まったく話を聞いていない侯爵令嬢のお話
王城の一室、密室とも言うべきそこには、大きな円卓があった。ぐるりと若年から老年までの貴族の男性たちが座り、一番奥に私の婚約者のイラム侯爵嫡子ヴィクトル・ポワティエが厳つい顔をして私を睨みつけていた。
私、ジェルリンデ・ド・ラーブルは——もっとも入り口に近い円卓の席に座らされて、じっとヴィクトルを見ていた。おかしなことに、ヴィクトルは私を睨んで、私はヴィクトルを見ているはずなのに、目が合っていなかった。
そして私は悟った。
ヴィクトルったら、ひょっとして公衆の面前でプロポーズをしようということ?
私は思わず笑みがこぼれる。何せ婚約してもう三年、いつもヴィクトルは忙しくてかまってもらえなくて拗ねたことも何度もあるけど、やっとプロポーズをしてくれるというのならもう許してしまうわ。恥ずかしくて目も合わせられないのね。まったくもう、初心なのだから。
ヴィクトルが重々しく口を開いた。
「ジェルリンデ。お前は」
「ヴィクトル、結婚式はいつかしら?」
「は?」
「いやだ、まだ決めていないの? 早くしてちょうだい、両家の親族にも連絡をしなければならないでしょう?」
「何を言っているんだ、お前は」
ヴィクトルが変な顔をしている。周囲の殿方も似たような顔をして、私を見ていた。
そんなに見つめられたって、私はヴィクトルの婚約者なのだから、お応えできないのに。私はちょっと気分がよかった。ヴィクトルが頭痛でも起きたかのような表情で、私を指差す。
「私はだな、お前が」
私はそこであることを思い出した。思いっきり手を叩く。
「あ! そうだわ! あなたの幼馴染のエイダが、こっそり屋敷に忍び込んであなたのベッドで寝ていたことは黙っておこうと思ったのだけど、もう言ってしまっていいわよね? だって、時効よ、時効」
うん、そうだわ。エイダがあんなにヴィクトルのことを好きだと思っていたということを、ヴィクトルも知っていたほうがいいわ。そのほうがエイダのためにもなるだろうし! 伝えてくれてありがとう、ってお礼を言われるに違いないわ!
私はいいことをした気分でいっぱいだ。何だか騒々しい貴族の男性たちのことは正直視界に入っていない。
「エイダ? エイダ・ヴィヴァンか? ヴィヴァン伯爵の?」
「どういう……あまり褒められた行為でないのは確かだが」
あら、皆様エイダのことを知っているのね。なら話は早いわ。ふっふっふ、たった一つの冴えたやり方、見せてあげましょう。
「でもだめね、エイダがそこまであなたのことを好きだったなんて、私知らなかったわ! 何だか申し訳ない気もするの」
「だから私はお前とはもう」
「それで思ったのだけど、第二夫人としてエイダを迎えるのはどうかしら? 第一夫人は私よ、婚約者だもの。エイダもあなたといられるなら喜ぶと思うのだけど、どう?」
これでどうだ、と私は胸を張る。
私がヴィクトルの第一夫人、エイダが第二夫人ということなら、私は結婚できてエイダもヴィクトルと結ばれて、皆笑顔で過ごせるというもの。大昔のおとぎ話でも、そんなふうに一夫多妻を扱っているものはあったもの。だからおかしくないと思うわ。
ただ、ヴィクトルは声を震わせて怒っていた。
「お、お前は、貞淑さのかけらもないのか!?」
「あら、どうして? あなたのお父様だって休日には市街地の愛人宅をはしごなさっているのに」
「それを言うな、ここで!」
怒られてしまった。どうしてかしら。ヴィクトルのお父様、イラム侯爵は伊達男で大変にモテると評判なのに。愛人の多さは男の勲章、とおっしゃっていたし、褒め言葉で間違いないはずなのだけど。
すると、私の背中にある部屋の扉が開いた。やってきたのは、私の世話係を務める青年テキシスだ。
「ジェルリンデお嬢様、お迎えにあがりました」
「テキシス、もうちょっと待って。結婚式の日取りを決めていないの」
そう、それが肝心だ。私にとっては、そのために今日ここへ来たようなものだから。
テキシスは円卓を見回し、そして呆れ気味に私を急かした。
「では、お早く」
「ええ! ヴィクトル、そういうことだから早めに決めましょう」
「決めるか! お前は本っ当に話を聞かない女だな!」
「お褒めいただき光栄ですわ!」
「褒めていない!」
