星の声①
「前回のあらすじ」
迫り来る右手の竜に、ロット・ワンはひたすらに引き金を引く。
無数の弾丸は竜の体を引き裂き、爆ぜ散る炎は輝けるその肉を焼く。
死なずの竜への、何の意味もない抵抗。
しかし、それはかつて人類が掴んだ「幸運」の再現であった。
最後の最後にそれを掴み取った彼は、落ちゆく竜の姿を背中に、いよいよ《星見台》の輪郭を目にするのであった。
「《教授》? 聞こえていますか、《教授》?」
囁きが、かすかに耳を撫でた。
彼は、静かに昇ってゆく自らの意識に、ふと一つ深い息をつく。
夢にも似た、ぼんやりとした感覚だった。
「《教授》。列車が、近づいております。おそらく、《ダーガー》より承りました、ジャン・ジャルジャック様の御一行かと」
温かさが、手の甲に伝う。
しかし、彼には何も見えなかった。
彼の目の前には、ただどこまでも続く漆黒の闇ばかりが広がり、その手を取ろうとも、その温もりを追おうとも、何も映ることはなかった。
闇は、彼にとって何より恐ろしかった。
ゆえに、彼は耳を立てた。遠く、どこまでも遠く、見えないものをどうにかして感じ取ろうとして、彼は残された自らの感覚に、ありあまるすべての意識を集中する。
鼓動が、一つ響いた。
「……わかっている。わかっているよ、《エリン》。聞こえていたさ。星の声だ。声が、ずっと私に教えてくれた。酷い雑音だ。けれども、始めのそれは、実に美しい。そのためかな。嬉しいことに、私にはそれが、彼女の歌に聞こえたよ」
彼は、同じように耳を立ててくれている誰かに向かって、ふと小さな笑みをこぼす。
温もりが、さらに彼の手に重なった。
「さあ、参りましょう。本日は、もう十分です。声のことは、もう私どもにお任せください」
「……ああ」
見えない両目に、熱いものが浮かんだ。
しかし、それを悟られるより先に、彼はのっそりと立ち上がる。
せせこましい空間に、何人かが駆け回る音が響いた。
彼は、彼の頭にかぶせられた、重苦しい大きな帽子が取り外されるのを感じた。
靴を鳴らし、ガウンを正す。
長く座っていたせいか、体はどこか重かったが、固く結ばれた一つの手のおかげで、その一歩を踏み出すのに苦労はしなかった。
「連れて行ってくれ、《エリン》」
「はい、《教授》」
コツンと鳴る、小さな足音。
それに導かれて、彼は冷たい床の上を、のそのそと探るように歩いてゆく。
彼は、《教授》と呼ばれていた。
ゆえに、その出で立ちも、そして振る舞いも、どこか学者然とした装いをまとっていた。
黒いガウンに、大きな靴。曲がった背中と、その肩にかけられた毛皮の外套は、深い思慮を思わせる閉じられた小さな両目と合わさって、彼に奇妙な雰囲気をまとわりつかせていた。
しかし、それでも彼は、《人》ではない。
色のある世界。彼の視界を離れた他の者たちのその目には、それがおぞましいほどに写り込んでいた。
だらりと揺れる、髭の如き溶けた皮膚。無数の鍾乳石のような、その黄ばんだシミだらけの顎の上には、獣のような鋭い牙が、唇のない剥き出しの口に幾重にも並び、そして、その周りに広がる痩せこけた頬が、そんな彼の顔貌を、まるで髑髏のように浮かび上がらせていた。
病んだ黄土色の歪な頭部には、毛髪と呼べるものは一切なく、代わりに、あの顎のそれに似た無数の触手状の皮膚が、時折妙な体液を垂らしながら、前へゆく巨躯に合わせて、ざわざわと音を立てて蠢いていた。
名前さえ知らぬ、ただ一人の《怪物》。
けれども、それはそのような恐ろしい姿をしてなお、その輪郭は、汚らわしいほどに人のそれによく似ていた。
そして、そんな彼の手を取る、一人の少女。
紫色の簡素な使用人服に身を包んだ、雪のような白い髪を持つその少女は、キチン質の黒い爪がのぞく悪魔のような彼の手を、まるで祖父のそれであるかのように穏やかに握り締め、ゆっくりと歩き始めた。
その顔に、恐れはない。
「《教授》、聞こえますか?」
冷たい渡り廊下に、少女の声が響く。
見れば、淡い光を帯びる、不思議なえんじ色の両目が、ふと黒々と染まる窓辺に向けて、ひっそりと向けられていた。
「《まほろば》です。《まほろば》の音が聞こえます。今日はその日なのです。今まではわかりませんでしたが、今、やっと聞こえています。あの空の向こうに……」
「だから、言っただろう。私は、嘘は言わないよ」
そう言って、その怪物は小さく笑った。
濁った、耳障りな声。けれども、その顔を見上げる小さな紫色の少女は、不思議と、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
怪物は、少女の「嘘」を知った。
しかし、彼にはそれでよかった。今はただ、そのやり取りを、その一歩一歩を、噛み締めるように歩く――それだけであった。
これは、語られざる小さな日常。星々を巡る物語の、一つの幕間である。
続きは一週間以内の予定です。




