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異世界恋愛 短編集

回帰した自称ヒロインから、あなたの婚約者は私の運命の相手だから今すぐ別れなさいと迫られた件について

作者: 藍生蕗

日間総合3位、沢山の方に読んで頂きました。感謝!(1/12)


「──……と、いう訳ですので、フィリップ様と別れて欲しいのです」

「……はあ」


 そう目の前で息巻く令嬢に、ミランダは呆けた相槌しか返せなかった。

 そんな主人の様子を見兼ねた老齢の執事の咳払いに、ミランダははたと目を覚ました。


 ……目の前の彼女曰く、ミランダの婚約者──フィリップは数日後に向かう魔物の討伐隊で、彼は生死の境を彷徨う事になる。

 それからやっと目を覚ましたのは二年後。

 ミランダは別の相手と結婚してしまった。


 というのも、討伐時に撃ち漏れた魔物が王都に入り込み、ミランダは醜い怪我を負うことになった為、だ……そうだ。


 フィリップの実家、ガルシア侯爵家は傷物の令嬢となったミランダとの婚約継続を渋り、ミランダもまたフィリップの隣には相応しくないと、自ら身を引いた。


 そうしてミランダはフィリップが眠っている間に親戚筋の子爵家へ嫁ぐ事となる──


「失意に暮れるフィリップ様は侯爵家を出奔し、隣国で騎士として立身しました。そこで私と運命的な出会いを果たしたのです……」

「えっと、それがセシリア様……あなたであると……?」

 恥じらうように頬を赤らめる令嬢に声を掛けるも、彼女はうっとりとその様を思い描いているようで、こちらに気付きもいない。

 かと思えば急に震え出した。


「それなのに……フィリップ様は、自分は生涯結婚はしないと! あなたのせいよ! あなたがさっさと他の人と結婚してフィリップ様から離れてしまったから! 彼に深い心の傷を作ってしまったから!!」

「ええ……っ?」

 ミランダは頭を抱えたくなった。


 このお嬢さんはさっきから何を言っているんだろう……? 


 隣国フォートの貴族令嬢が訪ねて来たと、困惑気味の執事から報告を受けたのが四半刻前。

 父母か兄宛てだろうかと、けれどそんな言伝も先触れも受けておらず。どうしようかと頭を悩ませている間もなく、ミランダ宛だと聞いて益々混乱し。 


 セシリア・オッドワークと名前を出されても、誰? とは思ったが、執事がその名前に心当たりがあったらしくて、結果突撃ともいえる訪問にも応じたのだが……


 何だろう、この状況は。


「フィリップ様の傷心を回避する為にも、あなたは彼と早急に破婚をすべきなのです」

 きっぱりと言い切るセシリアにミランダは瞳を揺らす。

 

「ええと……」

 取り敢えず今の話を頭で反芻すると……


 もうすぐ魔物の暴走が始まりフィリップが討伐に向かう事、怪我をする事。

 こちらのお嬢さんはそれを伝えに来た……という事。


 それは確かに重要な情報だ。

 フィリップにはくれぐれも気をつけて討伐に向かって貰おう。そう頷いて改めてセシリアと名乗る令嬢に向き直った。


「貴重な情報をありがとうございます?」

「そうじゃ無いでしょ!」

 疑問形でお礼を口にすれば、セシリアはバンとテーブルを叩いて身を乗り出した。


「……えーと、ごめんなさい?」

 疑問形が悪かったのかなと苦笑するも、セシリアの眦はどんどん釣り上がっていく。


「違う! フィリップ様と、さっさと、別れなさい!!」

「……えっと。それは、どうして?」

「あなた私の話を聞いていなかったの? 私とフィリップ様の運命の出会いを!? 彼の為に私はこうして過去へと回帰し、こうして最善の未来を掴む為に動いているというのに! ……私たちの不変の愛の為よ!!」


 そう叫ぶセシリアにミランダはじっと視線を合わせた。

 ぱっちりと大きな瞳には長いまつ毛が縁取り、瞬きする度にばさばさと音が聞こえてきそうだ。

 金の巻き髪、鮮やかな新緑の瞳。

 まごう事なき美少女。


 そんな彼女は今、勢いに任せて立ち上がっている。

 座るミランダと背丈は同じ。

 

 ……十歳位だろうか。


「そんな、もしかしてフィリップ様はロリ……」

「お嬢様!!」


 思わず口をつきそうになった台詞を執事の叱責に慌てて飲み込む。


「失礼、セシリア様」

 未だふーふーと鼻息荒い少女にミランダは淑女の笑みで笑いかけた。

「何よ」と、ぶすっとした返事にミランダは小首を傾げてみせた。

「あなたは何年後からいらっしゃったのでしたっけ?」

「六年後よ!」

「まあ……」

 

 ──と、言う事は。彼女の言う事が正しければ彼女は十六歳。

 フィリップは今十八歳だから、六年後は二十四歳。

 二十四歳と十六歳なら、まあ……普通だろう。


『ほら! これを見て! ──』

 そう言って先程意気揚々と見せられた物を、改めて一瞥する。

 ……全てが作り話だと言うには、視界にあるそれが邪魔をする……ミランダの心に引っ掛かりを感じるもの。


 マリッジブルーというのだろうか。ここ最近、妙に落ち着かない日を送っていたけれど。……もしかしてそれはこれが原因だった、とか。

 昨夜も見た、後悔と諦念を繰り返す夢を思い出し、ミランダはふうと溜息を吐いた。


「つまり私は、フィリップ様を諦めなければならない程、酷い怪我を負うんですね」

「お、お嬢様」

 狼狽える執事に首を振り、一つ息を吐く。


「そうよ、だから早くフィリップ様の為に破婚なさい。そうして彼は今から私と愛を育むの。……彼ったら幼馴染の婚約者が忘れられないだなんて私の求婚を断ってきたけれど。でも今から親しくなれば、きっと私の方を大好きになるわよね」

「断られ……」


 さっき「私たちの不変の愛」とか言ってなかっただろうか。

 えーと。


(うーんと)

