通勤ドラゴンと空の旅
「おはよう」
声を掛けると、俺のドラゴン……ドラーンが円らな黒い瞳を開いた。
「おはよう、健司くん」
巨体に見合わぬ、素っ頓狂な声が部屋に響く。
縦長で猫のような瞳孔が、気だるそうに俺を見上げている。
俺は冷蔵庫からキャベツを丸ごと取り出して放ってやった。
「ほら、飯だぞ」
ドラーンは針山のように牙が生えた口を開け広げて受け止めた。
バリボリと、豪快な音を立ててかみ砕いていく。
そんな光景を尻目にシリアルの用意をし、牛乳を掛けて掻き込んだ。
スーツに着替えて、緑の巨体とマンションの屋上に向かう。
そしていつものようにざらついた鱗に掴まる。
ベルトをたすき掛けにして、体を固定する。
手綱を握って軽く引いた。
「よし、行くぞ」
「はーい」
小さな薄い羽が上下する度、大きな風音が立つ。
巨体が舞い上がって行く。
身を乗り出して小さくなっていくマンションを、街並みを眺める。
何度見てもいい景色だ。
今から仕事でなければ、どんなに良かったか。
「……会社行きたくねぇ」
思わず心の声が漏れ出てしまった。
「行きたくないなら、行かなければいいじゃん」
「そういう訳にもいかないんだよ」
「なんで?」
「働かないと、お金がもらえなくてお腹がすいちゃうだろ?」
「奪えばいいじゃん。なんなら僕が奪ってあげるよ」
平然と言い放ちながら、ドラーンは太陽が昇る東の空へ流れるように飛んでいく。
「奪われる人が可哀そうだ。それに、そんな事したら警察のドラゴンに殺されちゃうぞ」
風音に負けじと声を張った。
「僕は殺されないよ。最強だから」
「思い上がりはよせ」
「本当だよ。すごい火も吐けるし、魔法も使えるよ」
「魔法とかあるのか?」
「うん。この世界に来てずっと忘れてたけど、最近思い出したんだ」
「どんなの使えるんだ?」
「色々あるよ。例えば……」
ドラーンの鼻先に、赤い魔法陣が現れて高速で回り出した。
……なんか、ものすごくヤバそうだ。
「――やめろ! やらなくていいから!」
「ええー。派手で面白いのに」
10年前、別世界からやって来たドラゴンたちは、すっかり人々の生活に馴染んでいた。
とはいえ、まだまだその生態は分かっていない事が多い。
魔法が使えるなんて話は聞いた事が無かったが、ドラーンが使えるというのなら使えるのかもしれない。
「魔法は絶対に使うなよ」
「はーい」
俺の言う事は結構素直に聞いてくれるんだがなあ。
「あ、会社見えて来たね。破壊しちゃう?」
「破壊するな!」
「はーい」
やっぱり怖いな、こいつ。
ドラゴンは本来温厚な種族な筈なんだが。
そして、ドラーンがゆっくり羽ばたきながら会社の屋上にある駐竜場に降り立つ。
岩がちな駐竜場には、既に他のドラゴンの姿がいくつか見られた。
「頑張ってきてねー」
「おう」
ベルトと手綱を外して、階段を降りて事務所に向かっていく。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「島津、今日もドラゴンで外回り行ってこい」
朝礼が終わった途端、部長に言われた。
「……はい」
またか……参ったなあ……営業は苦手なんだよなあ。
俺は本来営業職では無いのに、勘弁してほしい。
まあ、嘆いていても仕方ない。
冷蔵庫から自腹で買っておいたキャベツを取り出し、再び屋上に向かう。
ドラーンは俺の姿を認めるなり、大きな足でのそのそ近付いて来る。
「また外回り? 大変だねぇ」
「ドラーンこそ、空飛ぶの疲れないか?」
「全然疲れないよ。キャベツがあればだけどね」
催促するような目線に、キャベツを放ってやる。
ドラーンは顔を上下させながら噛み砕き、呑み込んで行く。
手綱とベルトを掛けて、そっと跨った。