よく分からないことを言う。ヴィクトル、こんな男性だったかしら。もっと物分かりはよかったと思ったけど、三年のうちに何か変わってしまったのかしら。ショックだわ。
私は部屋の柱にある時計をちらりと見た。午後二時を指し示した時計の針は、私へこの後の予定を思い出させる。
「そういえば」
「まだあるのか!?」
「私、このあとフレデリク王子にお茶会のお誘いをいただいていますの。よろしければご一緒にどうかしら?」
ヴィクトルの顔色が赤かったり青かったりして、どうしたものかしら。ひょっとして、体調が悪いのかも。心配だわ。
円卓に着く一人の老いた男性が、わざとらしく大きな咳払いをした。
「こほん! ジェルリンデ嬢、ヴィクトル・ポワティエはあなたとの婚約を破棄したい、と主張しているのだ!」
婚約を破棄。
はあ、と私は一言。そして、頷く。
「あら、そう。しょうがないですわね」
「そ、それだけか?」
「だって、あなたのお母様からこう伺っておりますもの。ヴィクトルは父親譲りで浮気性だから、いずれは必ず婚約者のあなたに愛想を尽かしたと言うだろうけれど、そういうときはむしろ願い下げ、と言っていい、と。お母様がそうおっしゃるなら、仕方ありませんわ。ちゃんと契約書も作っていただいておりますし」
円卓がざわついた。皆、口々にその単語と疑問符を口にする。
「契約書?」
ええ、と私はちゃんと説明する。私は難しい話の説明だってできるのだ。
「もしヴィクトル、あなたが私との婚約を破棄した場合、私はあなたに賠償金を請求できる、というものですわ。結婚を待った三年間、本来受け取るはずだったプレゼント、舞踏会に出る機会を逸してしまったことなどなど……しめて、一千万リムいただきますわ」
一千万リム、という単位は私が出したわけではないけど、大金であることは分かる。確か、郊外の牧草地と庭園付きの大きな屋敷がそのくらいの額だったかしら。まあ、貰えるだけもらっておいたほうがいいはずよ、きっと。
「ちょっと待て、まだ」
ついに、ヴィクトルの声が震えていた。だめだわ、周囲にそれを悟らせちゃかわいそう。別れ話は惜しむことなくきっぱりすっぱりしたほうがいいはず、うん、そうよ。私は言葉を被せる。
「残念ですわ。結婚できると思ったのに……でも仕方ありませんわ。お支払いのほうは来月までにお願いいたしますわ。それでは、失礼します。テキシス、まいりますわよ」
「はっ、こちらです」
私は席を立ち、次の予定——フレデリク王子とのお茶会へ向かうため、部屋を後にした。
「ヴィクトル……我々を呼んだ意味はあったのかね」
扉が閉まる直前、何だかそんな疲れた声が聞こえたのは気のせいかしら。
王城のバルコニーで、フレデリク王子が安楽椅子に座って外を眺めていた。
傍らには金の持ち手の杖があり、それがないとフレデリクは歩くこともままならない。だからもっぱら彼は自室のバルコニーから外を眺め、来客をもてなす。
今日はもっとも待ち望んでいた来客が来る。フレデリクは扉が開く音を聞きつけて、少し体の向きを変えた。
やってきたのは、ラーブル侯爵令嬢ジェルリンデ・ド・ラーブルだ。息を弾ませ、人懐こい笑顔で一礼をする。
「ご機嫌麗しゅう、フレデリク」
いつものあいさつ、いつもの彼女。
でも、今日は違う。フレデリクは意を決して、言葉を紡ぐ。
「やあ、ジェルリンデ。さっそくで悪いが」
「はい?」
「その……僕と結婚する気はないかな?」
フレデリクは知っていた。ジェルリンデの婚約者ヴィクトル・ポワティエが王城に貴族たちを集め、彼らの前でジェルリンデに婚約破棄を宣言し、認めさせるように策略を巡らせていたことを。
ただ、フレデリクはジェルリンデに関しては心配していなかった。
なぜなら彼女は、天然のトラブルメーカーであり、人の話を聞かないバーサーカーで、恋に恋する乙女なのだから。だからきっと、ヴィクトルの浅はかな謀略など踏み越えて、フレデリクのもとへやってくると分かっていた。
その予想どおり、ジェルリンデは意にも介さず、笑顔を曇らせることもなく、フレデリクの前に現れたのだ。だったら、彼女に恋した男として、やるべきことは一つだ。他の男に取られる前に、プロポーズを。
フレデリクにとっては、余裕なんて何もない、一世一代のプロポーズなのだが、ジェルリンデははっきりと、反射的にこう答えた。