 ミランダはフィリップの顔を思い出し、もし破婚なんて口にすればどうなるかと思いを馳せ──身震いしたのでやめた。

 ……考えたくない。


 取り敢えず彼女にとっての大事な理由というのは分かった。

 つまり彼と過ごす時間を長くとりたかった、という事だろう。

 両手を組み、うふふと声を漏らすセシリアにミランダは頬に手を当てたまま固まってしまう。

 それにしても、


「十八歳と十歳ってどうなのかしら……」

 思わず呟けばセシリアはキッとミランダを睨みつける。

「失礼ね! 私は八歳よ!」

「……八歳」


 近くにあるセシリアの顔が遠くに見える。

 いや、二十四歳と十四歳もおかしい年齢ではないのだけれど。

 十八歳と八歳で育む愛というのに、少しばかり疑問であるだけで……


 事情のある政略婚ならいざ知らず、愛を貫いてと言われれば、フィリップは周囲から自分が抱いたような、あらぬ疑いをかけられるのではなかろうか……

「どうしましょう、イーサン」

「落ち着いてくださいお嬢様」


 悩んでいると、執事のイーサンがささっと近寄って来た。

「そもそも破婚は許されませんよ……フィリップ様が……」

「ああ、ええ……そうよね……」

 あれこれ考えるも、イーサンの台詞に改めてフィリップを思い浮かべ、ミランダは一つ頷いた。


「セシリア様、やはり破婚は難しいですわ。もし本気でお考えならそれは直接本人に……」

「──破婚? それは誰の話?」


 その声にミランダとイーサンはびくっと身体を浮かせた。

「まあ、フィリップ様!」

 一方声を弾ませるのはセシリアだ。


 きらきらと明かりの加護でも受けているのか、光の反射スキルでも身につけているのか。

 サラサラと流れるプラチナブロンドにサファイアのように輝く瞳。

 綺麗に整った顔と、すらりと高い体躯……相変わらずの美男子っぷりを発揮して、フィリップは客間に颯爽と現れた。


「う、眩しいっ」

 そんな婚約者の登場に、執事共々慌てて視界を塞ぎ、ミランダは顔を背けて瞬きを繰り返した。


 そんないつもの二人の反応を気に留めるでもなく、フィリップはセシリアに一瞥をくれた後、ミランダの手を取りながら無表情に問う。


「誰この子?」

「ええと」

 期待に目を煌めかせるセシリアに、ミランダは僅かに逡巡してから掌を上に向け彼女に指先を向けた。

「セシリア様です」

「あ、そう。それより破婚って何?」

 手を掬ったまま無表情で見下ろすフィリップにミランダは視線を彷徨わせた。

「ああ、それは……」


「──っもう、何なのその紹介は! フィリップ様、私はセシリア・オッドワークですわ。隣国の公爵家の三女で……」

「今僕はミランダと大事な話をしてるんだけど」

 割って入るセシリアに、フィリップは面倒そうな視線を向ける。

「私こそがあなたの大事な将来の伴侶です!」

「大丈夫この子? 頭がおかしいのかな」

「……」


 ミランダはイーサンと一緒にそっと視線を逸らした。

 流石フィリップ、遠慮がない。話を根底から覆してしまった……


 元々彼はあまり周囲に関心がない。

 だから他人に対して無神経なところがあるというか何というか……


 ミランダはセシリアの肩書きと勢いに飲まれ、真面目に話を聞いてしまった自分を少しだけ恥じた。

 それでもセシリアはめげない性格なのか、フィリップに近付き焦れたように訴える。


「フィリップ様! あなたは私の生涯の騎士となり、薔薇園で赤い薔薇を捧げて下さったのです。『麗しい姫君』と仰って下さいましたわ!」

 それは絵になりそうだとその光景を思い浮かべていると、フィリップは呆れた顔を返した。

「そもそも僕は君に会った覚えはないのだが……? どうせ君が落とした薔薇を拾ったのを勘違いしたとか、その辺りじゃないのか?」

 ぴくっとセシリアの動きが止まる。

 

「う、麗しい姫君と……」

「うるさい姫君の間違いだろう」


 かこんと音が聞こえる程、セシリアは大きく顎を落とした。

「あの、フィリップ様。セシリア様はまだ八歳ですし……その辺で……」

 堪らずフィリップに声を掛けるも、彼は無表情なまま、ぐるりと首を巡らせ、ミランダに覆いかぶさるように詰め寄った。

「──で、破婚って? 何の話?」


 ◇


 ミランダ・モリスは二十歳の伯爵令嬢である。

 十代で結婚してしまう貴族令嬢の中で、行き遅れになりかかっている理由こそ、二歳年下のフィリップであった。

 

「ミランダ、結婚して」


 出会い頭に十二歳の少年に求婚され、十四歳のミランダは固まった。

 その頃のフィリップは小さくて女の子みたいで。けれど愛嬌はなく、なんだかとっつきにくそうな子だった。


(……手に負えなさそう)

 そう考えた。

 とはいえ、緊張に震える子供の求婚を笑い飛ばす程、ミランダは非情にはなれなかった。


「ありがとう、けれどあなたはまだ若いから。二年後、もしまだ私の事が好きだったらまた言ってくれる? 考えてみるわ」

「……分かった」


 大人しく頷いて引き下がるフィリップに多少の後ろめたさはあったけれど。

 彼は確かガルシア侯爵家の嫡男だった筈だ。家柄から格式まで違う両家を思えば、正直とても釣り合わない。

 そもそも子供は飽きっぽいものだ。二年なんて待てないだろうと、ミランダは黙って立ち去るその背を見送った。


「ミランダ、結婚して」


 けれどきっかり二年後。フィリップは変わらぬ様子でミランダに結婚を求めた。


「えーと、」


 ミランダは十六歳。そろそろ婚約と結婚を考える時期になる。けれど、年下はちょっと……抵抗があった。

「二年後に考えてくれるって言ったよね?」

「……言ったわ」


 忘れていた訳ではないけれど。それにフィリップはこの二年、定期的に花や手紙を贈り、熱意を伝えてきてくれた……子供らしくて可愛いと思っていたものの。彼の真摯な想いは、どこか見ないふりをしていた。


 理由は困る、から。

 というのはこの国で爵位が継げるのは十八歳の成人後。婚姻もそれに準じている。

 フィリップが十八歳になる時、自分は二十歳となり行き遅れ確定となってしまう。実家の伯爵家にも迷惑が掛かるかもしれないし、この面倒な貴族社会で隙を見せるのは御免蒙りたかった。


 ミランダは意を決してフィリップににっこりと笑いかけた。

「フィリップ様、私を想って頂きありがとうございます。ですが、私たちは知り合ってほぼ交流がありません。今から二年ほど時間を設け、お互いに気が合うようでしたら婚約という形に致しませんか?」

「……それは」


 逡巡した後、こくりと頷くフィリップにミランダはホッと息を吐いた。

 相も変わらず無表情ではあるが、物分かりのいい子で助かる。


 もしかしたら彼は年上の女性に憧れでもあるのかもしれない。

 自分を慕ってくれる従弟の顔を思い出し、得心する。

 確かに自分は年齢より年上に見られがちだけど。

 それなら二年あれば彼と同じ年や、年下の少女たちにも目が行くようになるだろう。


 そもそもミランダは一般的な貴族らしい容姿ではあっても、人目を引く美しさがある訳でもない。やがて彼も関心を無くす筈だ。


 それに家柄を考えれば、彼の親も良くやったと褒めてくれるのではなかろうか。

 ミランダは自分の判断に満足気に頷いた。


 けれど、



「君がミランダ嬢かね。ほう、君が……」


 青筋を立て自分の前に座る紳士はガルシア侯爵その人だった。

 フィリップとは似ておらず、いかつい顔をしていて、怒ると余計に顔が怖い。


 フィリップを言い包めた翌日、彼は息子と一緒にモリス伯爵家に乗り込んできたのだ。

 所謂「お前、うちの息子の何が気に入らないんだ。ああん?」的な話をしに……


「は、い……」

 青褪めるミランダと震え上がる両親、怒り狂う侯爵、無表情のままに俯くフィリップ。

 集うは屋敷の一室なのに、伯爵家全体が緊張に張り詰めた。


「こ、侯爵様……ミランダはその、フィリップ様の為に身を引いた。と言いますか……多分……」

 娘に同意を求めながら恐る恐る告げる父をギッと睨みつけ、侯爵はミランダに目を向けた。


「聞くところによると、かれこれフィリップは二年も弄ばれたのだとか? それを更に二年とは……この子の優しさにつけ込んで婚約を焦らすとは……息子が可哀想ではないのかね」


 ミランダは視線を彷徨わせた。

「え、と……別に弄んでいる訳では……」

「うちの子の何が気に入らないんだ!」


 侯爵がガンッとテーブルを叩き、母がヒィと息を吞む。ミランダは慌てて声を張った。

「き、気に入らない訳では無いんです。ただその、身分差……と年齢……が気になりまして……すみません、我が家程度の家門ではガルシア侯爵家には相応しくありませんでしょう?」


 怖いので。できるだけ殊勝な態度を意識する。

 だから横から飛んでくる父からの、心外だ! という視線はまるっと無視しておいた。今は目先の恐怖から逃れるのに精一杯なのだから。

 すると侯爵は器用に片眉を上げ、僅かに表情を緩めた。


「つまり私の反対を気にしていると?」

「ええと、あの……つまりそうです……大切なご子息でしょうし……相応の相手を娶せられた方がよろしいかと……」

「何だそんな事か、なら私は息子の意見を尊重するから何も問題ない」

 侯爵はぽんと膝を打った。

「えっ」

 あっさりと応じる侯爵に、ミランダは口を丸く開けた。

「私は息子の見る目を信じる」

 いやいやいや。

 

「良かった、お父様ありがとうございます」

 無表情のままお礼を口にするフィリップに慌てて視線を送る。

「あのっ?」

「良かったなフィリップ」

「はい」

 そのまま父子は目の前でハイタッチをしていた。……フィリップは変わらぬ無表情で。


 ……十四歳の息子の恋愛事情に親が出てくるってどうなのだろう? 