「とりあえず、北山の方まで頼む」
「はーい」
街はすぐに小さくなっていく。
澄み渡る青空に気分も少し晴れる。
……営業は嫌だが、仕事中にドラーンと空の旅ができるのはいいなあ。
「島津君!」
横からの声に、思わず手綱を引いた。
「あ、黒岩さん」
黒岩さんは中華風なドラゴンに跨って、黒いスーツをなびかせている。
「島津君も外回り?」
「はい。北山の方に。黒岩さんは?」
「私は海の方に行こうかな」
「お互い頑張りましょう」
「うん。行くよ、リューちゃん」
黒岩さんはうねるドラゴンに跨りながら、そっと手を振ってくれた。
「あの女と交尾したいの?」
いつもの素っ頓狂な声で、ドラーンが平然と尋ねてくる。
「……お前なあ」
「交尾したいんでしょ?」
そりゃあ……まあ……
「……したいのはしたいけど」
「僕が催眠魔法掛ければ、すぐ交尾できるよ」
「余計な事はするんじゃない!」
「はーい」
催眠魔法とかもあるのか。怖いな。
「あの看板がある駐竜場に降りてくれ」
「りょうかーい」
屋上のコイン駐竜場に颯爽と舞い降りる。
駐竜場にはたくさんのドラゴンが水を飲んだり、岩の上で日光浴したりしている。
「いい子にしてるんだぞ」
「僕はいつでもいい子だよ」
……どうだか。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
大口の取引先を5件くらい周っていると、昼になった。
雑居ビルの屋上の駐竜場にある無人販売所でキャベツを買う。
300円もした……天候不順のせいか高い。
「ほら、キャベツだぞ」
「やったー!」
相変わらず、豪快に食べるなあ。
「いつもありがとね、健司くん」
「どういたしまして。俺も感謝してるよ。ドラーンと飛ぶの楽しいし」
「健司くん」
円らな黒い瞳で、じっと見上げてくる。
「なんだよ」
「大好きだよ」
「……照れるからやめろ」
そういや、ドラーンはメスだった。
顔もどこか色っぽい。
いや、別に俺にそういう趣味はないんだが。
「悪いけど、女の子に変身する魔法とかはないよ」
「……そっか」
ないのかあ。
「ガッカリした?」
「別にしてない」
ゴツゴツした鱗を撫でてやる。
ドラーンはトゲの付いた尻尾を振りながら、俺の胸に顔を寄せて来る。
キャベツの匂いがする。
そして、料金を精算してまた飛び立つ。
北山を越えていく。
山の合間を、川のように高速道路が流れている。
「健司くんと初めて会ったのも、この辺りだったよね」
「そうだなあ」
懐かしい。
あの頃はドラゴンが欲しくて、クーラーボックスにいつもキャベツを満載していたなあ。
「お腹がすいて死にそうだった時、健司くんがキャベツをくれて、嬉しかった」
「どういたしまして」
「健司くんが壊したい物があったら、いつでも言ってね。すぐにチリ一つ残さず破壊してあげるから」
「破壊はしなくていい」
「はーい」
ドラーンと出会えてよかった。
言う事がいちいちおっかないのが玉に瑕だが、ドラーンは俺の大事な相棒だ。
山が途切れて。別の街が広がる。
大口顧客の工場も見えて来る。
工場の傍の駐竜場に舞い降りると。
社長がドラゴンの口にキャベツを投げ込んでいた。
全長10メートルはある、大きな赤いドラゴンだ。
周りにいるドラゴンたちは、低頭してしまっている。
どうやらこいつがボスドラゴンという事らしい。
やがて、キャベツの段ボールを空にした社長は俺の姿に気づいたようだった。
「……えっと。どなたでしたかな?」
「こんにちは。栄竜商事の島津と申します。お世話になっております」
名刺を交換しあう。
「おお、よろしくね。どうだい私のドラゴンは?」
「そりゃあもう……素晴らしくカッコよくて……」
ドラーンがプイと顔をそむけてしまった。
