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風姿花伝 偽の巻 ―現代語訳古典芸能―

江口

作者: kiri

 墨染(すみぞめ)(ころも)がしとどに()れ、網代笠(あじろがさ)の端からもぽたりぽたりと雫が落ちる。


「雨だなあ」

「雨ですね」


 江口(えぐち)にさしかかった時、急に振り出した雨を避けようと軒先(のきさき)を借りた。その部屋の中から女が応える。


「……よく降るなあ」

「よく降りますね」


 降り続く雨は、会話が聞こえなくなるほど強くはない。だが、いつまでも止む気配がない。

 さすがに冷えたのだろう。ふるりと体を震わせ、旅の僧は部屋の中へ視線を投げかけた。


「ちょーっと中に入れてくんないかな」

「無理です」


 笠の中から白いため息をこぼし、和歌(うた)()む。


世の中を(よのなかを) いとふまでこそ(いとうまでこそ) かたからめ(かたからめ) かりの宿りを(かりのやどりを) おしむ君かな(おしむ きみかな)


 部屋の中から、ふんっと鼻息がもれ和歌(うた)が返る。


世をいとふ(よをいとう) 人としきけば(ひととし きけば) かりの宿に(かりのやどに) 心とむなと(こころ とむなと) 思ふばかりぞ(おもうばかりぞ)


「そんな和歌(わか)で返されたって知らんがな!」

「あんたが和歌(わか)で言ってくるからでしょうが!」


「現代語訳!」

「そっちこそ!」


 一呼吸(ひとこきゅう)おいて、表情が消えた僧の口から(誰かの)耳に馴染(なじ)んだ言葉が(つむ)がれた。


「世の中を(いと)出家(しゅっけ)するのは難しいことだけれど、貴女(あなた)は仮の宿を貸すのさえ難しいと惜しむのか」

「ご出家の身と(うかが)ったので、こんな仮の世の、まして遊女(ゆうじょ)の宿になど、お心を留められぬようにと思っただけです」


 同じような表情で遊女が答える。

 静寂は一瞬と保たず、先ほどの応酬が再開された。


「ケチ!」

「坊主のくせに!」


「別に一家(ひとつや)で遊女と寝たいとか言ってないだろう!」

芭蕉(ばしょう)だって、お前らついてくんなって断ったでしょう!」


 そこに、みっしりとした気配が入り込む。


「はいはいはいはい、そ・こ・ま・で・よ」


 二人の間に割って入った、むっちりと張りのある大胸筋。


西行(さいぎょう)ちゃんも、お(たえ)ちゃんもそのくらいにしときなさいな」


 三角筋(さんかくきん)から上腕二頭筋(じょうわんにとうきん)にかけて、もりもりと盛り上がっているが声音は優しい。


「だってこの人が」

「だってこの坊主が」


 振り向いた二人が叫んだ。


「泊めてくれないから!」

「出家した人を泊めてどうすんのよ! あんたが泊まったら他のお客さんが来られないじゃない!」


 二人の目の前で腕橈骨筋(わんとうこつきん)が、ああん♡と丸太のように振り回される。


「やあだ、もう。新古今和歌集が泣くわよぉ」


 部屋の内と外での(にら)み合いをいなすように、大臀筋(だいでんきん)がぷりんと動いた。


「ほらほら、二人ともそんな風にがるがる言ってないで」


 この鍛え上げられた筋肉群(きんにくぐん)を仮に普賢菩薩(ふげんぼさつ)と呼ぶことにする。

 ()の筋肉が何故(なにゆえ)こうも主張するのか。

 それは薄い僧衣(そうい)しか(まと)っていないからである。そりゃあもう、あっちもこっちも衣を通してバッキバキに、我こそは筋肉! と主張するからなのである。


「ここはアタシが(おご)るわ。入ってらっしゃいよ、西行ちゃん。お(たえ)ちゃんもいいわね」

「菩薩様がおっしゃるなら、あたしはいいですけど」


 今度は(たえ)がため息をこぼす番だった。


「しょうがない。入ってくださいな、お坊様」


 衣を(まつ)わりつかせた大腿筋(だいたいきん)がみちみちと動き、西行を迎えに出る。

 中に入るや、シャランラと音がしそうな光が体を包み、僧は()(ねずみ)から人に戻った。


「ね、これならお部屋も濡れないし、いいでしょ」

「ありがとうございます。お世話になります」

「あらぁ、いいのよぉ」


 眼瞼筋(がんけんきん)がパチリと動き、西行に笑いかける。

 そして振り返ると(たえ)白湯(さゆ)を持ってくるように言った。


「ささ、どうぞ座って。西行ちゃんも四天王寺(してんのうじ)行ったばっかなんでしょ」

「はい! 素晴らしい所でした。何度焼けても再建されたのはそれだけ人々の尊崇(そんすう)を集めているからなのでしょう。弘法大師(こうぼうだいし)様も参籠(さんろう)されたのですよね。未熟な私はまだ仏の真髄(しんずい)(おさ)()るまでには程遠いのですが、西門で日想観(にっそうかん)をさせていただきました」

