城下第一区②
「――なおも、影がよぎる」
その声は、暗い海底から響くようであった。
頭を潰す鈍痛、脳を掻き乱す風切り音、亡者の如き人々の群れ、そして、天上を覆い尽くす蒼い光。
その男は、目の端に皮肉げな笑みを浮かべながら、枯れ木のような細い指先を前へと伸ばす。
「星は、我らのすべてを奪い去った」
独りごちるように、その男は語る。
口元を覆う人工呼吸器から、かすかな泡ぶくが零れ、彼を閉ざす「水槽」の中に、小さなさざ波が立った。
《サー・ローレンス》――それは、かつて地上から失われたはずの、「人類」の老いさらばえた醜い姿であった。
「お久しぶりです、父上」
そこに、一つの足音が近づく。それは、まるで潜むかのような暗がりの中に甲高い金属音を響かせ、やがて、静かに止まった。
ぼんやりと色めく、ガラスの檻。その淡い光の前に、小さな一つの影が差すのを見て、その男の目に、冷ややかな笑みが重なった。
「竜を、殺したか」
くぐもった声が、耳をかすれる。
《ロット・ワン》は、力なく浮かぶ老人の前に膝をつくと、静かに顔を伏せる。
「《蟹》に《魚》、それに《牡羊》……。なんだ、まだたったの三匹ではないか」
その言葉に、返す者はいない。
「これでは、夜明けなど夢のまた夢。そんなお前の不出来さが、今日の人類の悲劇だ」
跪く彼に、老人は指を突きつけ、なじるように言い放つ。
そこに、怒気はない。あるのは、淫雨のようにどこまでも続く、侮蔑と嘲笑だけだ。
その場に流れる、しばしの静寂。
だが、こうしたやり取りは、今に始まったことではなかった。それは、彼が生まれてから――いや、正確には彼の記憶が始まってから、何度も繰り返されてきた光景なのであった。
「《牡羊》が死んだことで、《ポイント・エレレート》への道が開けました。今後は、《ダーガー》の計画に従い、残る《天使》の捜索を行うつもりです」
彼が切り出す。
まるで、何も聞かなかったかのような淡々としたその声に、抑揚は一切無い。
空っぽの言葉が、静まり返った暗がりの中に吸い込まれるのを聞いて、老人は鼻を鳴らすと、彼に向けた指先をゆっくりと下ろした。
「相変わらず、無謀な暴走をしていると聞く」
「計画は、滞りなく実行されなければなりません」
「使命のつもりか。計画も何も、そんなものはとっくに破綻している。お前自身が、その象徴であろうが」
「……それでも、《天使》はまだ失われていません」
隠しきれない、絞り出すような声。
脳髄を駆け巡る幻影に必死に抗いながら、彼は、なおも平静を装い続けていた。
そして、老人はそんな「息子」の姿を見て、ふと良いことを思いつく。
「そう、《天使》だ」
突如として、胸の中に不快感が沸き上がる。
体中を嫌な熱が駆け巡り、床に映る自らの影がぶるりと震える。
伏した両目に、老いた顔は映らない。しかし、そこに浮かんだ満面の悪意を、彼の本能は直感していた。
「そんなに、彼女が憎いか?」
直後、彼の体から黄金色の火花が吹き上がる。
右腕の杭が乱暴な音とともに刃を立て、狂ったピアノの音が衝撃を従えてそこら中に響き渡る。
真っ赤な両目が、まるで燃え立つような激しい赤光を撒き散らし、スパイクのついた両足は、ただそこにあるだけで床の光沢に無数の亀裂を生む。
それを見て、老人は歓喜の声を上げる。身を乗り出し、わなわなと震える指先を再び目の前の「怪物」に向けて、彼は言い放つ。
「そう! それだ! その力、竜をも殺すその《炎》! その輝きも、《天使》も、何もかも《彼女》が得るはずだったものだ!」
ガラスの壁が、音を立てて震える。
しかし、今にも弾けてしまいそうなその光景を目にしても、その老人は叫ぶのをやめない。
「哀れよな! 《彼女》が生きてさえいれば、お前ごときが苦しむこともなかったのだから!」
その笑みは、死への覚悟か。あるいは憧憬か。
どちらにせよ、大気さえ歪ませる怪物の憤怒は、声さえなく、今まさに老人の命を奪い去ろうとしていた。
しかし――
――ギィン!
その直後、金属を擦り合わせたような耳障りな音が鳴り響く。
それは、さっきまで荒れ狂っていたピアノの音を一瞬のうちに押しつぶし、静寂がもとの暗がりへと立ち返る。聞けば、わずかに残された余韻たちが、まるで溺れるかのような低く長い声を上げ、どこかへと引きずられてゆくのだけが、かすかに闇に響いていた。
「――だが、お前を手術したのは私だ」
その目に映るのは、両手を床について荒い呼吸を上げる、輝きの失せた怪物。
老人は、そんな姿を尻目に、まるで裏切るような苦い声をこぼす。
「それに、《ダーガー》はお前に期待している。ゆえに、私もまた、お前を導かねばならぬ」
目眩と耳鳴り、そして激しい頭痛が、体中の感覚を奪い尽くす。
彼の耳に、老人の声は届かない。
けれども、そんな立つことさえままならない状態にあってなお、彼の「外殻」は、その言葉を茫茫とした意識の中に映し出すのだった。
「お前に、《赤綬位》を与える。それを持って、《テンティウム》の門をくぐるがいい。そこに、待ち人がいるだろう」
定まらぬ視界のただ中に、ある紋様が浮かぶ。
それは、翼を貫く剣に血のような赤い帯が絡みついた、彼ら《レギオン》の証であった。
「――おめでとう。これでようやく、お前も騎士だ。もはや、お前に父は必要ない」
その瞬間、世界は突如として暗転する。
「だからこそ、聞くがいい。これは、私が贈る最後の言葉――唯一の真実だ」
そうして、すべての音が消える。
視覚も、聴覚も、ついには触覚さえ失われた世界で、彼は脳髄の奥に、ふと一つの影が浮かぶのを感じる。
「私は、とうに死んでいる」
それは、痛ましく膨れ上がった、老人の成れの果て。
その落ち窪んだ眼窩には一切の光は無く、薄くたるんだ真っ白な皮膚は、ところどころ剥がれて水中に漂っている。黒ずんだ指先は、どこか不自然に捻れたり、あるいはもぎ切れたりしていて、残っている指にも、爪と思われるものは一つも残されていない。
そして何より、肥大化した頭部には、青いあざのようなものがいくつも浮かび、頬に張りついた両耳は、まるで潰されたかのように、奇妙に縮こまっているのだった。
「疑えよ。そして予言しよう。いまやこの世界は、悪意と嘘に満ちている――!」
その言葉が、父の最後の言葉となった。
彼は、何もかも失われた暗闇の中で、悲鳴さえ上げることもできず、不快な哄笑とともに意識が遠くなってゆくのを、ただ感じることしかできないのであった。
「面会は以上となります。速やかに退出してください」