星の声②
「前回のあらすじ」
物語の傍ら、闇夜に沈む《星見台》にて、一人の男が耳を澄ましていた。
《教授》と呼ばれたその男は、目が見えず、ゆえに自らの醜い姿もまた知らなかった。
そこに、《エリン》という一人の少女が現れる。
彼女は、《星見台》にある客人たちが近づいていることを告げ、そして男は、それに導かれて静かに歩き出すのだった。
列車が告げる、到着の音。
頬を抜けるその甲高い余韻を背中に、ロット・ワンは、その前方に懐かしい輪郭をまじまじと捉える。
わずかに傾いた、レンガ造りの家々。くすんだ煙突とはげかけた三角屋根の立ち並ぶその古風な出で立ちの街並みは、今や消え失せて久しいガス灯の火に照らされ、命の絶えた荒野の向こう、不意に盛り上がったしゃれこうべのような丘の上で、蝋燭の火のようにぼんやりとうかびあがっていた。
《星見台》
そう呼び名されたその場所は、意外にも、夜の世界にあって、ある種の空白地帯の様相を呈していた。
《セントラル》の西部、光という光に見捨てられた、暗黒の世界。その濛々と《夜の雲》ばかりが立ち込める不毛の荒野には、半ば凍った、黒く痩せた土地がどこまでも広がっている。
資源は無い。使えそうなめぼしい文明の遺物も、ほぼ無い。さらに言うなら、《王国》のような「都市」を建造できる場所さえ、そこには無かった。
ゆえに、そこは長く、《王国》にとっても戦略的価値の薄い後方と位置づけられていた。
《星見台》も、もとを辿れば、そんな場所に偶然残っていた旧市街を再利用しただけの仮住まいの拠点に過ぎず、ゆえに、そこは《王国》の支配地の中でも、あまり顧みられることのない最も辺鄙な場所の一つであった。
(こんな場所に、一体何があるって言うんだ……?)
暗がりに浮かぶ、旧世界の残滓。
彼は、デリンジャーの言葉を思い出しつつ、その《星の夜》以前の光景に、ふと小さくため息をこぼす。
「列車が止まります。ご乗車の皆様は、お足元にご注意願います」
足元の窓から、車掌役のVivianの声が聞こえた。
屋根の上、半ば張り付くように中腰になった彼は、ぐんと足元にかかる衝撃を感じつつ、辺りの景色が、ゆっくりと街並みへ入り込んでゆくのを眺める。
人の気配は、無い。打ち捨てられた路地にはいまだ多くの瓦礫が散らばり、また維持管理を担ううVivianらの姿も、特に見受けられなかった。
「中に戻る。少し、風が出てきた」
耳元を押さえ、デリンジャーに通信する。
答えは、すぐに帰ってきた。
屋根を伝い、客車に戻る。途中、他の貨車の中身についてささやかな興味が浮かんだが、余計なことを考えるものではないと思い、触れることなく通り過ぎた。
「なんとかなったようだな。まあ、まさかあんなことをしでかすとは予想外だったが」
「悪い。でも、ああするしかなかった。《杭》が返された。最悪、誰かが囮になるしか列車を守れなかった」
「《好例》の使いどころ、か? 俺には、わからない話だ」
デリンジャーは肩をすくめ、ふと窓の外へと目を泳がせる。
今思えば、それは確かに無謀な選択だったかもしれない。しかし、そうは思っても、体は先に動いてしまった。
竜が、憎い。それは確かだった。そして、むろん、それが自らの使命であることも。
だが、その身を突き動かす衝動は、果たしてそれだけだろうか?
言葉を交わしてみれば、何故だろう、それだけではないと感じている自分がいる。
(《ファースト・ワン》……)
不意に蘇る、一つの名。
それが胸に落ちるのを感じて、彼は思わずはっとした。
(君は、どうだったんだ――?)
最初の好例。
彼は、それになって初めて、自らの意思を疑った。
「それにしても、あの場所に武器が収められていると、よくわかったな?」
足元で、ふと大隊長が言った。
「……ああ、昔、よくやっていたんだ。《杭》がまだ無かった頃……列車に限らず、俺はずっとそこにいた」
独り言のように答える彼に、その老人ははてと首をかしげた。
しかし、そんな言葉尻が終わるより先に、列車が、ごとんと音を立てる。小刻みな振動を残して、巨大な鉄の塊が、ゆっくりと止まった。
「デリンジャー様、《エリン》から――《星見台》から通信を確認しました。我々は、正しく承認されています」
「そうか。では降りるとしよう。あちらには、色々と聞かねばならんな……」
マルカの言葉に、デリンジャーが低い声で応じた。
かくして、デリンジャーを先頭に、列車の乗客たちは次々と降車を始める。
ガス灯の火の色が、ひび割れた戸口の床にぼんやりと三つの影法師を写し出し、その後ろで、彼はふと壊れた車内の光景を一瞥する。
あの竜は、一体なんだったのだろう。
こんな暗闇の世界で、たった一つ、はぐれたように輝く、柑子色の星。その予想だにしない邂逅に、ロット・ワンは、少なからず飲み込めない感触を感じていた。
あれは、今どこに――?
