星の声③
「前回のあらすじ」
そこに遺されていたのは、かつての旧い世界の残滓だった。
光に見捨てられた、凍った大地。ロット・ワンは、そこに佇む壊れた市街へと足を踏み入れる。
こんな場所に、何があるのか。
疑問を抱きつつ先へと進む彼の胸には、今までには無かった、一つの新たな感覚が生まれていた。
「照合いたしました。どうぞ、お入りください」
そう言って、少年は目をそむけた。
デリンジャーは、自らの視界を覆っていた赤いヴェールが剥ぎ取られたのを感じて、ふうと小さく一息つく。額から鼻筋にかけて走っていた奇妙な圧迫感が消え、わずかに緊張した頭に、もとの平常な感覚が戻ってくる。
ほんの数秒、意識するのもごくわずかな出来事だった。
彼は、何か言いかけようかと思い、ふと少年の顔を窺う。
しかし、その少年の両目――バイザーのような黒い装置に覆われたそれは、すでに彼のもとを離れ、柱のように固定された両足とともに、もはやぴくりとて動くことはなかった。
少年は、真っ直ぐに、彼が来た道を見据えていた。その顔に、表情はない。一文字に紡がれた口は息一つせず、生物的な反応も、かすかに上下する胸を除けば、さながら人形のように希薄で弱々しかった。
彼は、ふと、その白い髪の下の耳元の皮膚に、短く一つづりのアルファベットが刻まれているのを目にした。それは、そこに埋め込まれた黒い装置の根元と結びついて、瘤のように盛り上がったその周辺に、尋常ならざる気配とともに、どくどくと脈打つ青白い血管を浮き立たせていた。
《門番》
彼を迎えたその少年は、《王国》では特にそう呼ばれていた。
Vivianの中でも、ごく限られた場所にしか配置されない、特別なVivian。その役割は、認められた者しか立ち入ることを許されない場所への出入りを監視する、文字通りの「門番」であり、その目を覆う装置は、それを遂行するための道具であるとともに、また、招かれざる客を排除する、恐るべき兵器でもあった。
そのひと睨みで、不届きな心は正しく破壊される。
その目の間を一筋の赤い光が走るのを見て、デリンジャーは思わず顔を上げる。
それは、レギオンという強大な民を統治するための、《王国》の機構の一つであった。
しかし、ゆえに、そのVivianたちの知性には、ある種の制限がかけられている。自らに与えられた任務にしか関心が向かないように、そして何より、それ以外での一切の自我が成立しないように。
「問題は無さそうだ。全員が終わり次第、中に入るぞ」
彼は、傍で待つ三人の仲間たちに目配せする。それを受けて、ロット・ワン、大隊長、マルカが、それぞれ誰何を受ける。
目を合わせるだけの、一瞬の手続き。しかし、やはり何らかの不快感を感じるのか、仲間たちの顔にはかすかに苦痛の色が浮かんでいた。
そして、それを見守りながら、彼は自らがくぐるべきそこに、ふと覗き込むような視線を送る。
そこにあったのは、さながら鉄格子を思わせる、暗銀色の大門。向こう側に浮かぶ塔の灯火を後光に、彼らを見下ろすように物々しく佇むそれは、その槍のような頂からかすかに塵を降らせながら、きりきりと耳障りな音とともに、ゆっくりと開き始めていた。
根元は、薄っすらと煤色に汚れていた。また、見渡せば、その左右に続く、増築されたという石造りの城壁も、同じ色に染まっていた。
土地のせいだろうか。そんなことを考えながら、彼は軽く足元をこする。すると、そこには土だけではなく、それと全く同じ色の、黒い煤のような塵が薄っすらと降り積もっていた。
それから間もなく、彼らは《星見台》の内側へと通された。人員が少ないのか、案内のVivianはいなかったが、そこに続く道は一本しかなかったため、特に迷うようなことはなかった。
途中見えた塔の中庭も、塔をぐるりと囲う城壁以外は何も配置されておらず、もとからあっただろう剥き出しの更地が、ごつこつとした岩盤質の凹凸とともに意味もなくそのままにされていた。