「うんうん、よかったわねえ」


 やはり推し語りは早口になるものらしい。

 西行のそれを菩薩はにこにこと聞いていた。


「これを機会に弘法大師様の跡を追ってみようかと思っています」

「あらぁ、大丈夫? あの子結構きっついとこ行ってるわよ」

「……がんばります。尊敬するあの方が何を見たのか、何を感じたのか、私もそこへ行って考えてみたいと思います」


 ちょうどそこへ(たえ)が戻ってきた。

 どうぞ、と(ぜん)を差し出す。


「遅くなってすみません。少しですが食べ物も用意しました。召し上がってください」

「いいのか? さっきまで、あんなに言っていたのに」

「菩薩様に宿代いただいてるのに、もてなしもしないのはどうかと思っただけよ」


 照れているのか、不貞腐(ふてくさ)れた口調が可愛らしい。


「すまなかった。さっきは雨に濡れて寒かったし、腹も減って気が立ってたんだ。出家したというのに情けない事だった」

「やだ、そんな殊勝なこと言われたら困るわ」


 わだかまりが解ければ、なんということもない。即妙に和歌のやり取りをしたのも互いに気に入ったようだ。

 間に入る菩薩の合いの手が絶妙なこともあって、食も会話も進む。

 やがて西行の(まぶた)は、とろりと重くなってきた。


「西行ちゃんお疲れね、横になったら?」

「いや、これだけ良くしていただいてさすがにそれは。少し休んだら出立しますので……」


 そう言いながらも、ゆらりゆらりと船を()ぐ。

 いつの間にか西行の体は()し、寝息を立てていた。


「やっぱりお疲れねえ、寝ちゃったわ」

「そうですね」


 苦笑しながら(たえ)は寝ている西行に着物をかけた。


「菩薩様」

「なあに?」

「出家するのも悪くないかもしれませんね」


 菩薩は小首を傾げ、先をと促す。


「もう昔の華やかな暮らしを思い出すことも少なくなりました。訪れては別れる人を見送り、来ない人を待つ遊女の暮らしもなんだか疲れてしまって」


 いつの間にか雨は止み、煌々(こうこう)と月が輝いている。


「心に波が立つと苦しい。それは迷っているから、惜しむ心があるからなんですね。流れる川のように心を留めずにいられたら」

「ふふっ、西行ちゃんよりお坊様みたいなことを言うのね」


 妙は驚いたように目を見張り、そうでしょうかと困ったように笑った。

 菩薩はそんな(たえ)に静かに語りかける。


「風に吹き散らされる春の花や、枯れ落ちる秋の林。確かに変わりゆく世界は移ろいやすい人の心と同じだわ」


 でもね、と菩薩は空を仰ぐ。


「今も昔も月は変わらず輝いている。全ては同じ世界の姿なのよ」


 菩薩の言葉につられるように(たえ)も空に目を向ける。耀く月は何も言ってはくれないが、何かを心に届けてくれた気がした。


「さ、お(たえ)ちゃんも少し休んだほうがいいわ。ここはアタシが見てるから」

「はい……ありがとう……ございます……」


 急に眠気が差したらしい(たえ)がその場に崩れ落ちた。

 二人分の安らかな寝息を聞き、菩薩は柔らかに笑みを浮かべる。すうっと上げられた手の、その指からパチンと音がした。




「もし、お坊様」

「……んん……」

「お坊様、起きてください。こんな所でお休みになられては風邪を引かれますよ」


 西行が目覚めたのは四天王寺だった。


「江口まで行ったはずなんだが、なぜここに……」


 きょろきょろと辺りを見回し、当惑して首をひねる。


「夢……だったのだろうか」

「あのう、大丈夫ですか?」


 はた、と我に返り、西行は男に手を合わせた。


「ご心配おかけしてすみません。大丈夫です」


 ほっと胸をなで下ろし男は去っていった。

 

「まあいいか。いつの日も太陽()は昇るのだ。私はまたここから仏の道を進もう」


 朝日を浴びて西行は歩き出す。

 と、不意に何かに気づいたように足を止め独りごちる。


「夢でなければいつか会えるかもしれんな」


 西行の去った後、かすかに残った女物の香が風にさらわれていった。


観阿弥原作、世阿弥改作の夢幻能。

女性が主人公の演目は三番目物。正式な五番立ての演能の際、三番目に上演される。鬘物(かずらもの)ともいう。




【江口】


今の大阪市淀川区の淀川と神崎川の分岐点。

古来から交通の要所で遊女の宿が多くあった所。




「別に一家で……」


一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月  芭蕉

宿の隣室にいた伊勢参りの遊女から道中が怖いと同行を頼まれるが、皆について行けばいいと断った。その時に読まれた俳句。


場面の遊女繋がりで出しただけです。能には出てきません。

そして時代が違うとか言ってはいけません。




【参籠】


一定の期間、昼も夜も引き籠って神仏に祈願すること。




「西門で日想観……」


かつて四天王寺西門の向こうは海であり、その先は極楽浄土であると言われていた。

西門から浄土を拝むことを日想観という。

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