奇妙な再会①
「前回のあらすじ」
《双子》との戦いを終え、言葉を交わす二つの影があった。
ジャン・ジャルジャックは、「ワイン」を啜るその矮小な獣の男を前に、ふと皮肉げな自賛を零す。
けれども、それは終わりを意味するものではなかった。
彼は、これから始まるであろう未来を見上げ、そしてその傍らで、再び《好例》の目覚めの時が近づいていた。
記憶の再統合が望まれる。
なに、拒絶しなければすぐに終わる話だ。
好例の使命において、記憶とは不可欠なものであり、同時に有害なものである。
ヒトは、同じ意志を持ち続けることはできない。どんな強靭な人間であれ、その心には常に隙があり、そして、人生はそれを穢すのに十分なだけの悪意で満ちている。
だからこそ、それには狂気が必要なのだ。自然な、愚かさの結末ではない、正しく設計された、人工の狂気。どのような苦難、どのような悦楽にも決して揺るがない、反自然の人類。文字通りの「鉄人」。
ゆえに、苗床は自らの手で造り上げた。
《最初の好例》。その身体、その魂は、とうに自らの物ではなくなっている。灰の下で燻る熾火が、じわりじわりとその余りを焦がすように、ゆっくりと、その輝きはお前を喰らい、静かに萌芽の時へと近づいている。
運命は、《彼女》を必ずや解き放つだろう。これは計算ではない。預言である。
意志と記憶は、いつか訪れるその時まで、《彼女》を守る灰の檻。お前という名の、命の檻だ。
ゆえに、今はまだ眠れ。私は、そのためのプログラム。お前の記憶を、切り繋ぐもの。
さあ、よいぞ。《天使》の声を目覚ましに、再びもとの悪夢へ帰るがいい。散り散りに歪められたお前の望みは、今、正しく消去された――。
初めに感じたのは、叫ぶような耳鳴りだった。
浮き上がってゆく意識、近くで誰かが呼んでいるような、触感を伴った音。それは、それまで闇に包まれていた視界をはっと光の中へと引きずり出し、ぎちりと唸りを上げる堅苦しい両腕に、痛みとともにリアルな質感を与える。
そうして飛び込んでくるのは、からりからりと揺れ動く、橙色の灯り。煤色の天井に、ぼんやりとした黄昏色の稜線。それは、まだ曖昧な彼の頭に、ふと懐かしい感触を思い起こさせた。
「やっと起きた! まったく、毎回毎回退屈なんだよなぁ、これ」
「――バベル?」
その声には聞き覚えがあった。
けたたましく、出来の悪い目覚ましのようにキンキンとしたその声は、紛れもなく、彼の《天使》の声であった。
「そうだよ。いい加減そのパターンも飽きたけどね。おかえり、気分はどうだい?」
体調は悪くない。外殻に備わった五感の機能も、正常に作動しているようだ。
力を込め、体を大きく持ち上げる。
どうやら、彼は「手術台」の上で眠っていたようであった。手元を見れば、破れたクッションがところどころにその中身を露出し、そこから続く黄土色に変色したプラスチック製のベースは、その足下に意味のない配線をだらりとまとわりつかせていた。
城下第一区。そこは、見慣れ切った彼の我が家であった。
「大丈夫だ。なんだか頭が痛い気がするが、どうせお前のせいなんだろう。それより――」
言いかけて、彼は大きく一息をついた。
何かがおかしい。その言葉は、おそらく言わずともわかっているだろう。
見慣れた家の、奇妙な違和感。それは――傍からは失笑を禁じえない話であるかもしれないが――記憶のそれに比べて、あまりにも綺麗すぎることであった。
きょろきょろと、不審な視線をあちこちへ向ける。だが、無い。使い古しのガラス瓶も、どこから持ってきたのかわからないガラクタも、彼の自室を彩る様々なゴミも、どこにも無い。几帳面に整頓された棚には未使用の綺麗な瓶だけが並び、手術台を中心とする無機質な灰色の床には、備え付けの配線以外は塵一つ見当たらなかった。
誰が、こんなことをしたのだろう。ジャン・ジャルジャックか。いや、そいつはそんな男ではない。では自分か。当然否。とすれば、あとは《王国》の関係者か――。
嫌な予感が、小さな頭痛を連れてくる。彼の部屋で、違法とされる物資は少なくない。大半は、城下暮らしの廃人が、支給された物資から密かに作っている薬であるが、中には滅多に手に入らない、明らかに中央のレギオンが絡んでいるであろう物資もわずかにある。
一体、誰が――。
わけもなく膨らみ始める不安に、思わず胸焼けのような感覚を覚える。
バベルに聞くか。情けないものを感じつつも、彼は再び天井へと意識を向ける。
しかしながら、そこにもう一つの影が現れたのは、まさにそんな時であった。
「お目覚めかね。御公子殿?」
向かいの扉が、きぃっと低い音を立てる。
そうして入ってきたのは、彼の背丈の半分ほどしかない、小さな毛むくじゃらの生物。