「婚約でしたらノーセンキューですけど、結婚のことでしたらオーケーですわ!」
フレデリクは首を傾げ、こっそりテキシスに尋ねる。
「どういう意味か分かる?」
「そのままの意味です。ご安心を」
やっぱり分からない。まあいい、とフレデリクはジェルリンデがプロポーズを受け入れてくれたのだと思うことにした。多分、その意思疎通はできていると信じたい。
それよりも、なぜかジェルリンデは興奮気味に椅子に座り、聞いてほしい、とばかりに前のめりに話しはじめた。
「フレッド、私、やりたいことができましたわ」
「やりたいこと? 何だい?」
「この三年間我慢してきた、舞踏会に出席して踊ること! フレッド、エスコートしてくださる?」
なんだ、そんなこと。
フレデリクはそう言いたかったが、ジェルリンデに悪気は一切ない。フレデリクが杖の必要な人間だと忘れているのだ。それもまた、いつものことだ。むしろ、フレデリクとしては、自分の足のことをこれでもかと気遣う人間が嫌でしょうがなかったから、ジェルリンデの態度など気にもならない。
フレデリクは穏やかに承諾する。
「いいよ。ただ、僕は足が悪いから、踊りはテキシスに代わりを務めてもらってもいいかい?」
そう確認を取ると、ジェルリンデはやっとフレデリクの足が悪いことを思い出したのか、ぷくっと頬を膨らませた。
「残念ですわ」
「まあまあ」
「あ、そうだわ。なら、ヴィクトルからせしめる一千万リムは、あなたのために使いましょう。余った分はあなたの他にも足の悪い方を助けるために、義足代や療養費を補填するために。そうすれば、皆が幸せですわ!」
「待ってガール、一から説明してくれないか」
あら失礼、とジェルリンデは素直に謝った。そして、ジェルリンデではなくテキシスが簡単に説明をする。ヴィクトルがジェルリンデとの婚約を破棄することで、イラム侯爵家から賠償金が支払われる契約書が存在し、ジェルリンデは大きな屋敷を買えるほどの資金を得るのだ、と。
そこまで聞けば、フレデリクもははあ、と事情を飲み込む。ジェルリンデはまっすぐだ、誰かを助けることを厭わない。幼少のころ、王城の階段で昇れずに戸惑っていたフレデリクを真っ先に助けに来たのは、ジェルリンデだ。それから何度も、ジェルリンデはフレデリクを助けに来た。いつしかそれは、当たり前のようにフレデリクの心に恋心を植えつけて、天衣無縫なジェルリンデを真正面から受け入れられるほどの器を備えるようになった。
ともかく、ジェルリンデがまっすぐ突き進もうというのなら、フレデリクが邪魔をする理由はない。
「いいことだ。分かった、僕もそれを手伝おう。せっかくだから援助会を作って、そこに基金を作ろう。そうすればある程度公費から活動資金を賄えるし、寄付を受け付けやすくなる」
「なるほど!」
「テキシス、そのあたりは上手くやってもらっていいかな?」
「御意にございます。すぐにでも国王陛下へお伝えしましょう」
「頼んだよ。僕は、彼女をエスコートしないといけないから」
本来はフレデリク付きの秘書官であるテキシスは、フレデリクの命令を聞いて、一千万リムの使い道について国王へ説明に向かった。万事上手くやることだろう、彼は優秀だ。
フレデリクは、ゆっくりと杖をついて立ち上がる。先ほどまで無邪気に喜んでいたのに、すぐにフレデリクを心配する表情へ変化したジェルリンデへ、フレデリクは精一杯手を伸ばす。
「今日は王城最上階の星見の間が空いているんだ。小さいけど、誰も見ていないし、不恰好でいいなら踊るには十分だと思うよ」
またしても、ジェルリンデの顔は歓喜に満ち溢れた。
背中からフレデリクの腰に手を回し、フレデリクの左腕を肩に置いて、ジェルリンデは上機嫌に笑う。
「ゆっくり、杖をついてのブルースから始めましょう。だめならだめで、床に座っておしゃべりでも。街でそうやって話し込んでいる男女を見かけましたの、私もやってみたいですわ」
「そうだね。じゃあ、一つずつやってみようか」
そんな話をしながら、ジェルリンデとフレデリクは、仲睦まじく一歩一歩を進んでいく。
イラム侯爵家が傾くことも、ジェルリンデが王妃になることも、今すぐの話ではないから——。
たまにこんな人現実にもいるんだよな……って思って真顔になっちゃった。