 そもそも伯爵家下位のモリス家と縁付いて、由緒正しいガルシア家が得られるものなんて思いつかない。

 ミランダは混乱したが、結局その後も無言の圧に耐えられず。

 結果二人が持参した婚約届にサインしてしまった。

 無表情のまま嬉々として婚約届を掲げるフィリップを微笑ましく見つめる侯爵。その図に呆気に取られるモリス一家だった。


 こうしてミランダはフィリップの婚約者となった。

 分不相応な身分に四方から飛んでくるトゲトゲトゲ。

 正直かなりうんざりしたものの、持ち前の前向きな性格が幸いし早々に開き直れた。それにフィリップの一途すぎる熱量にも慣れた。


 どうやら侯爵もまた一途の人なようで。フィリップは彼の亡き母に類似しているらしく、妻を溺愛していた侯爵は息子に甘い。

 そんな理由なのか、侯爵家の面々はミランダに良くしてくれた。


 因みにフィリップは外見は母親似で、中身は父親に似たようだ。

 基本父子二人は無表情。更に愛想がない上、侯爵に至っては怒ると顔が怖いというおまけ付きだ。

 おかげでミランダは最初緊張しっぱなしだった。


 けれどフィリップはミランダの婚約者として精一杯頑張ってくれた。

 本人も年下である事は気にしているようで、それを埋めんばかりに努力する姿は微笑ましい。

 爵位を継ぐまでと騎士団に志願もしたのだが、それも少しでもミランダに近付きたくて、背伸びしたかったようだ。

 やがて侯爵もまた怖いのは顔だけで、心根は優しい人だと知り。ミランダは二人が大好きになった。


 そしてフィリップは、今やすっかり逞しくなった体躯と合わせ、何だか迫力のある美男子へと成長してしまった。

 彼の細やかな表情の変化を見つけては喜びを感じる程、今やミランダもすっかり彼に絆されている。


「十八歳になったら直ぐに結婚する」


 だからいつものような一方的な宣言にも、微笑んで応じた。


 そんな挙式まであとひと月という今、訪れた少女の話……


 ◇


「──と、いう事らしいのです」


 ミランダはセシリアの話を出来るだけ簡潔にフィリップに告げた。

 フィリップは一拍置いた後、ミランダを真っ直ぐ見つめた。


「分かった」

「え、信じるのですか?」

 瞠目するイーサンに対し、フィリップは小さく頷いた。

「ミランダと別れるなんて考えられないから、そんな話は聞きたく無いけれど。万が一起こったら回避しないといけない未来だから。それに……」


 テーブルの上に置かれたものをチラリと見て、フィリップは頷いた。

 そこには本人曰く、セシリアが回帰した証拠が置いてある。

 ミランダも半信半疑であったが、それをフィリップも支持するとなれば心強く思う。


「……そんな……フィリップ様」

 一方呆然とするセシリアを、フィリップは何の感情も表さないまま真っ直ぐに振り返った。

「僕は君を未来永劫愛する事はない。……いや、君だけじゃなくて、ミランダ以外は考えられない」

 ショックを受けながらも落ちていた顎を戻すセシリアに、フィリップは小さく頭を下げた。


「すまない」

 フィリップの動作にセシリアは一瞬大きく目を見開いた。

「……っふん! い、いいわよ! 別に!」

 泣きそうな顔でそう叫んで、ぐいっと袖口で顔を拭う。ミランダはその意地らしさに傍に寄ろうと近付くも、フィリップに手を取られた。


「この子の事は後だ」

「……フィリップ様」

 瞳を揺らすミランダに対し、フィリップは全く動じていないようだ。


「解決策を考える」

 そう言われミランダも頭を巡らせた。

「……あの、でも。例えば式を一ヵ月も早めるとかですか? ……でも招待状は既に発送済みですし、難しいですよ?」

 首を傾げるミランダにフィリップは珍しく口の端を上げて、小さな笑みを作った。


 ◇


「なんだい、無愛想な子だね」

 幼い頃から父方の祖母や、母方の叔母によく言われてきた言葉だ。

 フィリップは何の感情も表さないまま、大きな目を瞬かせた。


 幼い頃に母を亡くし、父は自分を大切にしてきてくれたけれど、どうにも周囲に疎いところがある人で。自分の表情が乏しいせいもあり、息子の周りで起こっている事に気付いていないようだった。

 

 この親戚二人は母を嫌っていたから、彼女によく似た自分はずっと嫌悪の対象だった。

 そもそも母がいなくなって、どう笑ったらいいのか分からなくなったのに。楽しいも嬉しいも感じなくなって、子供らしい挙動のできない自分はさぞ不気味な存在だっただろう。

 だから仕方がないと言えば仕方がない。

 良い気分では無かったけれど、特段何も感じなかったから放っておいた。

 

 すると大人の態度を見て子供も自分を遠巻きにする。次第に手を出すようになる。だから自分はいつも一人だったし、段々とそんな関わりしか持てない他人なんて、どうでも良くなっていった。


「お前、生意気なんだよ!」


 ある日フィリップは同い年の子供に突き飛ばされて花壇に転がった。

 確かダリルとか言っただろうか。

 口をきいた覚えもないのに、何が気に入らないのだろう。

 親戚の茶会に自分を預け、父はいつものように仕事に向かってしまった。

 歳の近い子供のいる場の方がフィリップも退屈しないで済むと思っているらしい。


 父は自分に目を掛けられないくらい忙しい人。だから余計な事で煩わせられなかった。

 そんなフィリップの心を見透かしてか、彼らの手は止まるところを知らない。表情の乏しい自分なら大きな怪我でもさせない限り、見咎められる事は無いと高を括っている。

 加えて身体が小さく顔立ちも女のような自分は、目をつけられやすかった。

「気持ち悪い奴!」


 そう言われ、今日も殴られて突き飛ばされて。それでも顔に出さない自分へと、異端者に向ける眼差しが突き刺さる。こんな奴相手なら何をしてもいいと思うのだろう。……どう声を上げていいのか分からないだけなのに。


