奇妙な再会②
「前回のあらすじ」
《天使》の声に呼ばれ、再びロット・ワンは目を覚ました。
手術台の上、体を起こした彼は、そこで奇妙な「同居人」が増えていることに気づく。
《大隊長》と再開したことで、いくつかの記憶を取り戻した彼は、その老人に命じられるまま、雨だれの城下へと再び足を踏み出した。
《城下》の朝は長い。いや、そもそも朝など無いと言う方が正確かも知れない。
しっとりと大地を染める、色の無い雫。そのすすり泣くような雨音の下で、無数の人影が、眠るようにうずくまっている。わずかばかりの街灯は、さざ波を立てる水たまりの上で淡い明滅を繰り返し、力なく交差する黒々とした足は、ざわりとした擦過音とともに、その上に煤色の泥を撥ね付ける。
《城下》は、廃人の街である。そこにあるのは、手入れが放棄されて久しい都市の残骸と、半ば打ち捨てられるように押し込まれた意思のない人々だけであり、そこに、いわゆる人の営みと呼べるものはまったく感じられなかった。
時から見捨てられた、どこまでも続く退廃的な景色。その鬱屈とした鉄と瓦礫の街は、まさに《王国》から切り離された《城下》の名に相応しい装いをあらわしていた。
「酷いところだな、ここは」
ふと、その老人はつぶやく。
見れば、その視線の先には見上げるような《テンティウム》の大門があり、それに連なる山脈のような城壁の輪郭が、にわかに色づく内側の灯りに縁どられてぼんやりと浮かび上がっていた。
「いや、すまん。我らの方が、よほど酷いところだったな」
その独白は、屋根を打つ雨音に溶けるように消える。
それがどういう意味を持つのか、後ろを行くだけの彼にはまだわからなかった。
しかし、つぶやきは時として道標である。前を行く足取りは、その門に着く一つ手前でふと左へと行き先を変え、そこで彼――ロット・ワンは、自らの行くべき場所が、あの煌びやかな《テンティウム》の街でないことを知ることとなった。
「ついたぞ。ここが、約束の場所じゃ」
そこは、城下の寂しさの中にあって、唯一喧騒に包まれていた。
ガラクタのような都市に、ぽっかりと空いただだっ広い広場。そこには、背の曲がったレギオンたちが、やや苛立ちを伴った気だるげな足取りでいくつかの列を成して並んでいる。その先には、十人ばかりのVivianたちが控える横倒し型の大きな円柱状の機械があり、そこに空いたダクト型の四角い戸口からは、注射器にも似たシリンダー状の小瓶が、ホルスター状の拳大の包みに収められて続々と吐き出されていた。
《城下第二区》――通称、《配給所》。
そこは、《綬位》を持たないレギオンたちの食堂。
今日を生きるばかりの彼らにとって、そこは《王国》と接点を持てる数少ない場所であり、同時に、自分たちがまだ見放されていないことを確認できる唯一の場所でもあった。
「ヒイイイイイイイイイイイイイイイイッ――!!!」
二人の隣を、一人のレギオンが絶叫を上げながら走り去る。
黒々とした仮面は、その下にある表情を覗かせはしない。だが、彼の耳は、そこに満ちたある種の悲喜を捉えずにはいられなかった。
城下の食事、それは長い歴史上の、どんな食事にも勝る恵み深い滋養の液体。その白濁した薄い赤色に秘められたエネルギーは、それ一本で一人のレギオンを数日間養うことができるほどの力を秘めている。それは、いまや忘れ去られた彼らの中身を潤し、その擦り切れた血と精神に、一時ばかりの活力を供給する。
だが、城内の者たちは密かに笑う。幸福とは、まったく美味なものなのだと。
レギオンは貴重だ。心の折れた劣等と言えど、そうそう自殺されてはたまらない。ゆえに、その食事にもある種の気配りが施されている。たとえ嫌でも生きたいと、そう思えるような。
「待たせたのう、恩人殿」
ふと、列の最後方、人気の失せた角地に、その老人はある一人の影を見つけた。
「待ってはいない。ただ眺めていただけだ」
そう返すのは、老人とはまったく対照的な、大岩の如き長身のレギオン。
腕を組み、枯れ木のような街灯にもたれ掛かった彼は、やってきた二人の姿を見て、どこかバツが悪そうに小さなため息をつくと、その大きな赤い両目をぎらりと向けた。
「デリンジャー」
一等低い声が、巨躯の耳を震わせる。
そこにいたのは、もう一人の《好例》――デリンジャーであった。
「久しぶりだな、ロット・ワン。いや、お前からすれば、そう遠い話でもないか。《天使》は、相変わらずか?」
その言葉には、かすかな笑みが乗っていた。
思わず、どろりとした感覚が頭の中を濁らせる。途切れた記憶は、彼を必ずしも敵であるとは主張していない。しかし、それでも顔を見れば嫌な感触を思い出さずにはいられなかった。
今度は、何だ。理由のない警戒心が、じわじわと胸を登ってゆく。しかし、それは図らずも、彼にその男が纏う違和感に気づかせるきっかけとなった。
なんだ、あれは――?
