《天秤》の右手③
「前回のあらすじ」
《天秤》の右手と対峙する一行。
ロット・ワンはその竜を滅ぼすべく、自らの《杭》を構える。
しかし、その竜は奇妙な「声」を持っていた。《杭》の放つ一撃をその「声」でもって跳ね返したそれは、悠々と舞い上がり、再び襲撃の構えを見せる。
これに対し、意を決したロット・ワンは、竜を撃退するべく、自らの直感を頼りに列車の屋根へと登った。
頬を抜ける風が、やけに鋭く感じた。
ロット・ワンは、眼前をかすめる純白の毛並みに、思わず膝を折って左手を着く。
不安定な足場が、そんな彼の体重を吸って振り子のように揺れ回り、刹那に走る焼け付くような痛みが、ふとその視界に赤々と溶け出す左手首を映し出す。
「器用なもんだね。あいつ、《牡羊》より強いんじゃない?」
ノイズがかった声が、わざとらしく呟いた。
彼は、軽やかに反転し、再び突っ込んでくる柑子色の一つ目を睨むと、左腕を上ってくる刺すような灼熱感を堪えて、すぐ目の前の空白へ飛びつくようにローリングする。
ひやりとする背中を、炙るような熱が横切った。彼の右目の端を、悠々とした純白の尾が駆け上がり、そこからたなびく煙のような蒼い燐光が、闇のキャンバスに誘うような一筋の美しい軌跡を描き出す。
戦いは、ほとんど一方的と言ってよかった。無明の中空を我が物顔で駆け回るその小さき竜は、自らの身に恒星の如き熱を纏わせ、彼に向けて何度も突進を繰り返す。それは、直撃こそしないものの、わずかにかする彼の体を削るようにじりじりと焼き焦がし、緩慢ながらも、確実にその精神を追い詰めつつあった。
鬱陶しい。彼は、悔しげにこぼれる舌打ちを苦々しく思いつつ、ようやく生まれた短い隙を見計らって、もう一度勢いよく走り出す。
「バベル、《オレオール》は?」
「ダメだね、急すぎる。目一杯急いでも、たぶん十分はかかる。それまで、君が生きているとはとても思えないな」
呆れたようなバベルの声に、彼は小さく唸りを上げる。
深い闇の中に、黄金色の火花が吹き上がった。
竜をも殺す《好例》の力。それは、彼の苛立ちを表すかのように、その全身から電流のような甲高い音を響かせ、削り取られた傷口に、目もくらむような激しい火柱を吹き上がらせる。
失われた外殻が、まるで生きているかのように再生してゆく。マグマのような、粘性を持ったその不可思議な現象は、彼の左腕からしつこい痛みを取り除くとともに、その頭の中に、ふつふつと沸き立つ小さな高揚感を浮き上がらせる。
前へ、前へ、とにかく前へ――。
一つの直感が、彼を列車の最後尾へと駆り立てる。
その行動に、何の根拠があるのだろう。ふとよぎる理性。しかし、それでも彼は止まらなかった。
これは、ある意味自殺的な賭けである。外せば、彼はきっと自らの逃げ道を失うことになるだろう。しかし、たとえそうであろうと、どうにかしなければ未来はない。相手は《星の竜》。人ならざるその存在を前に、人として許される道理などありはしないのだ。
戦いの筋書きは、その時にすでに決まっている。うすのろの理性を追い払った彼は、取り戻した《好例》の力をひしひしと感じながら、高鳴りゆく心臓の鼓動に、自らの両足を影のように重ね合わせる。
オォォン……。
ハープのような声が、音階とともに真っ直ぐに下ってくる。
それに合わせて、彼は勢いよく右足を滑らせた。
視界が、大きく天を仰ぐ。光一つない夜空を、柑子色の太陽が純白の四肢とともに横切った。
「お見事。でも、次で当てられるよ」
その声とともに、彼は跳ねるように飛び起きる。
幸い、運はまだ彼に味方してくれているようであった。先ほどの軌道、獲物の場所を完全に捉えた竜の一撃は、あえて身を倒すことでどうにか避けることができた。
立ったままであれば、きっと突き倒されていただろう。彼は、徐々に精度を上げてくる竜の攻撃にひやりとしたものを感じる。
しかし――、
「――いや、もう次は無い!」
言うやいなや、彼は迷いなく跳び上がった。
獣のような四つ足の姿勢、両足首をバネのように縮めたその跳躍は、一瞬の浮遊感を前触れに、彼の全身を、まるで世界からたたき出されたかのような暴力的な加速度でもって前方へと放り出す。