 身体を起こそうと身を捩った瞬間、ゴンッと言う鈍い音が響いた。

 一瞬また自分が叩かれたのかと瞬いたが違う。

 目の前の子供たちは明らかに狼狽えていて、頭を押さえ蹲る子供を気にかけながらも、助けを求めるか逃げるかでお互いを探り合っているようだった。


 ……それはどうやら自分の前に立ちはだかる人物のせいらしい。

 ひらひらと靡くスカートの裾を見て女性だと言う事は分かる。

「ダリル! 何をやってるのよ!」


 凛と澄んだ声に、その人がまだ年若い令嬢だという事に気がついた。

「……お姉ちゃん」

 ぐすっと涙声で女性を見上げるのは、自分を率先していじめていたダリルだ。

「まったく! 従弟がこんな事をしているなんて、恥ずかしいにも程があるわ!」


 姉弟かと思ったが従姉弟らしい。

 そんな事をぼんやりと考えながら、フィリップは無言で起き上がり、土を叩いた。

「従弟がごめんなさい! 大丈夫?」


 振り向きざま直ぐに自分の身体を労るように看て、彼女は申し訳なさそうな顔をした。そうして手を握り、フィリップに手当に行こうと促す。

 無言で頷く自分ににっこりと笑いかけ、彼女はフィリップと歩き出した。ダリルの悔しそうな顔が目に入る。


「本当にごめんなさいね、あの子にはよく言っておくから」

「……」

 表情もなく無言で頷く自分にも、彼女は奇異の目を向けない。ただただ申し訳なさそうに微笑むだけだ。

 柔らかくて華奢な手が温かくて、突然にダリルが羨ましいと思った。

 今の今までどうでもいいと思っていた相手なのに、自分にも姉が欲しくなった。


 初めて抱いたそんな願望に縋るように、フィリップは眩しい思いで彼女を見上げた。

 それからフィリップは、ミランダと名乗った彼女をずっとずっと追いかけていた。

 

 ◇


「姉弟じゃなくて良かった……」

「……ん、なあに?」


 父を巻き込んで強引に婚約した後も、ミランダは優しかった。基本お人好しらしく、押しに弱い。

 そこに申し訳なく思いながらも、嫌がる素振りを見せないミランダに心底ほっとしていた。


 侯爵家という肩書きがあるにも関わらず、無表情で気持ち悪いと同い年の子供から敬遠されていた自分だ。嫌われはしないかと、破婚されたらどうしようかと、度々彼女の好みを聞いたりして、必死に実行してきていた。

 強くないと彼女を守れないと思ったから、騎士団にも志願した。団体行動が死ぬほど苦痛だけれど……


 入団後はそこにいたダリルに物凄く嫌そうな顔をされた。

 表情には出なかったが自分も嫌だった。

 ダリルはミランダが初恋だったのだ。そして、彼の家は子爵家だ──


 ◇


 セシリアが来てから二週間後、本当に魔物の暴走が起こった。

 結婚式の二週間前……ミランダはセシリアの言う通り魔物たちの暴走が元で建物の下敷きになり、左足に酷い怪我を負ってしまった。

 その報告に動揺したフィリップは指揮官の指示を聞き逃し、暴走する魔物の群れに飲まれ、意識不明の重体となった。


 一人息子の状態に侯爵は取り乱し、同じく伯爵もまた、娘の被害に大いに嘆いた。


 未来を変える為、ミランダはいっそ防衛の最前線にいるフィリップと行動を共にするとか。避難場所を変えるなどを提案し、実行しようと試みた。

 しかし案だけで実行出来ないものもあったし、実行したものの、二人の未来は変わらなかった。


 ◇


「ダリルと結婚?」

 セシリアの言う通り、親戚筋の子爵家であるダリルとミランダの結婚話が持ち上がった。

 咎めるようなミランダの声音に、父の肩が小さく萎むように見えた。


「君の怪我の話は広まってしまって……親戚以外いないんだよ……流石に未婚を通すのは外聞が……ラウルの縁談にも支障があるから。それに気心の知れたダリルなら君もいくらか気が楽だろう?」

 そう言って下がる視線の先にはミランダの足がある。

 崩れ落ちる建物の下敷きになり、逃げ遅れた際に負った傷……傷は生涯残り、季節により痛みや痺れがあるだろうと言われている。


 兄──ラウルの縁談、家の醜聞。それに父は口にしないが、恐らく侯爵家からの圧力があったのだと思う。

 貴族として優先すべきは何なのか、分からないミランダではない。本心はフィリップが起きるまで待っていたい。


 けれど彼は二年後に目覚めると言ったところで、誰も信じはしないだろう。

 自分たちは、失う事が怖かったからセシリアの話を信じられた。


 けれど目の前にいる父はきっと、娘が醜聞に塗れる事を恐れ、懸念していて、家名を守る大義の方が大きい。

 だからミランダの願望が混じったような話が通じるとは思えない。


 フィリップを溺愛している侯爵には言うべきか悩んだが、それはフィリップに止められた。理由は分からなかったが、彼には彼なりの目的があるように見えた。


「ガルシア侯爵家はもう駄目だよ。侯爵が失意のどん底で、代理と称して親戚が好き勝手にやっている。こうして侯爵の印章を勝手に使い、君とフィリップ君の破婚を威圧的に言い渡す程にね」


 そう言って紙切れをひらひらとさせながら、力無く笑う父も疲れているように見えた。きっと印章に逆らう気力も無いのだろう。


 セシリアの話では、侯爵がミランダの傷を嫌ったとの事だったが、実際はフィリップの父ではなく、代理の意見だったのかもしれない。

 具体的には侯爵の妹の夫──レドル。今彼が侯爵代理としてその座に居座っている。

 フィリップと同席した舞踏会で顔を合わせた事があるけれど、他人を値踏みし見下すような輩で、面倒そうな人だった。


 貴族ではあるが今の爵位は準男爵らしいから、侯爵家が自分のものになるのなら、彼なら形振り構わないのではなかろうか……


 ミランダは両手をぎゅっと握った。

(……フィリップ様はちゃんと目覚める)

 だから大丈夫。

 そう思っても我儘を通せば父や兄、きっと母にも迷惑を掛ける事は分かっていた。だから……

 ミランダは小さい笑みを漏らした。


 セシリアから未来を聞いていなかった自分がどんな気持ちでこの話を受け入れたのか、嫌でも分かってしまう。

 

 きっと自分はフィリップに会いたがった。

 侯爵家に行って、彼の身柄を受け入れたいと懇願もした。

 けれど何も叶わず時間が過ぎる中、見通しの立たない未来と周囲の圧力に耐えられず、負けてしまったのだ。


 ──『だから、僕を、待ってて』


 それはいつも表情を表さないフィリップが見せた、優しい笑みだった。

 驚きに目を見張るのはミランダだけでなく、セシリアやイーサンもまた、限界まで目を見開いていた。


 けれど今はフィリップのその言葉があるから、待っていられる。

 彼が来るまで──だから、


「行きます。ダリルとの結婚式に」


 ミランダは父に向かい、頷いた。


 ◇


「綺麗です、お姉さま……」

 子爵領の神殿。フィリップとの婚儀に用意してあったドレスに身を包み、ミランダはダリルの視線に苦笑した。

「ありがとう、ダリルも素敵だわ」


 フィリップと同じく騎士団に入り、彼もまた背が伸び逞しくなっていた。礼服でもある騎士服がよく似合う。

「お姉さまとこうしていられるなんて、夢のようです」

 うっとりと口にするダリルに思わず目を丸くしてしまう。

「──もう、口が上手くなったんだから」

 なかなか離してくれない手を困った思いで見つめていると、控室のドアが控えめに叩かれた。


「そろそろお時間です」

「……分かりました」


 ミランダは小さく息を吐いて立ち上がった。

 ツキリと痛む足に僅かに顔を顰める。このドレスの下には貴族令嬢としては致命的な傷がある……

 過去をやり直しても、変えられるものと変えられないものがある。ミランダの傷は後者だった。

 だからこの婚姻が成り立ったのだろうけれど。


「……ダリルありがとう。この話を受けてくれて」

 ミランダの傷が醜聞として広まったのは侯爵代理が吹聴したものと思われる。

 こうなるともう、ミランダがモリス家の汚点として貴族界に認識される前に、父としては片を付けざるを得ない。

 そしてレドルは本気で侯爵家を自分のものにするつもりのようだ。


 その為に侯爵やフィリップに近しい縁を切り、やがて自分の息子に爵位を継がせられるよう、地盤を固めていこうとしている。

 もしダリルがこの話を受けなかったら、自分の未来はどう決められていたのか……

 