「《王国》は、一体何をしようとしているんだ……?」
細っそりとした、コンクリートの廊下。
その古さびた揚げ窓の連なる一本道を歩きながら、ロット・ワンは、ふとそんなことを呟く。
「確かにな。ありゃあ、どう考えても《竜》避けというよりは、むしろ《人》避けじゃ。監獄と言い換えてもいい。外か内か……どちらにせよ、次にあれが我らに向いていないことを祈るばかりよ」
大隊長がかすかに振り向く。
むろん、あれというのは、あの《門番》のVivianのことだろう。確かに、それが次にこちらを向いている状況は、少しばかりぞっとする想像を覚えずにはいられない。
《ダーガー》の情報は、明らかに虚偽だ。この街は、《星の竜》と戦うことを想定してはいない。そして、それ以外で「壁」を作る理由があるとすれば、それはそこに何か隠したいもの――閉じ込めておきたいものがあるということだ。
デリンジャーは、周囲から注がれるひりひりとした視線に、ふと小さな息をつく。
「《彼》は、そこを出られない。だから、会うためには直接出向くしかない。《王国》でもトップクラスの秘密だ。本来なら、《最下層》に閉じ込めておきたいんだろうがね。だが、一人の《管理者》がそれを良しとしなかった。わざわざ仲間を脅迫してまでだ。……まあ、百聞は一見に如かずさ。行ってみれば、すぐにわかるよ」
脳裏に蘇る、ジャン・ジャルジャックの姿。
あんな姿になっても、どうやら「頭」までは変えられなかったらしい。どこか挑発的な幻影に内心舌打ちをしつつ、彼は仲間たちの視線をやり過ごす。
実際、彼はそこに何があるのかを知っていた。「案内人」を引き受けたのだから、それは当たり前といえば当たり前のことだった。
しかし、それを話すのは固く禁じられていた。それに、彼自身もまた、それを十分に説明できるほど把握しているわけではなかった。
(だから、俺か)
ジャン・ジャルジャックの意図を察して、彼は密かに鼻で笑う。
聞かれたくないなら、そもそも答えられない者に案内させればいい。
「尋問は、もうたくさんだよ」
どうやら、最近もらったというトラウマは、想像以上に深いものだったらしい。
彼は、その胸に複雑な思いを抱きつつ、自らの首にかかった旧い拳銃を密かに抱くように握り締めた。
(こういう機会も、あるものだな……)
それからしばらくして、彼らは一本道の終点へとたどり着いた。
目の前に佇む、分厚い鉛色の扉。厳しい古い南京錠の上に、《王国》が設置したであろう小さなモニターが設えられたそれは、彼らが近づくや否や、奇妙な電子音とともに起動する。
真っ黒な画面に白い光が点り、それからしばらくの間を置いて、その傍らについた小さなスピーカーが、抑揚のない声で一つの命令を告げる。
「開錠してください」
それを受けて、デリンジャーは自らの左胸を叩いた。
すると、その真っ黒な外殻の一部がまるでディスクドライブのようにスライドし、そこから、わずかに光沢を放つ小さな銀の鍵が現れた。
「ジャン・ジャルジャックからの預かり物だ」
そう言って、彼は鍵を古い南京錠へと差し込む。
その瞬間、真っ白だったモニターにいくつかの幾何学模様が浮かび上がる。それは、まるで何かを確かめるように奇妙な浮き沈みを描いたかと思うと、不意に甲高い機械音を響かせ、ふっつりと消える。
南京錠が、一人でにガチャリと音を立てた。
「壊したら、あれがやってくるという仕組みだ。錠前は、単なるブラフだな。作った奴は、よほど何かを警戒していたらしい」
彼は、南京錠がかかったままドアに、無造作に手をかける。
岩を擦るような音とともに、それはゆっくりと開いた。
光が、溢れる。薄暗かった廊下に、向こう側に満ちる橙色がぱっと差し込み、わずかに驚く四人の影を、その床と壁にさながら影芝居のように写し出す。
「お待ちしておりました、皆様」
そうして飛び込んできたのは、優雅に腰を折る小さな影の上で、たおやかに揺れる、ひと繋ぎの紫色だった。




