に声を掛けた。
「職員室に寄ってから帰ります。ちょっと英語で質問がありまして」
「英語といいますと……」
あの教師のことを思い出したのか、少女は露骨に嫌そうな顔をした。私は、彼女はつい最近まで先生、先生、と言っていたことを思い出して、おかしくなった。
そうだ。私は会いに行く。彼――いや、可哀想な彼女に。
彼女が静山女子学園にやってきたのは、私がちょうど高等部の一年生になった春のことだった。
英語科の担当として、長年教壇に立ってきた男性教諭が退職し、その代わりに採用されたのが、一連の騒動の原因である朝霧菫である。他にも多少の教員の入れ代わりがあり、始業式では、新たにやってきた者の紹介が行われた。
今思えば、もうこの時点で事は始まっていたのだ。「皆さん、おはようございます」薄暗い体育館の舞台に上がった教師たちの中で、彼女は一際目立っていた。長身で、明るめの色をしたショートカットの髪、そして美しい顔立ち。だがそれは、確かに人と比べると、優れている点ではあるが、決定的ではなかった。しかし、彼女の大きな瞳には、何かを引き付ける力があり、言葉にはできない魅力が漂っていた。クラス別に並び、退屈そうに無駄話をしていた少女たちは、その挨拶が始まると同時に、一斉に彼女に注目した。私は、あのときの異様な空気を忘れることができない。話の内容自体は、当たり障りのないものであったが、この狭い空間に閉じ込められている、大切に育てられてきた人形たちの心に、何らかの衝動を抱かせてしまったのは事実であった。話を終えた彼女は、用意されていた席に座った。
「素敵な方……」
誰かが囁いたこの言葉が、全てを言い表していた。
朝霧先生の担当は一年生で、私たちのクラスも含まれていた。「初めてなので、何かと不手際もあるかと思うけれど、一緒に頑張っていきましょう」最初の授業で、笑顔でそう言った彼女は、その通りに多少ぎこちなさが残る教え方で、教壇に立った。
冷静で、いつも真剣な彼女だが、楽しいことがあると、目を細めて静かに、そして本当に嬉しそうに笑った。時に優しく、時に厳しく、自分の職務をまっとうしていた。そんな彼女に初めて想いを寄せたのは、いったい誰だったのだろうか。
「ねぇ、森ちゃん、森ちゃんもそう思うよね」
教室で本を読んでいたところを、急に腕を掴まれた。顔を上げると、それは中等部のとき、同じクラスだった子だ。下手をしたら小学生にも見られかねない彼女は、まん丸な目でまっすぐにこちらの顔を見つめてきた。
「どう思うって? 何を?」
「朝霧先生のこと。この辺の男の人より、ずっと素敵に見えませんか?」
「森下さんは、先生のこと、どうお考えになります?」
私は朝霧先生の存在が、この学園で少しずつ重みを増していくのを感じた。
***
「君は、朝霧菫についてどう思う?」
放課後の新聞部の部室はとても静かで、部長の声がよく響いた。学園の端に設けられているのは、喧騒の中では執筆できないだろう、という配慮か、はたまた目障りな存在なのか。
ここは学園内でも別の空間のようで、微かに聞こえる運動部のランニングの掛け声だけが、現実と虚構を繋ぎとめている。
「どう、と言われましても。そしてその質問をしてきたのは、本日二人目です」
部長は窓の外を眺めていて、表情は読み取れないが、何かを企んでいる、そんな様子だった。
「現在学園内では、彼女を崇拝する生徒が現れている。しかもそれは一人や二人ではない。だが、生憎僕のような三年生には縁がないので、どんな方なのかよく知らないのだ。そこで、かわいい後輩の意見を聞きたい」
「聞いてどうするんですか?」
「そりゃあ、特集を組むのさ」
教室でも、彼女を愛している、という生徒は増えている。ある少女は、授業中に当てられて、頬を染めながらも、英文を歌うように朗読し、ある少女は問題に対して完璧な回答をし、彼女から褒められると心から喜んだ。ある少女は、下の名前で呼ばれた、というだけで一日中うっとりしていた。そして放課後は、各々が海外の小説や戯曲を持ち寄り、職員室へと慌しく駆けていった。
「でも、なぜここまで彼女が人気なのでしょう?」
部長は長い真っ黒な髪を揺らして振り返った。
「それは、この学校には若い男性というものが存在しないからだ。女学園ということを考えて、生徒に男子がいないのは当然であるが、教員にも、これといって好かれそうな者はいない。自らの人脈と行動力を使えるものはいいが、ほとんどの生徒は男性に飢えているのだ。彼女は、一部の生徒から男の代わりとして愛され始めているのだよ。……このファンを使えば、一気に新聞部は繁栄するだろう」