 レドルは勝手をしているように見えるが、他家のお家騒動に口出しをしてくる貴族はいない。更にガルシア侯爵の名を出されてしまえば、代理と分かっていても下級貴族では有無を言えない。


 それに結果レドルが優秀な領主である事を示せれば、彼らもその名に阿るようになるのだから。

 ダリルの父は先を見据え、その話に乗ったのだろう。

 家の方針であれば仕方がないが、ダリル個人には迷惑を掛けている自覚がある。


「他ならぬお姉さまの為ですから」

 そう言って照れた顔で笑うダリルに、改めて申し訳ない思いが込み上げた。


 けれど、最後には笑っていたい。

 結婚式というイメージで漠然と描いていた、幸せな花嫁のように。多くの人の祝福を受け、幸せを噛み締めたい。


 だけど今日この式にはレドルたちも参加している。フィリップとの婚約を回避せざるを得ないように、ミランダとダリルの婚儀に圧力を掛ける為だ。

 ……彼らを見つけ、それでも自分は笑っていられるだろうか。

 ミランダはそっと瞳を伏せた。


「それではお姉さま、名残惜しいですが。後で……」

 指先に唇を落とすダリルは本当に離れ難いような顔をする。

「ええ、後でね」

 後ろ髪を引かれるように退室するダリルを見送り、ミランダは父の手を取った。



 礼拝堂は奏者が奏でるオルガンの音と、招待客の騒めきで溢れていた。

 ミランダは高い天井に描かれた神々の風刺画を祈るように見上げ、堂内に意識を戻した。


 そこに垣間見える動揺に聞き耳を立てる。

 新郎がフィリップからダリルに変わった事へ興味関心だろう。けれどそれもガルシア侯爵代理の出席で、誰もはっきりとは口にできない。


 そんな不協和音を聴きながら、ミランダは父と共にダリルの待つ場所まで一歩一歩進んで行った。


(フィリップ、私、結婚してしまうわ)


 悲痛な顔で御神体を見上げる。


(お願い、目を覚まして……!)


 父の手を離れ、ダリルの手を取ろうとした瞬間。礼拝堂の出入り口に立つ人物がいた。


 ◇


「──どうして二年後だったのかしら……?」


 ふと呟いたミランダにフィリップが同意したようにセシリアを見た。

「それもそうだ。むしろミランダとの挙式当日に目が覚めたと言われた方が、納得がいく」

「えっと、それは……」

 

 それを受け、セシリアは口籠った。

 視線を彷徨わせるも、有無を言わさないフィリップの眼差しに射抜かれ、渋々と口を開く。

「フィリップ様のお父様……ガルシア侯爵が亡くなった為、です」

 その言葉にフィリップははっと息を吞んだ。


 ガルシア侯爵はフィリップが眠り続ける姿に失意を覚え、段々と痩せ衰えていったのだそうだ。

 そしてそのまま二年後、帰らぬ人となった。


 それを受けミランダが葬儀に参加した事。それがフィリップが目覚めるきっかけとなった。


 その場でもミランダはフィリップに会う事は叶わなかった。

 けれど彼の眠る部屋の、開け放たれた窓から、その声が届いたのだ、と──


「……そう、フィリップ様は仰っておりました」

 躊躇いがちに口にしたセシリアにフィリップは口元を抑えた。

「やっぱり僕を起こしたのは、……ミランダ」

「なら、私がフィリップ様に無理矢理にでも会えば……っ」

「ですが……」

 

 異を唱えるのはイーサンだ。

「代理とは言え侯爵家を出し抜くなど……それに、フィリップ様が目を覚ましたのは、単純に二年後に治ったからかもしれません……」

「それは……」

 言いにくそうに口にする彼に、ミランダは視線を彷徨わせる。

「無茶をして侯爵家の不興を買ってしまえば、モリス伯爵家には私の傷より酷い醜聞が待っていそうね」


「大丈夫だ」

 落ち込むミランダの肩に手を置き、フィリップはそっと力付けた。

「そんな未来は僕が覆す。君と結婚するのは僕だ」

 そのままくるりと首を巡らせ、セシリアと目を合わせる。

「大事な事を教えてくれてありがとう。君のおかげで最愛を守れそうだ」

「……っ」

 それを見てセシリアは泣きそうな顔になってしまい、ミランダは慌てた。

「フィリップ……それはちょっと……」

 彼女は彼の為に回帰したと言うのに。

「いいわ!」

 けれど叫ぶセシリアに驚き見れば、彼女は泣き顔を強張らせたままドンと胸を叩いた。

「私に任せなさい!」


 ◇


 自分は回帰してきたのだとセシリアに言われ、当然鵜呑みには出来なかったが、一笑に付す事が出来なかったのもまた事実だった。


 それはある伝承……昔話に基づく。

 隣国フォート王国の神樹の葉は過去への回帰を導き。

 ここ、アドル国の聖樹の枝は未来を視せる。


 二国の民は皆、子供の頃そんなお伽噺を聞き育ってきたからだ。

 更にセシリアは公女、隣国の王家の血を継いでいる。そして、


『ほら! これを見て! 青と緑でしょ!?』

『……そうですね』


 セシリアが両手で掲げる瓶の中には、青と緑が半々の不思議な葉が一枚、水に浸ってた。聖水だと本人は言っていたが。

 この葉が全て青に染まれば、回帰したセシリアの意識は現実に引き戻され、元の時間の彼女へと戻るのだそうだ。


 確かに眉唾だと言い切るには見た事も無いような色彩で。今この時もじわじわと緑から青へと色を変えていくのが見てとれた。


「これ、思っていたより変色が早いの……私がここにいられるの、あと一ヵ月くらいしかないと思う……」

「セシリア様……」


 じっと瓶の中の葉を見た後、セシリアは明るく笑ってみせた。

「いいの! 本当は時間を掛けてフィリップ様と仲良くなるつもりで来たんだけど、思ったより短そうだし……それに……フィリップ様のあんな顔を見せられたら……」

 ふっと寂しげに揺れる八歳児の瞳に胸が詰まる。


「──だから、フィリップ様はあなたに譲るわ! でも折角ここに来たのに何もせず帰るなんて……! フィリップ様は私のは、初恋だから……助けたい……」

 ミランダは咄嗟にセシリアの身体を抱きしめた。


「セシリア様……あなたには感謝しかありません」

「……何よ、まだ何もしてないじゃない」

「いいえ、私たちを助けて下さった。大事な情報を下さった」

「じ、自分の為だもん」

「それでも、……ありがとうございます」


 うるっと目に涙を溢れさせ、セシリアはミランダをぎゅっと抱き返した。

「私がこれから行う事。上手くいくように、祈っていてよね」

「いえ、セシリア様一人にお任せする訳にはいきません。私も──」


「セシリア嬢、詳しく話を聞かせてほしい。ミランダ、君は関わらないようにしておいて」

「フィリップどうして? 私も手伝うわ」

 セシリアからミランダを引き離しつつ、フィリップは駄目だと首を横に振った。


「……知ってはいけない事に首を突っ込もうとしている。こんなものはお伽噺の中のままでいいんだ。過去や未来への干渉なんて、よからぬ事を考える者はいつでもいるからね。……でも僕ならガルシア家の名前に守られてギリギリ許されるかもしれない。だけどこれ以上は万が一を考えて、君は関わらないで欲しい」

