《天秤》の右手②
「前回のあらすじ」
《星見台》へと向かうロット・ワンは、道中の列車の中で、先の外征で起こった一つの惨事を知らされる。
《管理者》の暗躍、《三眼》の竜――。
様々な言葉が錯綜する中、彼らの前に、柑子色に輝く一つの星――《天秤》の右手が現れる。
七色の薄翼が、撫でるように宙をかいた。
ロット・ワンは、ぶるぶると高まりゆくガラスの振動を前に、その右腕を盾のように身固く構える。
柑子色の一つ目が、一切のためらいなく真っ直ぐに彼を居抜き、蒼い炎を纏う四本の足が、光一つない常闇の中に煙のような燐光の足跡を刻む。
接触は、すぐそこに迫っていた。彼は、右手首に備えられたコッキングレバーを引き、擦過音とともに上腕から自らの得物を引き上げる。鈍い輝きを放つ、一本の《杭》。それは、まるで彼の「覚悟」を感じ取ったかのように、静かに、しかし徐々に高だかく、歌うような鈴の音を辺りに響かせ始める。
《竜》は、殺す――。
世界が、ゆっくりと縮まる。彼は、《好例》の使命が自らの精神を支配し始めるのを感じつつ、来たるべき瞬間に備えて、ふっと静かに息を吸い込む。
《星の竜》の中でも、飛行能力のあるものは特に厄介だ。《杭》の届かない範囲まで飛び上がられれば、他に武器を持たないレギオンにはどうすることもできない。一応、背部に取り付けられたスラスターによる跳躍という手段もあるが、それも多くは使えない。
ゆえに、そいつは一撃で仕留めなければならない。身と身が触れ合う刹那、そいつの一撃が自らをもっていくよりも先に、その懐に致命的な一撃を叩き込む。
《好例》だからこそできる、捨て身の攻撃。それを理解してか、デリンジャーは戦うことよりも、少し離れた物陰で身を伏せるマルカと大隊長を守るための位置へと素早く退いていた。
「カッとするなよ。あいつ、なんかおかしい」
「わかってる」
バベルの声に、彼は短く応じる。
一秒、二秒、三秒、四秒――。ついに、柑子色の輝きが夜のスクリーンを埋め尽くす。
今だ――!
窓ガラスが、勢いよく砕け散った。
畳まれたカーテンが鳴子のように震え、凄まじい嵐の叫びが、生暖かい風とともに入り込んでくる。
彼は、右腕を勢いよく脇へ引いた。そいつが壁を突き破ってきた時、それがそいつの最期だ。彼は、すぐそこに迫る未来に先手を取って、右腕の《杭》を突き上げるように繰り出す。
しかし――、
「――待て、振るなっ!」
突如、バベルの叫び声が頭の中に響く。
ハープのような鳴き声。唐突な警告に勢いを乱された彼は、反射的に繰り出した一撃を無理矢理抑えようとして、ぐらりと前のめりに姿勢を崩す。
夜を破る鐘の音が、はやし立てるような鈴の音とともに高々と車中に響き渡った。
オォォン……オォォォォン……!
