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ニュクスの星にて  作者: 御御
《天秤》編
28/39

戦果と代償

 「死者一名、戦車七両、Vivian(ヴィヴィアン)六十三に、その他九百か――。また、ずいぶん酷い負け方だな、ジャン・ジャルジャック」


 芒洋と揺れる白煙を、生暖かい息が吹き抜けた。

 淡黄の「月」が見下ろす、テンティウムの街。その見捨てられた裏通りの一角で、橙色の薄明かりが、灰色の壁にぼんやりと二つの影を照らし出す。


 「手厳しいな。《双子ジェミニ》を囚え、《子供たち(ガキども)》も駆逐された。戦果は上々、文句無しの大勝利だ。さて、一体何が不足というのかな」


 肘かけに頬杖をつく、一人の男。

 彼は、目深にかぶったフードを所在無げに引っ張りながら、ふと、自らの「足」を確かめるように眺める。

 そこにあったのは、流木のように形無く歪んだ、二つの黒い輪郭。それは、恐ろしくも彼自身の身体より発し、その焼けただれた皮膚のような無数のひだの表面に、魚類の鱗に似た、いくつかの奇妙な金属片を浮き上がらせている。爪先はすでに原型を保っておらず、その様はさながら折り潰れた螺子のようで、かろうじて判別できる数本の突起が、それがかつて指であったことを痛々しげに物語るばかりであった。


 「負け惜しみを。《シェルター・ゲール》を押さえられなかった時点で、()()()()()負けよ。ましてや、貴重な戦力をあれだけ失ったとあれば、これから貰う妬み嫉みには到底つり合わん。負けも負け、大負けよ」


 ずるずると何かを啜る音がしたかと思うと、喉を鳴らす音とともに、鉄臭い悪臭がかすかに鼻腔をくすぐる。

 彼――ジャン・ジャルジャックは、その真っ赤な両目に鈍い光を揺らめせつつ、ふらふらとテーブルに着地する一脚のグラスを見て、ふと皮肉めいた微笑をこぼす。


 「――だが、()()()を無事に取り戻すことができた。手間はかかったが、あの馬鹿げた計画はなしはめでたく白紙だ。《天使計画》は続行される。十分な戦果だよ」


 自らに言い聞かせるような口ぶりに、もう一つの影は撥ねつけるように鼻を鳴らした。


 「裏切り者め。《ウォーラン・ウォーグレイヴ》は、あの世でさぞかし恨んでおろうな」


 雫の音とともに、鉄臭い悪臭がグラスに注がれる。

 しかし、ジャン・ジャルジャックは、その真っ赤な水面に映る毛むくじゃらの顔が、不思議と悪意ある笑みを浮かべているのを見逃さなかった。


 《旧種二号オールド・ツー


 彼と対峙する、その真っ白な毛並みの古い亜人サバイバーは、自らの足元から空のグラスを取ってくると、首をかしげるその男の手元に、コツンと音を立てて置く。

 薄汚れた、くすんだガラスだ。それは、橙色の灯りを受けてにわかに白い光を反射し、シミのついた小さなテーブルに、ほっそりとした薄い脚影を滲ませる。


 ()()()、か。


 ここに来るたび、彼は奇妙な感情を覚えずにはいられない。

 それは、この薄汚いグラスのせいでも、辺りに漂う香煙タバコのせいでも、ましてやとち狂った彼自身の()()のせいでもない。

 彼の意識を捕らえるもの、それはグラスへと注がれる、燃えるように赤い液体。粘性のある、どこか生暖かい熱を感じさせるその色彩は、その醜い指が指し示すくすんだ逆円錐形のくぼみに向かって、しっとりと、とめどなく落ちてゆく。

 その液体が何であるのか、彼はおぞましいほどよく知っていた。醜い亜人サバイバーの指先と重なる、ぽっきりと折れた蒼白い人類ヒトの指先。その、どこか鉛にも似た病的な暗い銀色の輝きを放つ輪郭は、欠け落ちた人差し指の第一関節の傷口から、文字通り、自らの生々とした死血を滴らせていた。


 「出涸らしじゃ。まあ楽しめ」


 真っ白な亜人サバイバーは、やけに濁った二つの白目をぎょっとむき出し、彼に微笑みかける。

 見れば、人差し指から落ちる液体は、いつの間にかぽたぽたとした雫ばかりとなり、その後ろで彫像の如く硬直する小さな()()も、どこか色を失ったように感じられた。


 《銀の死者》


 その冒涜的な雫は、紛れもなく、彼自身が持ち去ってきたものだ。

 それも、一度や二度ではない。《ヨロス》を通過する度に、彼はその死者たちを密かに盗み出していた。

 死んでいながら、なおもその内側に温かい鮮血を循環する、彫像の如き死体。彼は、その死血がかの友人の欲望を最も満たすことをよく理解していた。

 人類への憧憬。それは、亜人サバイバーが持つ根源的な病理である。


 「相変わらず、手首ばかり好む」

 「()()()は、まず見て楽しむものだからな」


 枯れた手首を後ろに放り投げながら、その老人は言った。

 うずたかく積まれた手首の山は、きつい香煙の中にあってなお、鉄臭い悪臭を放っている。辺りに飛び散る赤黒いシミは、擦って歩いた足跡につられて錆色のグラデーションを描き、まだ固まりきっていない新しい死血は、その傍らで床のタイルに滲むようにじわりと広がりつつあった。


 「《大隊長うらまれやく》は、もういないぞ」

 「安心しろ。《第二世代セカンド・ロット》の関係者のこりかすどもは、よくよく始末しておくともよ。若いもんの溜飲も、それで多少は下りるであろ――」


 自らが差し出したグラスに舌鼓を打つその老人に、彼はどうぞとばかりにそれを突き返す。

 掻き込むような音が、そこらじゅうに汚らしく響いた。

 それを挨拶がわりに、彼は左の肘掛に並んだボタンの一つを音もなく押す。すると、これまで座っていた座席が百八十度回転し、その両側に設えられた二つの車輪が、出入り口へ向かってからからと運動を始める。


 「《三眼みつめ》に気をつけろ、ジャン・ジャルジャック。どうにも頭が疼く。あれは()()ではないぞ」


 口回りを真っ赤に染めながら、老人は言う。

 車輪の足が一瞬止まり、かすかに覗く右目の赤光が、振り向きざまにその両目を一瞥する。

 だが――、


 「また来るよ、《少佐殿》」


 言葉は、ただそれだけであった。

 冷たい夜風が部屋の中に舞い込み、ふわりと揺れる白い煙が、鉄臭い悪臭とともに夜の戸口へと消える。

 テンティウムの「月」が現れたのは、それからすぐのことである。


 「――さて、切るか」


 左足を叩き、彼はつぶやいた。

 罪の感覚は、ある。しかし、一度踏み切ってしまった以上、もう止まることなどできない。吹き荒れる炎の怪物を思い浮かべながら、彼は静かに前へと進む。

 人気の失せた、無明の道。悪意に満ちた我らが地球ほしは、そんな彼の足取りを、夜の帳の下から密かに見上げているのだった。

新章「《天秤》編」、開始です。

なお、この章から前書きでの「前回のあらすじ」を省略させていただきます。


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