「でも……」


「待ってて欲しいんだ……今度は絶対に会いに行くから……」

 ミランダは、はっと顔を上げた。

 ……セシリアが語った過去を、自分たちはまだ経験してはいないけれど。

 でもこれがもし、自分と彼のやり直しなら……

「分かりました……今度こそ、一緒になりましょう」


 フィリップの手を取り、ミランダはこっくりと頷いた。


 ◇


「ミランダ! 連れてきたわよ!」

「セシリアっ」


 突然の訪問者に礼拝堂がどよめいた。

 連れてきた、というよりは引きずられてきているようだが……ぜえぜえと息をするイーサンの背中にいるのはフィリップだ。


「……っ、フィリップ様」


 ミランダは急いで踵を返し、フィリップの元へと駆け出した。

 怪我をして療養していると聞いてる間、レドルたちの采配で一目も合わせて貰えなかった。

 意識のないフィリップは目を閉じたまま、青い顔で、けれど小さく息をしていた。

 その姿に胸が詰まり、喉の奥が絞られるような感覚を覚える。


 ミランダはイーサンの背から降ろされたフィリップの両手を取り、声を掛けた。

「フィリップ様」

 ざわざわと場内に広がる困惑を背中に感じながら。ミランダはフィリップに顔を寄せ、再び名を呼んだ。

「フィリップ様……起きてください」


「おい! 何だ、どうしてここにフィリップがいるんだ!? 屋敷で療養させていた筈だ! まさか攫って来たのか!? この私の屋敷に勝手に忍び込んで! 衛兵! こいつらをつまみ出せ!」

 レドルの叫び声と物々しい雰囲気が背後に迫る中、ミランダはフィリップの頬に両手を添えた。


「起きて下さいフィリップ様。私と結婚して下さるのでしょう? 今起きて下さらないと、私は別の誰かに嫁ぐ事になってしまいますよ? ……六年も慕ってくれていたのでしょう?」


 衛兵の手がミランダの肩に触れたと同時に、フィリップのまつ毛が揺れた。

「うわ!」

「何をする!」

 振り向けばミランダに触れた手を剣の鞘で叩き落としたダリルがすぐそこで衛兵と対峙していた。

「汚い手でお姉さまに触るな! ……おいフィリップ、起きないのか? このまま俺がお姉さまとの式を継続させてもいいのか?」


 どこか揶揄いを含んだ声音で叫ぶダリルの声に、フィリップが重そうに瞼を押し上げた。

「ミ、ランダ……」

 薄く覗く青い瞳が光を受け、サファイアのように煌めいた。


「フィリップ! 目が覚めたのね!」

 歓喜のあまり飛びつけば、目覚めたばかりのフィリップは受け止められず。ミランダが床に押し倒す形になってしまった。

「あ。ご、ごめんなさい……」

「いいよ……嬉しい。間に合ったみたいで良かった……」

 ぎゅっとしがみつくフィリップに堪らなくなってミランダも抱擁を返す。


 声を掛けても、やはり起きなかったらどうしようと思っていた。……怖かったのだ。

 震えるミランダの肩を叩き、フィリップはもう大丈夫と呟いた。


「フィリップ、起きたのか……し、しかしいくらお前でも勝手をされては困る。今はガルシア侯爵家にとっても大事な婚姻の最中で……」

 フィリップはミランダを片手で抱えながら目を泳がせるレドルを睨みつけた。

「僕の婚約者が他の男と結婚をするのが侯爵家の大事? 僕の許可も父の許可も得られないまま何を勝手な」

「そ、それは。仕方がないだろう。大体お前たちが使い物にならなかったからで。私だって侯爵家の事を考えてだな……!」

 唾を飛ばし怒鳴るレドルは強硬な姿勢を貫くようだ。この場で一番身分が高いのは自分。彼の価値観で決めつけられた序列は、彼の意志の後押しをしている。


「それはどうだろう」

 けれど勢いを取り戻しかけたレドルに、別の声が掛かった。

 はっと顔を上げれば、そこにはここアドル国の王太子、ミルフォードの姿があった。


 隣には身体を強張らせたセシリアが立っている。

 何故この人がと呆然と見上げるミランダに、ふっと笑みを浮かべ、ミルフォードは独り言のように口にした。

「──未来を、視てきた」


 あっと、あがりそうになった声を慌てて飲み込む。 アドル国の聖樹、未来を視る枝……

 ミランダに支えられるように座るフィリップは落ち着き払っている。恐らくセシリアの行動を知っていたのだろう。


「侯爵代理?」

「は、はい?!」


 突然現れた王太子にレドルは居住まいを正した。

 しかし今までこの場で一番爵位が高い立場だったレドルは、それが覆され忌々しいという感情を隠しきれていない。

 それすら見透かしたようにミルフォードは笑うようにふっと息を吐いた。


「残念ながら君には逮捕状が出ているよ。現侯爵の薬への毒物の混入、それにその嫡男への医療行為の放棄」

「なっ?」

 驚くレドルに変わらぬ様子で笑みを深め、ミルフォードは続ける。

「こちらの令嬢はフォート国の公女であり、どうやらフィリップに恩があるそうでね。……彼の負傷を聞き、良薬の手配の為に病状を確認しようとしたそうなんだが。侯爵家に出入りする医者へ辿り着けないと不審に思われたそうで、我が王室に相談に来られたんだ」


 淡々と話すミルフォードはまるで事実しか語っていないように堂々としているが、セシリアとフィリップの関係は嘘八百だ。王族って凄い。


「そ、そんな……そんな話、聞いた事がない……」

 でしょうね!


 そんなミランダの内心は他所に、青褪めるレドルにミルフォードは小首を傾げて笑ってみせる。

「あれ? ここで最初に否定するのが二人の関係性ってどうなのかな? 君の罪は認めるととってもいいのかい?」


 レドルは益々青褪めた。

「そ、それは勿論! 事実無根でありますが!」

「まあ、取り調べに応じてくれればこちらは構わないさ。なんせガルシア侯爵家という名家を失えばアドル国にも影響が大きいからね。……だから確認させて貰ったんだけど──」


 君じゃ、その素質はなかったよ。


 誰にも聞こえないような小さな声を、しかしミランダはその耳に拾ってしまった。

 離れた場所にいるレドルも、不思議とその言葉は届いたかのようで、目を大きく見開いた。


 ミルフォードの冷たく無機質な声に身体が強張る。そんなミランダを慰めるようにフィリップが背中を撫でてくれた。


 セシリアの顔が引き攣って見えるのも、ミルフォードに突きつけられた条件が破格だったのかもしれない……

 確か彼はまだ十五歳ではあるものの、とても頭が良く、為政者としての頭角を現していると評判だ。……同時に冷淡だとか、誰に対しても平等に厳しいという噂のある人物でもある。

 

 そんな相手に立ち向かってくれたセシリアにはもう感謝しかないけれど。

 彼女は自分の為だと言っていたが、レドルのしていた事を考えれば、もうそれだけには止まらない。間違いなく彼女はアドル国の恩人だ。

 とは言え彼女の様子は気になるところで。


「せ、セシリア様。大丈夫ですか?」

 そっと問いかければ、セシリアは力無く首を振って笑ってみせた。

「大丈夫よ、少し面倒くさい人だったけれど」

 そう言ってチラッとミルフォードの横顔を見遣る。


 ……我が国の王太子がごめんなさい。

「これでも私、精神年齢は十四歳の公女なんだから」

 そう明るく言ってみせるセシリアは頼もしい事この上ない。今更ながら、彼女はとても素晴らしい公女様だ。


「面倒くさいって何さ」

 ミルフォードは不服そうだが、ここはセシリアの意見を尊重したい。

 とはいえ王族や、それに連なる者の意識の高さには改めて感心してしまうものだ。自分が十四歳の時とは正直比べものにならない。

 