数日後、新任教師紹介という名目で、朝霧先生を特集した号外を出すと、通常の数倍の量が瞬く間に消えていった。そして彼女を追いかける者は一年生のみならず、他の学年にも現れ始めた。朝霧先生は、自分に近寄ってくる生徒たちに、なるべく優しく接していたが、日に日に疲れていくのが目に見えてわかった。少女たちは、彼女の授業を一言も聞き漏らすまいと、必死になって取り組み、挨拶を交わしただけでも、喜んでいた。
そして、この頃から学園では奇妙な出来事が起こるようになった。
「まぁ、これは何かしら」
ある日、一人の少女が、靴箱の端に、月のマークが描かれた真っ黒な封筒が落ちているのをみつけた。中を見るのは悪いと思ったが、それを拾った際に中身が落ちてしまった。急いで拾い上げようとすると、それは一枚の写真だった。街中のありふれた風景だと思ったが、よくみるとそこには朝霧菫が写っていた。
それ以降、たびたび同じようなこと、すなわち朝霧先生がどこかに映った写真が月のマークが描かれた真っ黒な封筒に入れられ、学園内から見つかるということが多発した。その写真はどれも何気ない日常を切り取っているように見えたが、彼女が普段学校では見せない顔をしていた。封筒のマークにちなんでルナと呼ばれるようになった謎の人物の撮る写真は、ファンの間でたちまち評判になった。
偶然手に入れた少女が高値で売りさばいている、という情報も聞いた。こんなことでは教師に見つかるのも時間の問題かと思っていたが、彼女たちは巧妙に盗撮写真の存在を隠した。
しかし、今思えばこのときが、朝霧人気のピークだったのだ。
ある日、学園に朝霧先生が夜の街中を、男性と歩いている写真がばら撒かれた。それらのすべてが真っ黒な封筒に包まれ、そこにはやはり、月のマークが描かれていた。少女たちは愕然とした。寄り添い歩く二人の姿は恋人そのものだった。現実を知った少女たちは、ひとり、またひとりと夢から覚めていった。それだけならまだしも、今度は朝霧先生に敵対する生徒が現れた。以前まであれだけ集中していた授業でも、数人の生徒は問いかけにも返事をしなくなった。陰では「男と会うなど、なんと不潔なことか」と囁かれ、取り巻きが減って楽になったかと思われた彼女だったが、これには参ってしまったようだった。堂々としていた授業も、だんだんと勢いがなくなってきた。朝霧先生が赴任してきて一年。最初はショートカットだった彼女の髪は、ぐんぐん伸びて、いつの間にか、かっこいいわけでもなく、ボーイッシュでもない、華奢な女性になっていた。
***
「先生」
「ん……森下さん、どうかした?」
「この問題、教えていただきたくて」
私の問題集を受け取ると、彼女は解説を考え始めた。長い睫毛が白い肌に影を落としている。とても美しい。
きっと彼女は、これから急速に老いていくのだろう。若者に押し出されて、若さを失っていくのだろう。対称的に私は、これから彼女のような大人になるのだろう。こうして彼女と接するたびに、それを実感して奇妙な気分になるのだ。彼女の今を写真に収めたいと思った。しかし、あからさまに撮ることなどできないので、心の中のカメラでそっとシャッターを切る。これで、どれだけ年老いたとしても、私の心の中には二〇代で、美しいあなたが生きていることだろう。
「…ということ。わかった? 月子さん」
「おーい」
職員室を出たところ、新聞部の部長から呼び止められた。
「いやぁ、本当に今回の件はありがとう。いい記事になりそうだよ」
「……少し派手すぎませんでしたか」
「大丈夫。これくらい大げさなほうが楽しいしね。……ということで、お礼。彼女に関する情報を与えよう」
部長が調べてきた朝霧先生のあれこれを、私は黙って聞いていた。
「本当にこんなものでいいのかい? あんなにいい写真を撮ってくれたのに」
「いえ、いいんです。これで。また利用したくなったら言ってください。代価は頂きますが」
「ふーん。君は本物のSなんだな。一瞬にして態度を変えた少女たちとは、やっぱり違うな。……でも本当に君がいてよかったよ。中等部のときに目をつけておいてよかった。君の撮るものは、人間の内面がそのまま浮き出ているようでびっくりするよ。ファインダーを通して一体どんな世界をみているのか、気になるよ」
「真っ暗な世界ですよ」
ふと外を見ると、既に太陽は沈みかけていた。あと少しすれば、空には月がのぼるだろう。
部誌掲載作品です。
女子高モノを書いてみたかったので挑戦してみました。
表現したいことを上手く言葉にできないもどかしさを改めて感じた一作でした。