08
「水織ちゃん大丈夫っ?」
「ええ、別に平気よ」
「本田、これを濡らしてきて頬を冷やしてやってくれないか」
「分かりました!」
叩かれたことよりもこのふたりの関係が気になる。
実はあれ以降も会話していたりするのだろうか? まあ、どちらにしても日和は深月に好意を抱いているのだからこれ以上進展しようがないけれど。
「もう……なんで逃げないの」
「あの子を叩いたことには変わりないわ、責任を取るのが常識でしょう?」
正直に言って冷たくて気持ちがいい、よりも、冷たくて痛いという方が強かったが日和が泣きそうな顔をしていたのでわざわざ口に出すことはしなかった。
「うぅ……」
「どうしてあなたが泣くのよ」
「だって私が余計なことをしていなければあんなことには……」
「私は来てくれたことに感謝しているけどね。でも、来てしまったことによって怖い思いをさせてしまったわよね、ごめんなさい」
涙を指で拭って立ち上がる。
「拓篤もありがとう」
「俺は本田に呼ばれただけだ」
「そういえば架純さんは?」
あの人だったらどう対応したのだろうかと気になってしまう。
私みたいにやってしまったという事実を受け入れてじっとするだろうか、それとも一度だけは自由にやらせてそれ以降は躱すなり逃げるなりするのだろうか、日和からしてみれば私の行動は馬鹿のするものだっただろうか。
「まだ家にいる。本田が慌ててたからひとりで来たんだ、なんか危ないことに巻き込んでも嫌だったからな。それより……悪かったな水織」
「なんで謝るの?」
「あいつのこと直前まで思い出せなかったんだ、家に来た時は凄く大人しかったからさ」
「いいわよ別に、それより来てくれてありがと……正直頬とかお腹が痛くて」
あそこまで躊躇なく慈悲なく相手に暴力を振るえるのは逆に凄い、勿論褒められたことではないのは確かだが。
その点、日和は本当に勇気がある女の子だと思う。
普通あの場面で間に入ったりするのは難しいというのに、来てくれた上に彼女に言葉をぶつけていたりもした。
拓篤には申し訳ないが私にとってのMVPは紛れもなく彼女だ。
もう二度とこの子を同じような気持ちにはさせない。
「当たり前だろ馬鹿……もういい、帰るぞ」
「ええ。日和も帰りましょう? 一度家に行ったら送るから」
「うん……」
心配なので一番後ろを私が歩く。
拓篤と普通に会話できていることから不満を感じているのは私にだけということだろう。
「水織さん」
「深月? どうしたのよ」
「ちょっといいかな、あのふたりには内緒で」
ふたりを見てからこくりと頷く。
兄がいればもう危ないことにはならない。
寧ろ私から距離を置く方が平穏な生活を送れるだろう。
あのふたりとは別の道を選んで進んでいく。
が、どこかに行きたいわけではなかったのか、深月はすぐの場所で足を止めた。
「宇津見茉里奈、知ってるよね?」
「ええ、先程会ってきたわ」
「宇津見に家を教えたの、僕なんだ」
これが日和の言っていたことなのかと実感した。
彼女が浮かべている笑みはなんとも強烈で、思わずじっと見てしまうくらいには珍しいものだった。
「そう、宇津見さんもそれで満足できたんじゃないかしら」
「そういうのむかつくんだけど。ま、どうせ覚えてないんだろうけどさ、私のことだって」
僕から私に変えていると言うよりも元々そうだったということだろうか。
「水野さんはさ、いつもテストで一番だったよね」
「掲示されていたわけではないし知らないわ、友達もいなかったし」
テストの点数を他人に見せるというのもよく分からないことだ。
高校生になった今となってはそんなことをしなくたって普通に配られる、学年中に○○位って事実を突きつけられるのに周知させる意味はと不思議に思っていた。
「私、ずっと水野さんと張り合ってた。勿論、そんなことをしても無駄だってことは分かってたよ? だって認知すらされてない、他人なんてゴミクズ当然の扱いをしていたんだからねあなたは」
「そんなことはないわよ、自分がこんな感じなのに他人を見下せるわけがないでしょう?」
一位になれるとも思っていなかったし他のことでも他人より素晴らしいと自負することなどできなかった、普通に生きているだけだった、たまに他人のために動くのだって単なる自己満足にすぎなかった。
もしそれをそういう風に言うのなら、どうしてもそうと捉えてしまうのなら、あなたにとってはそうなのねって納得する。
どうしたって分かり合えない相性の悪い人間だっているだろう。
だって私達には感情がある、そしてそれを自由に吐露できてしまう生き物なのだから。
「分かったわ、別に私は他人にどうこう言われようが気にするわけでもないし自由にしなさい。それで? 他にも言いたいことがあるのよね?」
「……見てよ」
「え?」
「今度からはちゃんと見てよ! あなたと対等でいたいと思っている人間もいるって分かってよ!」
元から私は他人への興味が薄かった、それでも困っている人が放っておけなかったからできる限り行動してきた。
それが私に近づいて来る理由を作ってしまったものの、気にしてはいなかった、他人に興味が薄いからといって完全に拒む性格でもなかったから。
けれど勝手に幻滅して離れた後に悪口を広めるような人が多くて参っていたのだ、だから私は他人への興味をほぼ失くして生活していただけにすぎない。
「え……」