「お、おい! やめろ!」

 そんな事を思っているうちにミルフォードは手を振り、彼の騎士たちがレドルを取り囲んだ。そのまま動揺と共に喚き出すレドルを連行していく。


 ……フィリップはもしかして、レドルの本質を見透かしていて、最初からこの場で断罪するつもりでいたかもしれない。彼が関わるなとミランダに言いおいたのも、冷淡と評判のあるミルフォードとの関わりを懸念したせいだったのだろうか。


 動揺に揺れる礼拝堂内のどよめきを払うように、ミルフォードが花咲くような笑顔を見せた。


「そう言えば今日は結婚式だったんだって? 式を中断してしまったようで申し訳なかったね」

「え……め、滅相もない……」

 誰へともない問いかけに、そこにいる一同はぶんぶんと首を振った。それに満足そうに頷いて、ミルフォードはダリルに目を向けた。


「で、君が新郎かい?」

 その言葉にダリルは困ったように眉を下げた。

「いいえ」

 いつの間にその腕には、目を潤ませた別の令嬢を抱えている。


「我が家が侯爵家の圧力に耐えられず受けた婚姻でしたが、実は私には、他に将来を誓った女性がおりまして……」

「おやおや、それは気の毒に」

「……」

 ダリルとミルフォードのやりとりが妙に白々しく感じるのは気のせいだろうか……


 しかしそれを受け、益々混沌とする礼拝堂内を見ては、ミルフォードは楽しそうに笑みを深める。

 ダリルも臆する事なく先を続けた。

「それに私は元々そこの悪縁あるフィリップに脅されていたのです。ミランダとは自分が結婚するから、そのつもりで挙式を行うように、と」


 ◇


「ダリル、頼みがある」

 騎士団の休憩所で足を伸ばすダリルに声を掛ければ、彼は嫌そうに顔を顰めた。

「……お前が俺に? 気持ち悪い、ふざけんな」

 そのまま視界に入れるのも嫌だと言わんばかりに思い切りそっぽを向いてしまう。

 フィリップは彼の横顔に重々しく口を開いた。


「今も、ミランダが好きか?」

「大好きだ。そして俺のお姉ちゃんを取ったお前が大嫌いだ」

「結婚……したいか?」

「はあ?」


 そこで初めてダリルがフィリップに視線を向けた。

 再び忌々しそうに顔を背ける。

「子供の頃はしたかったよ」


 彼が恋人について他の団員と話しているのを聞いた事があった。だけどそれだけでは彼の恋人への想いを推し量る事は出来なかったから……

 その反応を見て、フィリップはほっと息を吐いた。


「大体、今はお前の婚約者だろうが。破婚なんてしてみろ、お姉ちゃんを泣かせたらお前に決闘を申し込むからな」

「そうか」

「そうだ」


 そう言って鼻を鳴らすダリルにフィリップは小さく溜息を吐いて、踵を返した。

「あ? 何だよ。そんだけか、おい?」

 呼びかけに一切振り返らないフィリップに舌打ちをしながら、ダリルはその背を見送った。


 それから二週間後、フィリップは魔物の暴走で意識を失った。

 ダリルは後味の悪い思いを噛み締めている間に、当のフィリップから自分宛に手紙が届き、不気味な思いでそれを開いたのだ。


 ◇


「成る程、つまりフィリップが新郎で間違いないと?」

 そう笑うミルフォードにダリルも笑顔で応じた。

「間違いありません」

「そうか、良かった良かった。彼を連れてきて間違いは無かったようだな。結婚式の邪魔をするなんてと、思ってはいたのだが……よい話も沢山できた事だしね」


 ふふ、と笑うミルフォードに顔を顰めるフィリップと、引き攣った顔のセシリアが目に入ったものの。

 彼らの描いた絵を実行するのは思っていた以上に大変だったようだと、ミランダはそっと視線を外した。



「ミランダ、行こう」

「フィリップ?」


 無理に立ちあがろうとするフィリップをミランダは慌てて支える。


「僕たちの結婚式だ」

「でも、あなた二週間も寝ていたのよ? 歩けるの?」

 見るからにふらふらと頼りないフィリップに、流石に日を改めた方がいいと口に出しそうになる。けれど、

「未来を変える為、ここまで来たんだ」

 真っ直ぐに見つめられてミランダは息を吞んだ。

「今日じゃなきゃ、意味がない」

「フィリップ……」


 言い切るフィリップにミランダの躊躇いは霧散した。

 自分もまた同じように思ったから。

 しかし急こうとする二人をダリルが止めに入った。

 忌々しそうに睨むフィリップにダリルは肩を竦める。


「パジャマ姿の新郎なんて、いくらなんでも格好悪すぎだろう。俺の大事な従姉の式をぶち壊す気か? ……お前の騎士服、新郎の控室に持ってきてあるから、急いでそれに着替えてこい」

 目を見開くフィリップの身体を、改めてイーサンが支えた。


 ◇


「……フィリップ、ごめんなさい。こんな傷を負ってしまって」

 控室まで彼を見送った際、ミランダはフィリップに傷を晒した。

 彼は気にしないと言ってくれると思ったが、それでも婚姻後には後には引けない。

 

 恥じ入るように顔を伏せるミランダに、フィリップは愛しそうに、切なそうに彼女の傷を撫でた。

 そうして彼こそ痛そうに顔を歪める。


「痛くて、辛かっただろう。君が怪我をした時に近くにいられなくてごめん。……君の為に強くなろうと思ったのに。でも、その傷で君が負い目を感じる必要は何一つないんだ……結局僕は、怪我だけで良かったとか、変わらず愛しいとか、そんな感情しか浮かばないから。それよりも……ミランダが生きていてくれて嬉しい」

 眉を下げるフィリップの頬を、ミランダはそっと包んだ。

「私もよ、あなたが生きていてくれて嬉しい」

「待っててミランダ、今度こそ君の元に行くから」

「ええ待ってるわフィリップ」


 本来なら新郎が花嫁を待つバージンロード。

 けれどこの式ではミランダが。先程祈りを込めて見上げた風刺画に、今度は感謝の祈りを捧げ待った。



 突然変わった新郎へ対する司祭や参列者の物言いたげな視線は、礼拝堂の端で威圧感を放つ王太子に黙殺された。


「やっと君と結婚できた」

 今にも泣きそうに笑うフィリップにミランダも泣き笑いを返した。

「フィリップ……大好きよ。六年も待ってくれてありがとう」

「うん僕も。ずっと大好きで、愛してる」


 そうして幸せそうに笑い合う二人の影が重なって、祝福の鐘の音が鳴り響いた。

 

 ずっと思い描いていた幸せな花嫁の姿。

 それが今自分と重なるのを、ミランダは確かに感じた。


 ◇

 

「……良かったの?」


 スカートを握りしめる隣の少女を一瞥すれば、彼女からは冷ややかな眼差しが返ってきた。


「当然よ、好きな人が幸せになったんだから」


 涙を堪えるその顔に、ミルフォードはふうんと口にして、背中を預けていた壁から身を離した。


「君のやった事には何の利もない……僕には分からない感情だな。ま、国宝を使った代金は後日請求しにいくから、しっかりお父上や国王陛下を説得しておいてくれよ?」

「──何よケチ! 無感動! 臣下の幸せを願う器の広さぐらい持ったらどうなの!?」

 

