城下第一区③
それが灯りだと気づくのに、どれだけの時が経っただろう。
茫洋と揺れる、月のような街灯。その淡黄の光がぽつぽつと照らし出す夢のようなただ中を、無数の人影が、亡霊のように行き交っている。その向こうでは、夜空へ伸びるビルの群れが形なく揺れ、わずかに色めく無音の雷光が、その真っ黒な輪郭を、まるで舞台背景のように映し出していた。
何もかも、見慣れ切った光景。それでも、我に返った彼は、それが本当は夢なのではないのかと疑わずにはいられなかった。
「お帰り。長かったね。お父上は元気だった?」
頭の中に、ノイズがかった声が響く。
「《バベル》?」
思わず、彼はつぶやく。
そこに蘇る、最後の光景。「父」と呼んだ存在の、見るもおぞましい無残な姿。彼は、胸に込み上げてくる強烈な不快感に、たまらず吐くような姿勢を取る。
むろん、吐き出されるものなどない。その身振りは、とうの昔にただの気休めに成り果てている。しかし、それでも、そうしなければ頭がどうにかなってしまいそうであった。
「おい、おい、どうしたのさ!?」
「どうもこうもない、父が――」
言いかけて、彼は自らの喉が言葉を遮るのを感じる。
言いたい、言わなければならない。そう思えば思うほど、それは頑として声を出すことを許さない。
そうして、引き裂くような頭痛が、甲高い耳鳴りを連れてやってくる。
彼は、その濁流のような感覚に耐えかね、震える左手で自らの右胸を叩く。
手の平に伝わる、何かを押し込んだ感覚。空気の抜ける音がして、奇妙な脱力感とともに、全身からあらゆる苦痛が消えてゆく。
「――何でもない」
激しい動悸に、いまだ指先を震わせつつ、彼はゆっくりと身を起こした。
冷たい夜の路地に、小さなガラス瓶の落ちる音がかすかに響き渡る。
「なんだよ、気になるじゃないか」
ふと、意識の奥底に、見えない何かが近づくような感覚が走る。
「やめろ!」
それを、彼は慌てて振りほどいた。
痺れるような余韻が、声とともに頭の中を駆け抜ける。夢か現実か。ふつふつと戻り始める混沌とした高揚感が、感情と思考の狭間に、まるで蜘蛛の巣のように混乱を広げていた。
「言ってくれなきゃ、何も見えないよ」
そのむくれた声に、彼は思わずはっとした。
《バベル》に、言葉というものは必要ない。それは、その気になれば、声一つ無く彼の意識を読み取ることができる。これは、彼らに与えられた特別な関係であるとともに、彼が《好例》と呼ばれる所以でもある。
しかし、無意識は、そんな友の助けを拒絶した。そのことに、何より彼自身が驚きを隠せずにいた。彼は力なくうな垂れ、近くの壁によろよろともたれ掛かると、そのままどうしようもなく押し黙る。
目の前に映るのは、暗く閉ざされた真っ黒な扉。それは、彼の視線の先に卒塔婆のような影を落としながら、わずかにちらつく橙色の街灯の上に、怪物めいた巨大な塔の姿を浮かび上がらせていた。
「疑えよ」
再び想起される、父の姿。
その不吉な言葉は、知らず知らず彼の精神を蝕んでいた。
「――まあ、いいや。それより、《赤綬位》だってね。《ダーガー》から連絡が入ったよ。やったじゃないか」
気を利かせたのか、あるいはいくらか読んだのか、それは話題を変える。
脇腹をつつかれたような感覚に、彼はふと気の抜けた声をこぼす。思えば、混乱のあまり、そのことを完全に忘れていた。呼び戻される記憶に、彼は小さな不安を感じる。
あれは、本当に現実だったのか――。
右手が、ゆっくりと中空に差し出される。張り詰めた感覚が、混沌とした思考を現実へと引き戻し、刃物のような指先をわずかに震わせる。一瞬の間、けれども、それは意を決したように中空を一薙に滑った。
『管理名:××××。階級:《赤綬位》』
そこに現れる、光の文字列。
その細々とした表記の只中に、一際目を引く大きな記述があった。「やっぱり、夢じゃない」――彼は、密かに独りごちる。
その傍らで、潰された本当の名前が、まるで嘲笑かのように瞬いていた。
「これでやっと――」
「《天使》を捜せる」
「――嘘つき」
感情のない言葉が、口をつく。
ふと、地面へと向けられた両目が、そこに転がる空っぽのガラス瓶をとらえていた。
「使いすぎだよ」
思うより先に、バベルが口を開く。
「だから、悪い夢を見るんだ。知らないかもしれないけど、最近、ぼーっとしてる。ちょうど、さっきみたいにね。そんな調子じゃ、夜明けを見るより先に、あっちに連れて行かれるぞ」
その声は、珍しく低いものだった。
間違っているはずがない。彼は、蘇る記憶に、密かに歯噛みした。
しかし、その裏側で、自分を信じられない自分がいる。思えば、ここに戻ってくるまでの記憶がまったくない。もし、バベルの言うとおりだったとしたら、それの代償だとしても不思議ではないだろう。
どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。脳の中で何かが磨り減ってゆく感覚を覚えながら、彼はよたよたと歩き出す。
「――もう行こう、次の仕事が待っている」
その声に、答える者はいない。
(あれから、もう三年――)
ぐったりとした倦怠感が、体中を覆っている。思い出されるのは、明けることのない夜の暗がりと、べったりと手について離れない、鈍い感覚だけ。それでも、歩みを止める気になれないのは、やはりおかしくなってしまったからだろうか。
漆黒の寒空に、再び雷光が瞬く。そうして照らし出される道の先には、怪物の二枚舌を思わせる、巨大な「門」。それは、彼が近づくと、まるでそれに気づいたかのようにゆっくりと開き始めた。