が、今回は素で驚いてしまったため、アホみたいな反応になった。
「何その反応!」
「いえ……『日和に近づかないで』とか『もう二度と話しかけてこないで』とか言われると思ったから」
それかもしくは宇津見さんみたいに物理的な手段に出ると思っていた。
決して深月がそういうことをしそうだ、なんて考えていない、こういう場面ならその後はこうなると偏見があったということになる。
「そんなこと言わないよ……だからさ、今度からはちゃんと見てくれると嬉しいです」
「ええ、分かったわ。けれどあなたはきちんと日和のことを見てあげなさい」
「へ? なんで日和?」
「だってあの子は――」
「いた! はぁ、はぁ……」
複雑な場所で話をしていたわけではないのだから普通ではあるがよく戻ってきたなと感心した。
深月がいたからだろう、愛のなせる技だ。
「なにやってるの水織ちゃん! 家まで送ってくれるって言ったくせになに逃げてるの!」
「逃げてなんかないわよ、私はたまたま深月から――え? ねえ深月は?」
先程まで私の目の前にいたというのにもういなかった、仮に逃げたのだとしてもどうして日和が来てくれたのにそうするのだろうか。
「は? そういう嘘をつくの許さないから!」
「そ、そうじゃなくてさっきまで……」
「いいから帰るよっ、もうずっと手を握っておくからね! 勝手に逃げられても嫌だからさ!」
「え、ええ……あれ、手が熱いわよ? それによく見たら顔も赤いし……大丈夫なの?」
先程水に触れたことで風邪を引いてしまったのなら急いで家に連れて帰らないといけない。
もしそうならそのまま泊まってもらって一日中看病しようと思う。
「そ、そうかもね……」
「分かったわ、それならこうしましょう」
「わっ――」
「家まで連れて行くわ、そのまま泊まらせるつもりだから後で連絡するのよ?」
「ぅん……」
なるべく最大速で家まで移動。
「おかえりー」
「あ、すみません架純さん、日和が熱を出してしまったようで」
抱かれたままの彼女は目をぎゅっと閉じてプルプルと震えていた、その彼女を架純さんはじっと見つめて「熱? なるほど、それなら水織ちゃんのベッドに寝かせてあげないとね」と言ってくれる。
元よりそのつもりだったため「はい、そのつもりです」と返して部屋に向かった。
「ごめんなさい」
「え?」
「私のせいで……それに私のベッドで寝てもらうなんて」
「ぜ、全然大丈夫だよ、し、失礼します……」
少し前までの深月を見ている気分だった。
どもったり、こっちを見たり、あっちを見たりと忙しい感じ、自然に危ない彼女にしてはらしくない様子だとしか言えない。
「じ、実は嘘なの」
「う……そ? ああ、嘘をついたということね?」
「さっき赤かったのは単純に……というか」
肝心なところが聞こえなかった、実は深月の存在に日和も気づいていたということなら辻褄が合うけれど……。
「とにかく風邪ではないのね? それなら良かったわ」
「あのさ……泊まっていってもいい?」
「別にいいわよ? どうせなら架純さんも誘いましょうか」
「うん、だけどさ……この部屋で寝たい」
「分かったわ。さて、そろそろご飯を作ってくるわね」
出ていこうとした私を彼女が止める、あと何故かそのままバッと服を持ち上げた。
彼女の前で露わになる私のお腹。
「ここ、痣になってない?」
「ん……さ、触らないでちょうだい」
「心配してるんだって……ほら、こことかさ」
「だ、だからっ……んっ……」
自分で触ってもなんてことはないのに人に触られるとここまで違うものかと驚愕する。
「あ、あれ? あっ! 別に私はそんなつもりじゃ……ごめん」
「え、ええ……」
これはあれだ、彼女の指が今度は冷たかったから敏感に感じただけなんだ。
決して私が変態というわけではないし日和も狙ってやったわけではない。
第一、私にそういう気持ちを抱くわけがない、勘違いしてはならない。
「あーエロいことやっているところ悪いんだけどよ、今日は外で食うから準備してくれ」
「の、ノックくらいしてちょうだい!」
えっちなことなんかじゃない! 大体、そういうのはお互いが了承しないとできないことだ。
……今回のは日和が私を――したことになるけれど違う。
「したよ、三回な。それより行くぞ、外で大森が待っているから」
「はぁ……行きましょうか」
「え、私もいいの?」
「当たり前でしょう? というか、私だけであのふたりの相手は嫌よ、付き合いなさい」
「わ、分かりました!」
架純さんはそのつもりで拓篤に接すると言っていたわけだし目の前でイチャイチャされるに違いない。
その点、横に彼女がいてくれれば話し相手になってもらえるわけなのだから連れて行くという選択肢しかなかった。
「ごちそうさまでした」
たくさん頼んだわけでもないのに満足感が凄かった。
対面には静かに、そして上品にごはんを食べる彼女が座っている。
ふたりはいない、一緒に来たのに何故か別々の席を選んだのだ。
ちなみにそれを提案したのが架純さんで、水野兄妹が納得した形となっている。
「ふぅ……ん? どうしたの?」
「あ……なんで別々を選んだのかなって考えてて」
単純に見たかっただけ、なんて言えるわけもなく。
ただただそれっぽい理由を挙げて私は濁すしかできなかっただけ。
どうしてだろう、深月ちゃんだけいてくれればいいと思っていた私はどこにいってしまったの?
