雪の神様
「病を治す雪とな」
「上様に如何かと」
「熱海の湯は薬というが、舐るだけで万病が治る雪とは。して、何処に」
「蒲原で御座います」
「駿河の海は鰹が往来して暖かい。そなたが旅したのは夏だろう。益々、信じ難い」
「嘘のような本当がこの私。 蕗に積もる雪を舐めた途端、光が全身に差し込んだのです」
「盲が去ったというのか」
「はい」
「したが、江戸まで雪を運ぶのは難だな」
「雪は降りませぬ。男が降らせるのです」
「何者ぞ」
「鎮西八郎が 源為朝の生まれ変わり」
「痘神を退治した伝説の豪傑か」
「それがどうして、痩地の雛男だとか」
「何奴」
話を盗むつもりはなかったのだが、思わず息を殺していた。戸に手をかける。
「さてもさても。師匠様」
町名主の菱屋一衛門は隙間に私を認めるや慌てて煙管を盆に置き、膝を立てた。
私は飯田町で商いの傍ら、手習塾を開いている。筆子の一人が一衛門の子息。特別な約束がしたいと招かれた。定刻より早く訪ねたところ、長屋の障子を笑わす先客の声に耳を奪われた。
「この座頭が妙な話をするんでさ」
鶯の初音に眠る座頭かな
幼い時分に作った句。盲に対する関心の裏には畏怖が隠れていた。盲も治す雪とは、神の仕業に違いない。
初鰹が高値をつける頃、日本橋の魚河岸には 鯔背な音骨がぶつかり合う。まるで今日暮の我が身を鼓舞せんとばかりに度胸試しの空喧嘩を吹っかけ合うよう。
「雪を降らせる男を知っているか」
貸本屋の丸屋十蔵を呼びつけた。貸本は本業にあらず。江戸に集まる噂で稼ぐ穴知だ。
「どうしてそんな話を知りたいんです?」
「幾らなら売る」
「初鰹一本」
「馬鹿をいえ」
「楽屋を話せば、津軽家江戸御留守居の頼まれ事から調べ出したんですが・・・」
「津軽家と何の関係がある」
「込遣は長くなります」
「後悔させるなよ」
「さては丸屋の初物。とくとご賞味あれ」
又兵衛は御抱絵師として津軽侯に仕える今村家の三男に生まれた。父と嫡男が早くに没したが、跡を継いだ仲兄はまだ幼く、江戸の画塾で学んでいた。又兵衛は国元で亡き父の門人らに絵を習ったが、仲兄が帰郷するや、憧れだった出府を親寧公に願い出た。日本橋浜町の中屋敷に身を寄せると、木挽町狩野家の伊川院栄信に師事したが、粉本模写を最上の教育とする指導は、国元の絵師に習った時分の影灯籠を見るようで、始まらなかった。
森田座が資金不足で休座となり、控櫓の河原崎座が興行していた。ふと目に飛び込んだのは、人溜のじゃじゃに囲まれた大判の錦絵。御抱絵師が描く屏風絵や障壁画は君主がため。反面、眼前にある浮世絵が大衆に与える勇気は計り知れない。
「りよ。 私は浮世絵師になりたい。お身はどう思う」帰宅するや妻に尋ねた。
りよと又兵衛は雪で遊んだ幼馴染。何でも話す仲だった。
「使命をお忘れになったのですか。貴方は津軽家に仕える御絵師」
又兵衛は意外そうな顔をした。
「筆一管で勝負してみたいのだ。この江戸で。 私が名を成せば、お身にも名誉だろう」
「望みませぬ」りよは唇を噛みしめ、大粒の涙を溜めたまま身動ぎしない。
「狩野派の絵師が浮世絵を描くのは御罰責。身分をお捨てになるおつもりですか」
「それでも、やってみたいのだ」今度はりよが意外そうな顔をした。ぱらりとした目鼻の美な顔が崩れる。目尻から大粒の涙が零れ落ち、畳に跳ね返る。
「貴方は本物の絵を見たことがない人に褒められて満足するの・・・」
「庶民には絵が理解できぬと言いたいのか。筆を握ったこともないお身が偉そうに何を言う」
りよを怒鳴りつけたのは初めてだった。狼狽した心中を悟られぬよう、又兵衛は立ち上がり、早々寝床に入った。
「是は見事。味な絵を描くじゃねえか」
暇を見つけては芝居小屋の立見席を陣取って画帳に役者を写すのが習慣になっていた。背後に立つ欣欣 たる男は蔵前の札差、笠倉屋平十郎。棄捐令で破格の貸金を失いながら、何食わぬ顔で橋場町の奢侈な別荘に通い、音楽に興じている好事家。
「歌麿。豊国。近頃の流行りにはない迫力がある。気に入った。どうだ。似顔絵で売り出してみねえか」
