シャーロッテ・スブリーニエ①
太陽の当たらない通りの片隅で恐ろしいほど痩せ細った少女がずるずると横たわった。泥の中で蹲る彼女には、もう壁に体を預けることはおろか、指一本たりとも動かす力はなかった。
ここで終わるのだと霞がかった頭で理解すると少女の小さな心臓が氷の手で掴まれたように痛んだ。
もはや最期の時だろうという今、少女は何年も昔に亡くなった母を思い出していた。
1食代にもならない金と引き換えに体を売って、病気になった母。
病気の毒が脳に回って自分すら見失い、わけのわからないことを呟きながらのたうちまわって、そうしてようやく死んだのだ。
医者に見せる金もありはしなかったから、苦しみを和らげることすらできなかった。
呻く母の口から吹き出す泡を何度も拭った感触を思い出しながら、少女は「しにたくない」と思った。思ったところでどうにもならないのに、そう思ってしまった。
そのことがたまらなく悲しくて少女は細い吐息とともに微かに呻いた。
その声が届いたように、すぐ近くで靴音がした。ぼんやりとした視界に、仕立ての良い服とよく磨かれた靴がうつる。それらを隙なく身につけた壮年の男は、薄暗い路地にひどく似合わなかった。
光が消えにごりはじめた少女の瞳を、見下ろしながら、その男は「ディアナの娘か」と少女に問うた。静かで厳しいけれどそれは紛れもなく母の名前だったから、少女は相手に届くか疑わしいほど微かな動きでうなずいた。
男は冷たい目をしていた。その目に映る感情を少女は読み解けなかった。そしてもう、目を開けている力すら、その体から失われていった。
視界が暗くなると同時に、体が不思議な浮遊感に包まれる。
柔らかな香りに包まれながら、苦しい人生だった、と思う。家もなく、ゴミをあさる毎日。時たま見つかるパンのかけらを巡って何倍も体の大きい少年に殴り倒されたこともある。
けれど、こんなに優しい匂いがするなら、きっと私は地獄ではなく天国に行かせてもらえるのだろう。
それは生まれて初めて少女が感じることのできた、小さな安らぎだった。
目を覚ました瞬間、雲の上だと錯覚したほど柔らかなベッドの中で、少女は落ち着かずパチパチ瞬きをする。
ベッドの横に設置された椅子には、路地にいた男がいた。
目を覚ました後、医者に検査され、栄養失調の他は大きな病気はないと結論づけられると、医者と入れ替わるようにその男は部屋へ入ってきた。
広い部屋の中で、男は少女の顔をじっと見つめてから、「名前は」と問うた。
首を横に振る少女から男は数秒目を逸らす。少女は、母にすら名前を呼ばれたことはなかったから、わからなかったのだ。
「…お前の名前はシャーロッテだ。」
男はその目線と同じくらい冷ややかな声音でそう言った。シャーロッテは頷いた。この男がそういうならそれで良いと思った。
そして、男は自分が伯爵家の当主であること、シャーロッテを養女にすることを告げた。
難しいことがわからず曖昧に頷くシャーロッテから、男はもう目を逸さなかった。
その瞳はひどく暗く、まるであの路地のようだとシャーロッテは思った。
食事や運動によるリハビリを数ヶ月続けたシャーロッテを、その男ーシリウス・スブリーニエは妻と息子のレオナルドに引き合わせた。
おずおずと挨拶するシャーロッテを、妻は見ることもなかった。対してレオナルドは、シリウスのように冷たい目で彼女を見つめた。
慣れてしまえば衣食住の保証された生活は素晴らしかった。最初こそ冷たかったレオナルドも徐々にシャーロッテへ心を開いた。
シリウスは彼女へ文字や教養を自ら教えてくれた。宰相、という仕事がどんなものか彼女にはわからなかったけれど忙しいことは理解していた。勉強を教える時間以外は、シリウスは登城して家には戻らなかったから。それは、彼の妻が息を引き取るときであっても同じだった。
シャーロッテはシリウスに淑女としての教育を受け美しく成長した。
元々の知能が優れていたこともあり、路地裏で生活していたことなど誰にも勘付かれることはない。
所作はたおやかであり、笑顔は淑やかであった。幾度か茶会などに出ることもあったけれど、礼儀作法に文句がつけられないことが逆に気に触るようで、貴族らしい言い回しで皮肉られることが何度もあった。
そのうちシリウスは、社交などしなくて良いとシャーロッテを貴族社会から遠ざけた。
そして14歳の誕生日を迎えた。完全に破綻した家族の中で、それでも義兄は花を送ってくれたし、シリウスは毎年と同様、華やかなドレスとアクセサリーを送ってくれた。
けれどその日から、彼女の生活は変化していくことになった。
その夜シャーロッテがふと目を覚ますと、何かが割れる音が聞こえた。驚き怯えつつも、音の方向にあったシリウスの部屋へ向かうと、そこには真っ青な顔で割れたカップを握りしめるシリウスがいた。
滴る血に咄嗟にシャーロッテは部屋へ飛び込んだ。
「お義父様、どうされたのです、お手が…」
言葉は最後まで紡がれなかった。その前に、シリウスがシャーロッテを抱きすくめた。
混乱しつつも咄嗟に身をよじる彼女を骨が軋むのではないかという力で抱きすくめ、その耳元で、声を殺しながら義父は涙を流した。
音がしそうなほどの大粒の涙を流して、囁いた。「ディアナ。」と。
夢に浮かされるようにシリウスは次々と口走った。それは愛の言葉に始まり、懇願に変わった。
そしてようやくシャーロッテはあの日なぜシリウスが路地にいたのか、母とどんな関係だったかを知った。
そして、なぜ忙しい仕事の合間を縫ってまで彼女の教育を引き受けたのかも。
それが今まで不思議に思いながら、それでも聞くことが怖かった疑問の答えだった。
かつてシリウスはディアナに捨てられ、シャーロッテはディアナに瓜二つだった。