「おい馬鹿――!」
過ぎ去る景色が、ガラスのようにその声を遮った。
そうして訪れるのは、叩き潰されるような激しい衝撃。全身を打ちつける激痛と破壊音は、《好例》の力を発現してなお、彼の頭の奥に異様に高い耳鳴りを響かせ、ボールのように跳ね回る視界に、見覚えのない白いフラッシュをバチバチと瞬かせる。
曲がり道にあったなら、きっとこんなものではすまなかっただろう。
痛みに唸りながら、彼は自らが突き破ってきた貨車のドアと、そこから覗く連結部のわずかな隙間を見て、思わず大きなため息をついた。
「――余計なことを言ったと反省しているよ」
「そうだな。でも、なんとかなった」
「勘弁してくれよ。引き返すとか、次で降りるとか、もっと常識的な判断はいくらでもあるだろうに」
呆れた声に、彼は思い出したように「ああ」と呟く。
確かに、考えれば他の方法もあったかもしれない。だが、もう避けられないと思った瞬間、体は目の前にある手段を迷わず掴み取っていた。
走行中の列車上での跳躍。それは、常識的に考えれば狂気の沙汰に等しい。前進する列車の速度と、空気抵抗、そして何より再着位置が噛み合わなければ、最悪の場合車外に放り出されていただろう。
ふと浮かぶ光景に、自身でも思わず乾いた笑みがこぼれる。
しかし、その冒険は十分な成果を彼のもとにもたらした。
列車の最後尾、そこは最も切り捨てやすい場所。ゆえに、そこには貨物の中で最も危険か、あるいは最もどうでもよいものが収められる。
「ともあれ、目的地へようこそ。どうやら、君のカンは的中のようだ」
そこにあったのは、目を奪われるような武器弾薬の山。
物々しい黒いケースに収められ、簡易の覆いとともに貨車の床にくくりつけられたそれらは、まるでそれだけで戦場を思わせる圧倒的な存在感を放ち、そして、わずかに顔を見せる無数の銃口が、まるで目のように彼の姿を睨みつけていた。
ライフル、機関銃、ガトリング砲、迫撃砲、擲弾銃、果てはクレイモアから解体された榴弾砲の部品まで――。多種多様な装備をまとめて詰め込んだようなその武器庫に、彼はぞっとするような胸の鼓動を感じずにはいられなかった。
《星見台》は、自活のできない都市である。ゆえに、食料をはじめとした日々の必要物資は、列車を用いて、《王国》から定期的に輸送しなければならなかった。
その中には、当然ながら武器弾薬の類も含まれる。それらは、多くは《星の竜》から都市を防衛するために必要なものであるが、《星見台》の場合、そこはやや事情が通常とは異なっていた。
「《ダーガー》はやり方を変えない。今回ばかりは、ちょうど幸いしたね」
かかと笑うバベル。
そこに並んでいたのは、今や《王国》では使われなくなった、古い旧式の兵器ばかりであった。
彼は、最初に目に付いた箱から、およそ四十センチ長の一丁の擲弾銃をすくい取る。
見れば、確かにその銃身は、年代を思わせる荒っぽいデザインと、そして洗練されているとは言い難い非効率な部品構造をしていた。
しかし、彼はそれをあえてもう一丁手に取る。どころか、二丁、三丁と次々と覆いを剥ぎ取るや、何も言わず、そこに手早く弾丸を詰め込み始めた。
「何発で追い払える?」
短く、バベルに聞く。
「わからないよ。でも、いいことを教えよう。君は今、ジャン・ジャルジャックの部下だ」
「――《悪魔》め」
べったりとした微笑が、頭の中に底意地の悪いものを響かせた。
なるほど、そうであれば話は早い。目に付くすべての箱に飛びついた彼は、その《声》が聞こえる瞬間まで、狂ったようにそれを開け続けた。
黒々とした足元に、ぽつぽつと武器が散らばり始める。そうして気づいた時には、彼の全身には種類を問わないあらゆる武器と弾薬が、まるでコートか何かのように、じゃらじゃらと音を立てながら、みっちりと尾を引いて張り付いていた。
「さあ、勝負だ」
ハープのような声に、彼は迷わず飛び出した。
再び対峙する、二つの視線。彼は、一息に貨車の屋根へと飛び移ると、背中に背負ったガトリング砲を滑らせ、抱えるように両手で握り締める。
生暖かい風に、焦げた匂いが吹き抜ける。かくして、《右手》の竜との逃走劇は、ついにその決着の時を迎えるのであった。




