戦果と代償
「死者一名、戦車七両、Vivian六十三に、その他九百か――。また、ずいぶん酷い負け方だな、ジャン・ジャルジャック」
芒洋と揺れる白煙を、生暖かい息が吹き抜けた。
淡黄の「月」が見下ろす、テンティウムの街。その見捨てられた裏通りの一角で、橙色の薄明かりが、灰色の壁にぼんやりと二つの影を照らし出す。
「手厳しいな。《双子》を囚え、《子供たち》も駆逐された。戦果は上々、文句無しの大勝利だ。さて、一体何が不足というのかな」
肘かけに頬杖をつく、一人の男。
彼は、目深にかぶったフードを所在無げに引っ張りながら、ふと、自らの「足」を確かめるように眺める。
そこにあったのは、流木のように形無く歪んだ、二つの黒い輪郭。それは、恐ろしくも彼自身の身体より発し、その焼けただれた皮膚のような無数のひだの表面に、魚類の鱗に似た、いくつかの奇妙な金属片を浮き上がらせている。爪先はすでに原型を保っておらず、その様はさながら折り潰れた螺子のようで、かろうじて判別できる数本の突起が、それがかつて指であったことを痛々しげに物語るばかりであった。
「負け惜しみを。《シェルター・ゲール》を押さえられなかった時点で、お前さんの負けよ。ましてや、貴重な戦力をあれだけ失ったとあれば、これから貰う妬み嫉みには到底つり合わん。負けも負け、大負けよ」
ずるずると何かを啜る音がしたかと思うと、喉を鳴らす音とともに、鉄臭い悪臭がかすかに鼻腔をくすぐる。
彼――ジャン・ジャルジャックは、その真っ赤な両目に鈍い光を揺らめせつつ、ふらふらとテーブルに着地する一脚のグラスを見て、ふと皮肉めいた微笑をこぼす。
「――だが、あいつを無事に取り戻すことができた。手間はかかったが、あの馬鹿げた計画はめでたく白紙だ。《天使計画》は続行される。十分な戦果だよ」
自らに言い聞かせるような口ぶりに、もう一つの影は撥ねつけるように鼻を鳴らした。
「裏切り者め。《ウォーラン・ウォーグレイヴ》は、あの世でさぞかし恨んでおろうな」
雫の音とともに、鉄臭い悪臭がグラスに注がれる。
しかし、ジャン・ジャルジャックは、その真っ赤な水面に映る毛むくじゃらの顔が、不思議と悪意ある笑みを浮かべているのを見逃さなかった。
《旧種二号》
彼と対峙する、その真っ白な毛並みの古い亜人は、自らの足元から空のグラスを取ってくると、首をかしげるその男の手元に、コツンと音を立てて置く。
薄汚れた、くすんだガラスだ。それは、橙色の灯りを受けてにわかに白い光を反射し、シミのついた小さなテーブルに、ほっそりとした薄い脚影を滲ませる。
ワイン、か。
ここに来るたび、彼は奇妙な感情を覚えずにはいられない。
それは、この薄汚いグラスのせいでも、辺りに漂う香煙のせいでも、ましてやとち狂った彼自身の友人のせいでもない。
彼の意識を捕らえるもの、それはグラスへと注がれる、燃えるように赤い液体。粘性のある、どこか生暖かい熱を感じさせるその色彩は、その醜い指が指し示すくすんだ逆円錐形のくぼみに向かって、しっとりと、とめどなく落ちてゆく。
その液体が何であるのか、彼はおぞましいほどよく知っていた。醜い亜人の指先と重なる、ぽっきりと折れた蒼白い人類の指先。その、どこか鉛にも似た病的な暗い銀色の輝きを放つ輪郭は、欠け落ちた人差し指の第一関節の傷口から、文字通り、自らの生々とした死血を滴らせていた。
「出涸らしじゃ。まあ楽しめ」
真っ白な亜人は、やけに濁った二つの白目をぎょっとむき出し、彼に微笑みかける。
見れば、人差し指から落ちる液体は、いつの間にかぽたぽたとした雫ばかりとなり、その後ろで彫像の如く硬直する小さな手首も、どこか色を失ったように感じられた。
《銀の死者》
その冒涜的な雫は、紛れもなく、彼自身が持ち去ってきたものだ。
それも、一度や二度ではない。《ヨロス》を通過する度に、彼はその死者たちを密かに盗み出していた。
死んでいながら、なおもその内側に温かい鮮血を循環する、彫像の如き死体。彼は、その死血がかの友人の欲望を最も満たすことをよく理解していた。
人類への憧憬。それは、亜人が持つ根源的な病理である。
「相変わらず、手首ばかり好む」
「ワインは、まず見て楽しむものだからな」
枯れた手首を後ろに放り投げながら、その老人は言った。
うずたかく積まれた手首の山は、きつい香煙の中にあってなお、鉄臭い悪臭を放っている。辺りに飛び散る赤黒いシミは、擦って歩いた足跡につられて錆色のグラデーションを描き、まだ固まりきっていない新しい死血は、その傍らで床のタイルに滲むようにじわりと広がりつつあった。
「《大隊長》は、もういないぞ」
「安心しろ。《第二世代》の関係者どもは、よくよく始末しておくともよ。若いもんの溜飲も、それで多少は下りるであろ――」
自らが差し出したグラスに舌鼓を打つその老人に、彼はどうぞとばかりにそれを突き返す。
掻き込むような音が、そこらじゅうに汚らしく響いた。
それを挨拶がわりに、彼は左の肘掛に並んだボタンの一つを音もなく押す。すると、これまで座っていた座席が百八十度回転し、その両側に設えられた二つの車輪が、出入り口へ向かってからからと運動を始める。
「《三眼》に気をつけろ、ジャン・ジャルジャック。どうにも頭が疼く。あれは普通ではないぞ」
口回りを真っ赤に染めながら、老人は言う。
車輪の足が一瞬止まり、かすかに覗く右目の赤光が、振り向きざまにその両目を一瞥する。
だが――、
「また来るよ、《少佐殿》」
言葉は、ただそれだけであった。
冷たい夜風が部屋の中に舞い込み、ふわりと揺れる白い煙が、鉄臭い悪臭とともに夜の戸口へと消える。
テンティウムの「月」が現れたのは、それからすぐのことである。
「――さて、切るか」
左足を叩き、彼はつぶやいた。
罪の感覚は、ある。しかし、一度踏み切ってしまった以上、もう止まることなどできない。吹き荒れる炎の怪物を思い浮かべながら、彼は静かに前へと進む。
人気の失せた、無明の道。悪意に満ちた我らが地球は、そんな彼の足取りを、夜の帳の下から密かに見上げているのだった。
新章「《天秤》編」、開始です。
なお、この章から前書きでの「前回のあらすじ」を省略させていただきます。