彼が見出したもの、それは、その男の右上腕をべったりと塗りつぶす、溶けたような傷跡。
それは、わずかに凹んだ肩口から肘下に向けて擦り付けるように伸び、甲羅のように規則正しく配列された外殻の装甲部に、不自然な曲面を露呈させている。さらに、よく見れば、それは右腕のみならず、足や胴体、側頭部など、およそ全身と言い換えてよいだけの部位に点々と焼きついており、大小合わせれば、同様の傷跡は二十箇所は下らないように思われた。
「――ああ、これか。気にするな。少し……火傷しただけだ」
視線に気づいたのか、デリンジャーはそう言ってはぐらかす。
その瞬間、彼の頭に鋭い耳鳴りが響き渡った。
かえせ――。
突き上がる鈍痛、焼けるような鈍い痛み。
全身を襲うそのおぞましい感覚に、彼の脳髄が、思い出してはならない過去を蘇らせる。
彼は、失われてなどいなかった。そのことに気づいて、彼は、たまらず自らの頭を抑えてよろめいた。
《好例》の炎は、あらゆる恒常性を否定する。
それに焼き立てられれば、たとえ星の竜と言えど、その生命に大きな危機が及ぶ。なぜなら、《好例》の炎――あるいは《天使》の炎とも呼ばれるそれは、生命が本来あるべき形を保とうとするあらゆる機能を破壊し、その構造を完全に歪めてしまうからだ。
そして、《好例》の肉体は、そんな力とは反対に、竜のそれにとてもよく似ている。どんな状態からでさえ、瞬く間に再生する《好例》の力は、まさに、命無き外殻に命を与えるが如き業であり、それに「傷跡」と呼べるモノをつけられるのは、同じ力を持つ《好例》以外にはあり得なかった。
「まさか……」
確信が、絞られるように口をつく。
ストロボがちらつく。断片的にフラッシュバックするその記憶に無いはずの光景には、焼き立てられ、けれどもなお立ち上がる、岩のような「人」の姿があった。
明滅する、赤い二つの目。異変を察したのか、大隊長が確認するようにデリンジャーを見た。
《好例》の力を、人類に向けたことはない。ゆえに、その震えるような恐ろしい罪の衝撃に、彼自身でさえ、次の一言を紡ぐ勇気を見いだせなかった。
しかし――、
「捨てたんだよ、俺は」
それは、すぐに低い笑みによってかき消された。
「――捨て、た?」
「そうだ。あまりにうるさいんでな、あの《天使》ごと捨てのさ。《好例》など、俺には元々縁のない力だったらしい。邪魔だと言って追い出したら、ついでに持って行かれた」
そう言って、彼は中空を撫でる。
そこに現れるのは、彼のカルテとも言うべき、身体情報が書かれた立体映像。
しかし、それは途中で不自然に途切れ、特に、《好例》の文字が記載された以下の部分が、まるで何者かに破り取られたかのように、ざらついた白黒のノイズによって完全に塗りつぶされていた。
「この傷は、その時の傷。だからこいつは、俺自身で残した傷だ。新入りに、理解される因縁はねえよ」
その時、彼はようやく違和感の正体に気づいた。
何かが、遠い。
その、まるで変わり果てた友人と再会したような感覚は、ふと彼の心の隙間にはっと冷たい風を差し流す。そして感じ取る。自らの見ているその男が、かつて見たその男とは、もはやまったくの別人であるのだと。
《好例》を捨てた、本当の姿。それに気づいた瞬間、彼の頭の中に巣食う、無言のまま宣告を待つ重苦しい男の幻影は、押し寄せる記憶のストロボとともに、まるで焼け落ちるようにぼろぼろと音を立てて崩れていった。
「あんた……」
言葉を編む。
この酷い誤解を、どうにかして弁明しなければならない。すべての記憶が戻ったわけではなかったが、しかし、それをしなければあまりにも情けなさすぎる気がした。
自分は、この男に救われたのだ。見ず知らずの、それも理不尽な憎悪さえ向けていた、この男に。
彼は、深く息をついて立ち直る。
次の言葉を探った。
しかし――、
「いつまで話し込んどる。さっさと行かねば、今に列車が出ちまうぞ。爺の気は長くないんじゃ、さあ終いじゃ終い!」
それを言うには、少しばかり時が空きすぎた。
冷たい朝雨が降り止むのと同時に、その老人は演技がかった身振りで不満を言い表す。
「まったく、《医者》にかかるというに、もさくさと道草を食う患者がいるか……」
彼の耳を、二つの微笑が吹き抜ける。
そして、目覚めたばかりの彼に、新たな行き先が告げられたのは、そんな時であった。
「そうだな。……実はな、《ダーガー》からお前さんに、ある命令が出ている。《星見台》の御仁が、ぜひとも、だそうだ。そういうわけで、今回は俺が同行役だ。詳しいことは……また後で話そう」