ちらちらと、車内を見渡す。
死んではいない。ならば、いずれまた出会う時が来る。そしてそれは、きっとそう遠い話ではないだろう。そのとき、自分は一体どうするのか?
目覚めて以降、これまで思いもしなかったはずの疑問に小さな戸惑いを覚えつつ、彼はゆっくりと列車の戸口を抜ける。
駅舎は、《王国》にあったものより、ずっと簡素なものであった。ぽつりぽつりと、整備係のVivianが行き交うのを目にしたが、その数も両手で足りる程度であった。
屋根は無かった。一目移せば、そこにはあの感傷的な旧い街並みが広がり、もとより、この街自体がそれほど大きなものではなかったことがすぐに見てとれた。
「《星見台》は、そこか」
デリンジャーがつぶやく。
見れば、その街は岩盤質な険しい丘陵に沿って、徐々に上へ上へと広がっていた。
そしてその頂上には、奇妙な、王冠を思わせる巨大な塔がそびえ立ち、そこから溢れる橙色の灯りが、さながらシャンデリアのようにその姿を色めき立たせていた。
「……あれが?」
ロット・ワンは訝しげにこぼす。
その塔は、記憶よりも一回り大きな姿をしていた。具体的には、彼が何十年も前に見たそれよりも、城郭や新たな尖塔などが足されて、「塔」というよりはむしろ「城」に近い姿になっていた。灯火も、ずいぶんと増えたように見える。
「《星見台》は、少しずつですが、増築が繰り返されています。特に、ここ三年の間には、施設自体の大規模な改装が行われています。《ダーガー》によれば、有事に備えての《王国》の後方開発とのことですが……」
マルカが言いよどむ。
しかし、それも無理からぬことだろう。有事に備えて、という割には、その塔の構造は、あまりにも貧弱すぎた。《星の竜》に対抗するためには、少なくとも《王国》に匹敵する大城壁か、あるいは《信号塔》がいる。
では、あの塔が――《星見台》そのものが、《信号塔》の役割を果たしているのだろうか?
マルカの様子を見るに、どうやらそういうわけでもないようだ。
《ダーガー》は、嘘をつかない。
しかし、それはあくまで《ダーガー》自身に関してである。
《ダーガー》よりも上位の存在、すなわち《ダーガー》に命令できる権限を持った人間の指図であれば、たとえその廉直な支配者とて、自らの信条を曲げざるを得なくなる。
そして、《ダーガー》に命令できる人間など、《管理者》以外にありはしない。
「まあ、なんでもよかろう。さあ、早う。ここは、どうにも空気が悪くて好かん」
考える彼をよそに、大隊長は言った。
彼は、思わずデリンジャーを見る。しかし、その男は真っ直ぐに《星見台》の光を見据えるばかりで、それについては何も言うことはなかった。
(ここ三年、か……)
その言葉に嫌な予感を抱きつつ、彼は他の仲間たちとともに歩き始める。
足元に、一陣の風が舞った。それは、薄汚れた街路を行く彼らの頬を撫で、勢いよくその背中へと駆け抜けていった。
彼らの足音とともに、小さなその音をかき消して――。
「――ア、ア、ア?」
――やがて、彼らが去った後、列車から一つの影が降りる。
低い背丈、無機質な表情、色のない頭髪、そして、黒い車掌役の制服。
それは、一人のVivianであった。
しかし、だらりと垂れた両足は、その土を踏みしめてはいなかった。わずかに宙に浮いた体、そこからとめどなく溢れる鮮血は、それが動く度にぼたぼたと大地を濡らし、くるくると、折れた関節に任せて出鱈目に振り回される四肢の音は、まるでマリオネットのように不規則で甲高かった。
見えない何かが、そこにいた。
そして、《そいつ》は、その少年の半ば骨の浮いた右腕を貪りながら、きょろきょろと、あたかもその両目がそうであるかのように、周囲の景色へとその視線を振り回していた。
誰も、いない。それを知った直後、虚ろだった少年の目に、薄らと光が宿る。
ゆっくりと浮き上がる。その瞳には、まるで星のように輝く、この世ならぬ、鮮やかな柑子色の光が瞬いていた――。