 ひらひらと手を振るミルフォードに悪態を吐いた途端、セシリアの意識はぐらりと傾いた。

「あら……?」


 慌てて持参していた瓶に目を向ければ、思っていたより早く葉が青く染まってしまっていた。

 真っ青な顔でそれを視界にいれる間に、セシリアの意識は六年後──回帰前に戻った。




「──た、大変!」


 十四歳のセシリアは辺りを見回して焦り出す。

 ここはフォート国の自室。

 回帰に使った神樹の葉はすっかり青く染まり、時間を元に戻していた。


 父や伯父に内緒で聖域に忍び込み、葉を引っこ抜いてきた神樹の葉。……本当は、初恋成就を願った回帰だったのに……


 彼の過去があんな風に変わったのなら、この国で騎士として働いていたフィリップは、もういない筈だ。

 セシリアの初恋は失恋どころか跡形も無くなってしまった。

 思わず初めて彼を見染めた薔薇園に目を向ける。


(彼は何とも思っていなくとも……)


 セシリアの記憶にある彼は優しかった。

 誰にも平等で、下の者でも決して蔑ろにしない。

 厳しい面もあるけれど、相手を思いやっての事だとは、見ていれば分かった。

 だから恋をしたのだ。


 公爵家の三女のセシリアは、泣けば金に物を言わせて甘やかされるを繰り返し、誰かに慮って貰った覚えが無い子供だった。

 だから喚き声はどんどん大きくなる。

 その度に増えていく無機質な物。


 虚しさを埋める為に欲しがる思いが止まらなくて……そんなセシリアの心に響いた初めての人。

 この人の心の中心に自分が置かれたら……そうしたら自分の価値を見出せるような、自分に自信を持てるような……そんな気がして、彼の心を欲した。

 誰かを欲しいと、初めて思った。

 

 けれどあなたと結婚したいと言っても寂しげに、けれど丁寧に断られ。彼を思い、セシリアの心も痛みに満ちた。

 そんなに悲しい過去ならば。自分が塗り替えてあげたいと思い立ち、王家の秘宝に手を出すくらいに……


(……でも、あんな笑顔を見せられたらね)


 過去の女性に負ける気なんて無かったけれど、結果彼にとって彼女がどれ程大事な存在か見せつけられただけだった。


「あーあ」


 笑い飛ばせそうな気がしたけれど、残念ながら心は付き合ってくれなかった。

 詰まる胸にきゅっと唇を噛み締めて。

 零れそうな涙を振り払おうと頭を振れば、視界の端にいる誰かが目に留まり、セシリアはビクリと固まった。


 ……回帰前、誰もいない事を確認して、更に人払いをしてから決行したのだ。

 一体誰がと口を開こうとしたセシリアを遮るように、平坦な声が耳に届いた。


「やあ、お帰り」

「──っ、あなた……? あ! ミルフォード殿下!」

 十五歳だった面影を残しつつ、前に座す美丈夫は間違いなく回帰前に一度だけ会った隣国の王太子だ。

 どうしてここにと継ぐ言葉を遮るようにミルフォードは掌をセシリアに向け、多分黙るようにと促した。


 セシリアはその仕草に従順に、喉まで迫り上がった言葉を飲み込んでしまう。

「六年振り、かな?」

「……えっと、……そうね?」

 そう答えればミルフォードは嬉しそうに笑みを作った。


 国同士の国交はあれど、回帰前、セシリアはミルフォードと個人的に関わりを持っていなかった。

 今でさえ、過去の一幕に袖振り合っただけの、縁とゆかりが多少ある間柄……くらいの認識しか持っていない。

 ただセシリアが回帰後と知っていて、彼の認識は自分よりもう少し近しそうではあるが……

「何かご用?」

 

 人の部屋ですっかり寛いでいたらしいミルフォードは、紅茶のカップをソーサーに戻し、にっこりと笑う。

 ……不気味だ。

 更に長い足を優雅に組み替える様は、なんとも嫌みたらしい。


 ほんのひと時ではあるが、ミルフォードとの対話はあまり思い出したくない。

 柔軟な思考で頭が回るところは助かったが、残念ながら慈愛に満ちた精神も精神論も持ち合わせてはいないようだった。


 正直あんな大事な用でもなければ彼との関わりは拒否していただろう。

 そう考えれば、回帰前の自分は運良く災いを回避した、幸せな境遇だった訳だけれど。

 そんな考えと共に胡乱な眼差しを向けるセシリアを気にした風もなく、ミルフォードは懐に手を入れた。


「うん、これを届けに」

 そう言って一通の封書をテーブルに置く。意識を現実に引き戻され、セシリアは眉を顰めた。

「何よ」


 内心恐々と手を伸ばすも、何か彼に弱みを見せるのは悔しくて、出来る限り平常心でそれを手に取った。

 途端、かこんと音を立てて顎を落とした。


 自分の顎は良く落ちるものだ、──なんて思いが頭を掠めながら……


「な、な、な、何よこれ────!!」

「何って請求書、六年分の利子付き」


 しれっと答えるミルフォードをわなわなと睨みつけ、セシリアはダンッとテーブルに書類を叩きつけた。

「何っで、こんな事に!?」

「何で、って君……フィリップとミランダの式の後、急に何の記憶も持たない八歳児に戻ってしまったんだから。いくら私でも子供相手にえげつない取り立てはできないよ」

「ろ、ろくろくろくねん……ぶん!」

 ミルフォードの答えを半分耳に留め、セシリアは再び請求書に目を落とした。


 ゼロが四つ五つ六つ……

 そこには絶対にセシリアのお小遣いじゃ届かない額が突きつけられていて……


「──って、払える訳無いじゃない!!」

「へえ、払えないと……?」


 にたりと笑うミルフォードにびくりと身体が竦む。

「払えない場合の誓約もちゃんと書いてあるよ」

「はっ? ……ちょっと向こう三年、下働き……!? 下働きって、何よこれ!!」

「君にできる事を代わりに考えてあげたんだよ。頭を働かせる仕事は向かないだろう?」

「なんですってえ?!」

「ああ、『うるさい姫君』だ」

「ムキー!!」



(……それでも)

 目の前で猿よろしく騒ぎたてるセシリアに一瞥してミルフォードは口元を緩める。

 

 六年前、丁度十五歳という年齢だった自分は、婚約者を選ばなければならない年頃だった。

 相手は誰も彼も同じような居住まいに様相、表情。


 サイコロにでも相談した方がよっぽど時間を有効に使えると欠伸を噛み殺していた頃。

 破天荒というか奇行というべきか……そんなこの公女の特攻がミルフォードの心を射抜いてしまったのだ。


『当然よ、好きな人が幸せになったんだから』


 自分の一番大事なものを守る為に、大事な人を諦めた人。

 馬鹿じゃないかと思う気持ちだけでは済まなくて、結局彼女はミルフォードの心を捉えて離さなかった。

 もうこれ以上は誰に会っても同じだと、見合いの席を全て断る程に。

 自分なら、好きな相手は幸せにしたいと思うから。


「……やっと会えた」

「遅いのよ! せめてあと三年早ければゼロの数があと……!」

「……」


 しかしどうやら彼女は六年振りの再会にも何の感動も持ち合わせていないらしい。ミルフォードは目の前の少女に冷たく目を眇めた。

(おかしいね、私の容姿はなかなか優れた部類に入るというのに……)


 取り敢えず。


 散々待たせた自分の恋心を遠慮なく踏み躙っているこの娘を、当面どう甚振ってやろうかと。

 ミルフォードは窓の外に広がる見事な薔薇園に目を向けながら、楽しく模索したのだった。


今年もよろしくお願いします

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― 新着の感想 ―
[一言] セシリアちゃんがヒロインの スピンオフをお願い致します!
[一言] セシリアちゃんと王太子に全部持っていかれた。 面白かったです。 むしろ、セシリアちゃんヒロインとして一貫して読みたいくらいに。
[一言] 読みにくかった
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