テンティウム①
こんな大地にも、雨は降るものだ。
しとしとと、音にもならない小さなさざめきが、黒い街並みを濡らしてゆく。
鬱々とした空には、押し潰すような分厚い《雲》がかかり、その間を、低い唸りとともに稲光が駆け抜ける。
「朝」が来たのだ。
彼は、右手に浮かび上がる光の文字が、小さく「5:00」を示しているのを見て、かすかに皮肉めいた感覚を覚える。いや増しに降り続ける雨は、やがて家々の屋根の上に甲高い音を立て始め、北から流れ込む膨れ上がった雲の群れは、さらなる嵐の到来を予感させた。
しかし、行き交う人々の影に、傘のシルエットはない。冷たい雨に打たれるまま、彷徨うように去ってゆく彼らの目には、無機質な赤い輝きばかりがある。その鬱々とした足取りは、時折、泥水を含んで奇妙な軋み声を上げ、かすかに吹き抜ける風に、祈りのような合唱を舞い上がらせていた。
街が、哭いている。夜明けを迎える度、彼は思う。
見れば、路地の片隅では、死体のように動かなくなった人々が子どものように蹲り、ほっそりと伸びる路地裏からは、憂いに満ちた呻き声が、まるですすり泣くようにかすかに響いている。
《城下第一区》――廃墟を思わせる彼らの街は、常に言い知れぬ退廃感に包まれていた。
「お待ちしておりました、御公子様」
ふと、彼に小さな声がかかる。
「《テンティウム》へようこそ。私は、当区域の案内役となる《Vivien》です」
そこにいたのは、十一、二歳ほどの「少女」であった。
彼女は、小さな蝙蝠傘を手にしずしずとお辞儀をすると、ピジョン・ルビーを思わせる両目に作りモノの笑顔をたたえて、ゆっくりとその先を指し示す。
見上げるような、巨大な「門」。その分厚い二枚舌が、外に向かってだらりと開かれている。その先では、さっきまでのそれとは全く違う、煌々とした灯りの群れがシャンデリアのように立ち並び、行き交う人々の賑やかな声が、まるでお祭りのように響いていた。
彼は、思わず声をこぼす。《テンティウム》――その街並みを見るのは、これが初めてであった。
「《サー・ローレンス》様より、御公子様を《赤綬位》に任ずるとの命をいただいております。おめでとうございます。テンティウムは、あなたを歓迎するでしょう」
少女の真っ白い髪が、わずかに風に揺れた。
彼は、ひと時の感傷から一転、胸の内側で、何かが黒々と唸るのを感じる。
「父に、もう一度面会したい」
恐る恐る、彼は切り出す。
しかし、それに対する少女の頷きは、悲しげにも否定の方向を指し示していた。
「残念ですが、それは許可できません。《ダーガー》より、《管理者》の方々については、当方の要求以外では面会を認めないことになっております。これは規則です」
にべもない言葉に、彼は力なく頷く。
結局、真実を確かめることはできそうにない。なおも心を引きずる感覚に、彼はにわかに歯噛みしつつも、再び少女へと向き直る。
「わかった。では案内してくれ。テンティウムの地図は、まだ受け取っていないんだ」
「かしこまりました。それでは、初めにこの当区域について一通り紹介させていただきます。《赤綬位》には、まだ進入が許可されていない施設もございますので、私からはぐれないようご注意ください」
かくして、彼は少女に先導され、二枚舌の大門をくぐり抜ける。
《テンティウム》――古くは《表層第三区》とも呼ばれたその区域は、いまや輝かしい繁栄の光に満ちていた。
その遥か頭上には、透き通ったガラスの天井が広がり、鬱々とした雨も、身を刺すような寒風も、もう感じられない。丘陵状のなだらかな大地には、四角屋根の整った街並みがチェス盤のようにどこまでも続き、それを照らす街灯の群れが、街全体を眩い輝きで包み込んでいる。
その上では、整備された「光の道路」の線と線の間を、空を飛ぶ公共車のライトが滑るように行き交い、そうして生まれた光の尾が、うっすらと陰る空の暗がりに複雑な幾何学模様を浮かび上がらせている。
そして、そんな街並みの向こうでは、天井にも届くような巨大な尖塔が、その頭上に淡黄の《月》を頂いて、行き交う人々の影を、さながら本当の月であるかのような輝きでもって見下ろしていた。
「あれが、テンティウムの《信号塔》です」
少女が、巨大な尖塔を指差して言う。
「《第三信号塔》と言います。ご存知かとは思いますが、あれから発せられる信号音が、私たちを星の竜の驚異から遠ざけています。この街の、象徴です」
にっこりと、少女は微笑む。
それに、彼はどこか皮肉めいた愛想を返すしかできなかった。
おそらく、彼女は信号音を聞いたことがないのだろう。いや、言い直せば、テンティウムの住民は誰も。城下での記憶を思い出しつつ、彼はおとなしく後ろに続く。
あれは、ひどいものだ。しかし、今は関係ない。
「ここに住む方々は、皆人間らしい振る舞いを好まれます。城下住まいでした御公子様には、少々奇妙に映られるかもしれません」
小奇麗な通りを歩きながら、少女は周囲の人々に目を回す。
その姿は、確かに彼と同じ《レギオン》のものだ。しかし、彼らのほとんどは「素体」ではなく、小洒落たコートや飾り帽子、スカーフなど、何かしらの人間らしい装いに身を包んでいる。中には、各々の腕に取り付けられた「武器」にさえ、装飾や改造を施している者がいるほどだ。
それらの振る舞いに、何の意味があるのだろう。しかし、その答えはすぐに返ってきた。
「実は、これはとても重要なことなのです。テンティウムを含む、《王国》の五つの旧表層区域では、《亜人》を徴用しているからです」
「《亜人》?」
聞きなれない言葉に、彼はふと首をかしげた。
「《亜人》とは、外征時代――つまり、この《王国》が建造される以前に発見された、人型の適応生物のことです」
そう言って、少女は小さな指を差し出し、何もない空間に絵を描くような身振りをする。
すると、彼の目の前に毛むくじゃらの、言うなれば狙撃手のギリースーツを思わせる人型の生物が映し出され、続けて、その隣にレギオンと思われる輪郭が比較するように並ぶ。
「これが、《亜人》です。優れた身体能力を持ち、外の環境に対する耐性も高いことから、私たち《Vivians》とともに、労働力ないしは兵力として運用されています。しかし、知能の低さと、半秩序的な性向から、人類とは認められておりません」
そこで、少女はやや言葉に詰まった。
「――《ダーガー》は、彼らを区別によって統制することが望ましいと考えております。したがって、レギオンの皆様が人間らしさを保つのは、一種の――そう、示威として必要なことなのです」
言い切った。そう感じているのが、彼にも分かった。
その台本を誰が考えたにせよ、おそらく、レギオンたちが装飾していることに意味は無いのだろう。つまりは、ただの道楽であり、趣味だ。《亜人》への示威だというのも、きっと《ダーガー》の方針にかこつけただけに違いない。
妙なところに来てしまったかもしれない。彼は、なんとなくそう思う。頭の中で、くすくすと笑う声が聞こえるのも、おそらく気のせいではない。
「ヒトは、面白いねえ」
かすかに響くその声に、彼は頭の中で「うるさい」と呟きながら、彼は再び歩き出す。
環境が変わったからだろうか。どこか浮き足立っている自分がいる。そんな形容しがたい警戒感が、彼の感情を曇らせる。
そして、その声が聞こえたのは、そんな時だった。
「おい、また死んじまったぞ! 後任はまだなのか!」