開いた口へ餅。
「八丁堀の町屋敷に部屋が空いている。画室にどうだ。芝居小屋ならどこの桟敷でどれだけ観たって構わねえ」
「手前は武家仕えの絵師でして・・・」
「詮索はしねえ。斎藤十郎兵衛の名を使え。通油町の耕書堂は知ってるか?入山形に鬼蔦の紋。蔦屋重三郎といやあ、今、もっとも勢いのある地本問屋だ。いくたては話しておくから、描いた絵を持って訪ねてくれねえか」
又兵衛は身を打って描いた。長く内を外にした。初摺りの目途が立った頃、浜町の住まいへ戻ると、りよが煙になったと知った。両国の上屋敷で顰面の御留守居に極付けられた。
「殿の御扶持で身上が立っていることを忘れたか。内方がふけるとは、悪い足と心中でもしかねぬ。どこで今村家、否、津軽家の顔を踏むやもしれぬ。縁切りにせよ」
我に返った。過ちの大きさに愕然とした。
「手前は世の順義を知らぬ不実者で御座いますが、りよは男と心中するような女ではありません。探しに参ります」
「血迷ったか。お主も久離だぞ」
「すべては手前の心柄が招いた禍い。覚悟はできております」
衣蝉が鳴る。連なる山々が西日を浴びている。陽光に煌めく雪の粒が田園に化粧する。畦で少女が 独楽のように踊っている。男と目が合うと静かに止まった。
「あなた、もしかして、雪神様?」男が黙っていると「やっぱりそうだ」とはしゃいで山の方へと駆けていく。
緋の単衣をまとった老若男女が列をなして、山道を弱弱しく登っていく。坂の上には緋の縄が張られている。少女の声に振り返った痘痕顔は雪を見た。天に向かって見開かれた瞳は喜びを取り戻していた。
「人を救うってのはどんな気分だ?」
囲炉裏で炭が火を 篭 (こ)めている。鉤に吊られた鍋で茸汁が煮立っている。
「救ってなどいない」
「あれは人棄ての山だ。痘瘡の神に祟られた者は棄てられて山になる。妻もいた。感謝している」
「よかった」男は初めて微笑んだ。「妻を探している」柳行李から鮮やかな美濃紙を取り出して見せた。
「美しい人だな」
「そうだろう」
「お前が描いたのか?」
「そうだ」
飯台に置かれた碗の茸が湯気に揺れている。一口食んで味噌の香りを鼻から抜く。「お手を頂いた」と声を震わせながら立った。
「急ぐことはない。あんたは恩人だ」
「じきに追い出すさ」
「何故」
「稲が死んでしまう」
「どうせ死にかけた村だった」
「随分と山を歩いた。茸は木を助けるが、殺すこともある。そうだろう」
今村又兵衛が雪神だという。十蔵の見立てだ。
興味を持った私は遊歴を思い立った。
山東京伝が 生業の煙草屋で売る「読書丸」なる万能薬。こいつを宣伝して旅する代わりに書画をもらい、売って路銀の足しにする算用。
「薬といやあ、雪神の噂はご存知で?」
江尻宿の旅籠屋で口入屋に「読書丸」の引札を配っていると、雪神の話題へ転じた。
「ふけた女房を探しているとか」
「ある道中人夫が上野国で二人を見たと」
「出会ったのか」
「それが形も無い事で。雪はなかったと」
又兵衛は覇気なく山道に足を引きずった。深緑の葉に淡い雪が重なっては消えていく。作りたての岩絵具のような匂い。山の生命が放つ濃厚な空気。音が近づく。滝の音だ。
「りよ。りよではないか」
何故、今なのだ。
茶屋の陰に佇む婀娜な面影が懐かしい。又兵衛は属魂嬉しくなり、顔を晴れやかにした。
雪がやんだ。
擦り切れた草鞋で掻っ走る。りよの肩を掴むと「すまなかった」と声を絞り出した。
「貴方は誰」
「何を言う。お身の夫ではないか」
「わたくしは後桜町上皇に仕える歌人。衛門姫と申します。貴方のことは存じ上げませぬ」
りよは又兵衛の両手を払い、茶屋の奥へ消えた。
「病じゃ」塩辛声の僧侶が慰めた。
「何の」
「離魂病。生霊の記憶に冒される脳病。現と夢の境がなくなる」
又兵衛は天を仰いだ。
「我が身を去った雪の神よ。もう戻るでないぞ。私は、りよの傍に居たい」
雪神と呼ばれた男が雪を降らせることは、もう、なかった。
謎の画家と呼ばれる東洲斎写楽の物語を、曲亭馬琴の視点から描いた歴史ファンタジー小説です。