その瞬間、七色の輝きが、彼の目の前で滑るように翻る。
柑子色の一つ目が、まるで吸い込まれるようにして窓の外へと消え、柔らかな純白の毛並みが、しなりとした肉体とともに軽やかに円を描く。
そうして、そいつは再び鳴いた。満足したような、あるいはせせら笑うようなその声は、突如として踵を返すと、颯爽と宙を踏む四本の足に乗って、再びもとの中空へと舞い上がる。
「ちくしょう、あの野郎!」
珍しく、バベルが声を荒げる。
バランスを崩し、両手を床につけていたロット・ワンは、突然の出来事に揺られるような混乱を覚えつつも、それを振り払うように、手の甲を睨む両目を素早く持ち上げる。
そこで、彼ははっと気づいた。さっきまで何事も無かった車中が、まるで嵐にでも引き裂かれたかの如く、滅茶苦茶に砕け散っていることに。
「なんだ、これ……」
慌てて三人の姿を探す。
いまや、車中にあって無事なのは運転席へ続く頑丈な鉄扉のみであった。床には亀裂が入り、窓ガラスは割れ、いくつかの照明が弾けて火花を散らしている。座席は傾き、穴の空いた一部の天井からは、それの構造物と思われるバラバラの鉄くずが、まるで瓦礫のように点々と散らばっていた。
「くそっ、やられた……」
がらりと音がして、デリンジャーが座席の間から現れる。
その下にはマルカと大隊長の姿があり、気だるげに放り捨てる彼の両手には、どうやら崩れてきたと思しき天井の鉄板があった。
「デリンジャー!」
ロット・ワンは、急いでデリンジャーのもとへと駆け寄る。
怪我は無い。足元の二人も、どうやら無事のようだった。
「遊ばれたな。だが助かったぞ、あのまま振り抜いていたら、今ごろ俺たちは全員お陀仏だ」
割れた窓の外を睨みながら、デリンジャーは言う。
そこには、列車の進む速度に合わせ、付かず離れずの距離を保ちながら並行するあの《竜》の姿があった。
「おい、列車を止めろ! 緊急事態だ、聞こえているだろう!」
運転席の鉄扉に詰め寄り、デリンジャーが叫ぶ。
「ダメです! 《ダーガー》からは、何があっても列車を止めるなと厳命されて――」
「機械の言うことだぞ!」
運転手のVivianの声が、一際猛る大男のそれに遮られる。
しかし、それでも列車は止まらなかった。夜を駆ける一筋の線は、まとわりつく《竜》を振り払おうとするかのようにむしろその速度を上げ、無明の地平線に、おかしな逃走劇が幕を開ける。
そこに来て、彼はようやく何が起こったのかに気がついた。車中の損害は、ちょうど、彼の立っていた場所から後方に向けて半円形に向かって広がっていた。それはつまり、彼が叩きつけたようとした「力」が、何らかのかたちで返されたのだということをあらわしていた。
「バベル、まさかさっきのは――」
「ご名答。あいつ、嫌らしい《声》を持ってるね。厄介な奴だ。《杭》はもう、使うんじゃないぞ」
いつになく真剣な声に、彼は密かに歯噛みする。
油断した。むろん、小さいからと侮っていたわけではない。相手は《星の竜》。そうすることがどれだけ危険な行為かはよくわかっている。しかし、それでも突然の出来事に、一つの認識を緩めてしまった。
《星の竜》が持つ何よりの恐怖。それは一瞬で命を摘み取る圧倒的な力でも、世界の理から外れた異様なる生命力でもない。それは、すなわち未知そのものであることだ。
もし、これが何でもない地上での遭遇であれば、おそらく様子を伺いつつ素直に逃げていただろう。《ダーガー》の情報もないまま、見知らぬ《竜》と戦うなど絶対に考えられない。何しろ、相手は未知の存在。どんな力を持っているのか、どんな驚異を隠し持っているのか、まるで予想ができないからだ。
しかし、状況は彼に攻撃を選択させた。遊ばれた。その意味を理解して、彼は冷たい闘争心に火がつくのを感じた。
「デリンジャー、ここを頼む!」
叫ぶと、彼は列車の後方へと素早く移動する。
そして、貨車へ続く連結部の扉をおもむろに開け、そこから揺れ動く貨車の屋根を睨むと、そこに向かって、張り付くように勢いよく飛びついた。
「お、おい、お前、何をするつもりだ!?」
気がついたデリンジャーが、慌ててその背中に向かって叫ぶ。
だが、まともに喋っている余裕など無かった。ロット・ワンの姿を見るや否や、並行する《竜》が、突如として再び突撃してきたからだ。
オォォン……オォォォォン……!
風のように吹き抜ける、ハープのような鳴き声。
幸い、その一撃は身を伏せることで凌ぐことができた。しかし、揺れ動く屋根は思った以上に不安定で、それに水のような重々しい向かい風が重なって、車中のように自由に動き回ることなどとてもできそうになかった。
だが、それでも彼はあえてその場所を選んだ。それは、いわゆる合理的な理由に基づく判断というよりも、むしろ、これまで培ってきた「カン」に基づくものであった。
「しばらく囮になる。列車を、壊させるわけにはいかない」
言いつけて、彼はのっそり立ち上がる。
ぐらつく足が、浮島のような足場の上で奇妙な浮遊感をまとう。
しかし、一、二、三、四――。
一息に最後尾を睨んだ彼は、そんな不安定な姿勢をものともせず、まるで豹のような姿勢から、そこに向けて弾丸の如く一直線に走り出した。