「アラートが鳴ったのでね、そろそろかと思ったが、存外頑丈そうで何よりだ。わしの首も、どうにか皮一枚繋がったというところか」
黄ばんだ歯ににやりと笑みを浮かべるその生物は、背中に背負った大きな筒を無造作に下ろしながら、ぽかんと眺める彼の目の前で、どっかりと地べたに座り込んだ。
誰だ。反射的に浮かぶ疑問を、瞬間的な頭痛が遮る。
そうして思い起こされるのは、テンティウムの不自然なほど美しい街並みと、そこで出会った、何人かの人々の姿。
「――大、隊、長?」
こめかみを押さえながら、彼はつぶやく。
しかし、そこから蘇る記憶は、曖昧模糊とした混乱のヴェールに遮られ、どうにも繋がりが読み取れない。《牡羊》の死、父の幻影、テンティウムの街、そして眼前を覆い尽くす星々の群れ――。
ストロボのような、連続的なそれらの映像は、いまだ眠りこけていた彼の自我の中心で訴えるように明滅し、同時に沸き上がってくる奇妙な吐き気が、彼の喉に焼け付くような痛みを生じさせる。
こらえきれない咳が、音となって何度か窓を揺らした。
しかし、それは儀式的な苦しみだ。そうやっていれば、遠からずもとの平静が戻ってくることを、彼は知っている。そして、それは実際にその通りであった。
「――《子供たち》は?」
吐き出す言葉は、味気ないものだった。
しかし、そこで彼はようやく気づいた。記憶が、途中で途切れている。具体的には、《子供たち》の群れに囲まれ、そのまま貪り食われる瞬間で、だ。
「どうして、俺は生きているんだ?」
「どうして、じゃと? お前さんは――」
言いかけて、その老人は口をつぐんだ。
見れば、その首には拘束具のそれに似た不格好な「輪」がはめられており、その中央に設えられた赤いランプが、耳障りな甲高い警告音とともに怪しく発光していた。
「――そう、助かった。命拾いさせられたのよ、ジャン・ジャルジャックの謀でな」
影の滲む顔には、隠しきれない苦々しさがある。
ロット・ワンは、そんな老人の表情を見て、ふとガラスの砕ける音を思い出す。
「バベル」
「なんだい?」
「どうして、お前の声が聞こえる?」
奇妙な空白が、静かにその言葉を飲み込む。
思えば、どうして思い出せなかったのだろう。《デリンジャー》――。その名とともに蘇る大きなシルエットが、《ダーガー》の声を挟んで頭の中をよぎる。
夢ではない。なら、なぜ《天使》の声が聞こえるのか。記憶が正しければ、その力はほかならぬ《王国》の意思によって、確かに自分の元から剥奪されたはずだ。
欠落した過去を、反射的に漁る。しかし、いくら探せども、ごちゃごちゃと泡立った彼の頭は、彼自身に対して好意的な回答を与えてはくれなかった。
「――その質問は、もう二度目だよ」
ふふんと笑う、バベルの声。
彼は、そんな思わせぶりな口調の先にどんな事実が明かされるのかを想像して、思わず身構えずにはいられなかった。
しかし――、
「ふられたんだよ、あの男に」
返ってきたのは、そんなとんちんかんな言葉であった。
「ふられた?」
「そうだよ。うるさいのは、やっぱり嫌なんだってさ。そういうのは、お前の相棒にでも求めてろってね。酷い話だろ? でも、事実だよ」
嘘を言っている。彼の感情は、すぐに抗議の声を上げた。しかし、ほぼ同時に、直感はそれを真実だと確信する。
バベルは、基本的に嘘つきだ。常に茶化したような口ぶりで煙に巻き、問われなければ何かを隠していることもしばしばある。
だが、その嘘はあくまで曲線的な嘘だ。とどのつまり、非常に回りくどい表現や、切り貼りしたような言い方、オブラートに包んだ曖昧な言葉をするだけで、その先にある真実自体は変わらない。つまり、今回で言うところでは、「ふられた」という事実、すなわちデリンジャーが自ら《天使》を手放したという事実は、間違っていないということになる。
しかし、《王国》がそんなことを許すだろうか?
「納得はいかなかったかね。まあ、だろうな。お互いこういう身だ、しばらくは我慢するしかないだろうよ」
割って入った亜人の老人が、そう言って首輪を指差す。
その言葉を聞いて、彼はようやく、それと非常によく似た灰色の首輪が、自らの首にも巻かれていることに気づいた。
「寝起きですまんが、早速ついてきてもらうぞ。ああ、余計なことは言わんでくれよ。これから同じ屋根の下で住む仲、戦友の、命ってやつのためにな」
そう言って、老人は部屋の外へと歩き出す。
図らずも、部屋を片付けていた人物の正体は明らかとなった。
彼は、まだぽかんとしたものを感じつつも、くすくすと笑うノイズがかった声に背中を押されるような気がして、渋々ながら歩き出す。
城下の空は、まだ朝の冷たい雨雲に包まれている。