……後で高級キャベツ買ってやろう。
「島津君はドラゴン持ってる?」
「はい。もう8年になります」
「それはちょうどいい。中で話をしよう」
社長と共通の話題があるのは都合がいい。
ここは下手に仕掛けず、ドラゴンの話を聞いてやればいい。
そして気を良くしたタイミングで取って置きの新商品を紹介。
あわよくば契約を手に入れてやろう。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「失礼いたします」
「どうぞどうぞ、座ってくれたまえ」
応接間の窓から、社長と駐竜場のドラゴン達を眺める。
「島津君……ドラゴンはいいね」
「はい。可愛くてカッコいいですし、一緒に空を飛ぶのも楽しいです」
「そういう事を言っているんじゃないんだよ」
「え?」
「素晴らしいビジネスチャンスだとは思わないかね?」
怪訝そうにする俺を諭すように、社長は続けた。
「ドラゴンは、最初にキャベツをあげた人間にしか懐かない。もう野生のドラゴンは殆ど残っていない。だからビジネスにはならない。それが一般的な見解だ。……だが私は抜け穴に気づいた」
「抜け穴?」
「ドラゴンに卵を産ませればいいんだ!」
「ドラゴンは100年に一度しか卵を産まないと聞きますが」
「そこで我が社の強制発情キャベツだ! 開発に成功すれば、理論上は毎月ドラゴンに卵を産ませる事ができる! 素晴らしいビジネスになると思わんかね?」
「はぁ……」
……何か嫌だなあ。この人。
「君のドラゴン、メスだね」
「メスですけど」
「やはりか……! 素晴らしい! 貴重なメスドラゴンに巡り合えるとはまさに天啓だ! 是非実験に協力してくれ!」
何なんだよ、こいつ。
「お断り致します」
「もちろん相応の対価は支払わせて貰うよ。君の会社にも、君自身にもね」
「ドラーンは私の相棒です。そんな風にドラーンを物扱いしたくありません」
社長の口元は微笑んだままだったが、目はじっと俺を突き刺していた。
「……断るなら、栄竜商事との付き合いもこれっきりにさせて貰おう」
……こいつ……しつこい。
「お断り致します」
「……本当に断る気か?」
俺の頭の中で、何かが切れた。
「断るに決まってんだろ!! この銭ゲバクソオヤジが!」
社長がなんか叫んでいるが、どうでもいい。
全てどうでも良くなって、全力で走っていく。
駐竜場で待つドラーンの元へと駆けていく。
ドラーンの傍で、社長の巨大赤ドラゴンが低頭していた。
「ごめん健司くん。こいつが無理やり交尾しようとしてくるから、ちょっと噛んじゃった」
「ドラーン……本当に強いんだな」
「うん。僕は最強だよ」
ドラーンに跨り、ベルトを巻き付ける。
手綱を握り、空を駆ける。
それだけで、自由になれた気がした。
部長から電話がかかって来た。怒鳴り声を聞き流し、通話を切った。
「健司くん。どうしたの?」
「クビだってさ」
「ごめん。もしかして僕のせい?」
「気にするな。どのみち辞めたかったし」
ただひたすらに、俺はドラーンと空を駆けた。
「……全部破壊してあげよっか?」
多分、ドラーンには出来るんだろう。
しかし俺は小さく首を振った。
「破壊しなくていいよ。ドラーンに悪いドラゴンにはなって欲しくないし」
「はーい」
やがて、空の青は、橙を挟んで藍に染まる。見知らぬ街が輝き出す。
「どこいこっか?」
「群馬の方に行こう。おいしいキャベツがいっぱいあるぞ」
「やったー!」
俺とドラーンは「15の夜」の替え歌を口ずさみながら、眩い夜を流れるように駆けて行く。
「健司くん。ずっと一緒だよ」
「うん」
ドラーンのざらついた鱗を、俺はそっと撫でる。
白くぼやけていく街灯を背景に、鱗の奥が確かに脈打っていた。