「ふふ、それはあれよ、ふたりきりが良かったということよ」
「水織ちゃんはいいの? その……私とふたりきりで」
「いいのよ、日和といるのも好きだもの」
も、か……分かってる。
深月ちゃんだって本音をぶつけて水織ちゃんに見てもらえることになった。
近くにいても本当の意味で見てもらえないというのは苦しかったことだろうがなぜ彼女にだけはストレートにぶつかっていかなかったのだろうと不思議に思うのはおかしいだろうか。
これはあれだ、架純さんのことが好きなのに上手くアピールすることができない拓篤さんによく似ている。
つまり深月ちゃんは水織ちゃんが好きだということ? 水織ちゃんは深月ちゃんのことどう思っているのだろう。
聞きたいような聞きたくないような実に曖昧な感情が私を襲うがこれを吐き出すことはできない。
いっそのこと深月ちゃんみたいに吐露できたらなんて考えていたら、拓篤さんと架純さんのふたりが席のところにやって来た。
「俺らはもう帰るけどふたりはどうする?」
「私は……えっと」
相方である彼女の方を見るとストローから口を離して言った。
「まだ残るわ、もう少しくらいジュースを飲んでいたいの」
「分かった。これ鍵な、あまり遅くならないようにするんだぞ」
「ええ、そっちも気をつけてね」
なんか子どもっぽいって感じるし可愛いとも思ってしまう。
「あっ……ごめんなさい、付き合わせてしまって」
「大丈夫だよ」
それならばと給仕に努めることにした。
どんどん注いでたまに自分も飲んで、注いで飲んでの繰り返し。
「っぷ……そ、そろそろ帰ろ?」
「そうね、帰りましょう」
最終的には立場が逆転して、彼女の方が注いでくれていた気がする。
なんでいつもこうなるのだろうと後悔しつつ外へ出て、その寒さに体を震わせた。
「寒いわね」
白い吐息が天に向って上がっていく。
なんとなくそれを目で追ったらその先には綺麗な星空があった。
なんかいいなって思った、先程までの後悔などすぐに吹き飛んだ。
それとこうして彼女と食事に出かけられたことが凄く新鮮で、どうしてか目頭が熱くなってしまい慌ててグシグシと目を擦る。
「日和ー?」
「あ、いま行くー!」
良かった、涙を見られなくて。
けれど残念に感じている私もいて、彼女の横に並ぶ直前で足を止めた。
「大丈夫?」
うつむく私の顔を覗き込むようにして見てきた彼女。
なぜかドクンと心臓が跳ねて、すぐに落ち着かなくなってしまう。
「熱があるわけではないわよね?」
こちらのおでこに触れたり、手を握ってきたり、いまの私にとっては致命的な攻撃ばかり仕掛けてくる彼女を私は、
「や、やめてっ!」
あろうことか手で押してしまった。
そのおかげで心臓は落ち着くことができたようだが今度は別の問題が浮上してきてしまう。
「ごめんなさい、気安く触れるべきではなかったわよね」
「ちがっ」
なんで私の方が先に謝らないの! と後悔したところでもう遅い。
連続的なミスを重ねて謝ることすらできずに固まっているだけなのだから。
「帰りましょう、外は寒いし本当に風邪を引いてしまうから」
「うん……」
数メートル歩いてから振り返って彼女は言った。
「深月も誘えば良かったかしらね、そうすればあなただって……いいえ、やっぱりなんでもないわ」
あなただっての先も、なんでもないって言った時の表情も、分からないまま無言で水野家へと歩いたのだった。