水かきのある《瞳》③ (終)
「前回のあらすじ」
レギオンたちへと迫る《双子》の竜。
それを目にして、リーはその仮面の下に無意識のうちに笑みを浮かべる。
これは得がたい機会なのだと。
最後の作戦、放り出されたジャン・ジャルジャックと亜人たちは、恐るべき《子供たち》の群れから、ただ祈って逃げるばかり。
しかし、そんな彼らの頭上に黄金の雪が降り注ぐ。
それは《星の夜》以降、竜を捕らえるべく、人類が生み出した悪意ある「縄」であった。
かすかに残る笛の音が、いやに高く聞こえた。
遠くに連なる、黒い地平線。いまだ見ぬその鮮やかな稜線が、青白い光のヴェールに包まれて、ゆらりと密かな蜃気楼をたなびかせている。
魂の河だ。
ロックウェルは、ふとそう思う。
耳をくすぐる水の音は、そんな彼の無意識を肯定するような心地よい奏でを響かせ、時折白めく淡い水面が、その輝ける鍵盤の上に微笑のような一掴みの飛沫を舞い上がらせる。
実際、その言葉は間違ってはいない。
目の前に広がる、湖の如き大河。その東へと落ちゆく穏やかな流れは、《星の夜》以来、その水底に数多の命を飲み込んで、さながら万華鏡のように美しく煌き続けていた。
《エレレート・ライン》
その河は、天より落ちた星の河。
人類を、生命を滅ぼす《星の毒》に満ち満ちた、光無きものを死に至らしめる災いの流れである。
「まさか、ここまで来れるとはね」
右腕を振り払いながら、彼はつぶやく。
光を失った一匹の星がずるりと大地へと崩れ落ち、ぴちゃりと跳ねる白い体液が、黒々とした彼の頬に一筋の線を描く。
結局、出会った《子供たち》はこれが最後であった。リー、マルカの二人と別れて以来、彼の行く先には障害と呼べるものはほぼ無く、その行軍は少勢とは思えないほど順調に進んだ。雲は穏やかで、ただ一つの懸念であったエレレート・ラインの水かさも、特に気にかけるほどの値には達しておらず、状況は《ダーガー》が計算した以上に良好に運んでいた。
だからこそ、その言葉には形容しがたい不安が宿る。
「ロックウェル様、《シェルター・ゲール》への通信が拒絶されています」
彼の背中で、一人のVivianが言った。
その視線の先には、エレレート・ラインの光の縁にひっそりと立つ、廃墟のような黒い街並みがあり、その中央にある象徴的な角のような尖塔には、赤十字のあしらわれたぼろぼろの青い旗が、ため息のような北風にあおられて力なく揺れていた。
「もう一度繰り返せ。中がどうなっているにせよ、《グラント》が生きている以上コンタクトは取らなければならない」
無駄かもしれないと思いつつ、彼は命じる。
そして予想通り、それからいくら待てども、そのVivianからは肯定的な回答を得ることはできなかった。
彼は、彼の手元で仄かな輝きを放つ通信機器を睨みつつ、小さく難しそうな声をこぼす。
目の前の廃墟――いや、その中央の尖塔の下に広がる地下都市は、《王国》にとってもっとも友好的な都市の一つだ。その機能は、所詮は一般のシェルターを改装したものでしかないとはいえ、数年であれば《王国》の支援無しでも十分に自活ができるほどのものであり、またそれを維持する上で必要な防衛戦力も十分に備えていた。
そして何より、かの都市の統治者である《グラント》。《王国》の統治者である《ダーガー》をモデルとして創造されたその頭脳は、彼らに、その都市がまだ生きているという前提をすり込めるだけの十分な性能を持ち、実際、《ダーガー》の計算においても、それが稼働している限りほぼ確実に接触が成功するはずであった。
「受信機が破損しているのでしょうか。あるいは、《グラント》の機能が不全となっている可能性も……」
白い耳元に受信機を寄せつつ、Vivianは言う。
そのことは、彼自身、最初の反応を知った時に思い浮かんだことであった。
人間は、何を誤るかわからない。《グラント》が稼働していない、すなわち死んでいるのであれば、その都市がすでに破綻していてもまったく不思議ではない。
しかし――。
「《融合炉》が動いている。《グラント》は生きているよ」
ほぼ断定的に、彼は否定する。
それとともに、彼は通信機に向かって「前進」の命令を下すと、灰色のローブをはらい、おもむろに都市へ向かって真っ直ぐに歩き始める。
「お待ちください、ロックウェル様!」
驚いたVivianが、慌てて彼の背中を追う。
その後方からは、先ほどの命令を受けた五両の戦車がとろとろと緩やかな足取りで続き、エレレート・ラインの蒼白い光の傍らに、いくつかの細い影法師が立った。
ふと、彼方を見やる。有害なる星の河は、冷たい東の海へと静かに注いでいる。それは、薄らと映る一筋の水平線のある一点へと集約し、そこから、暗澹たる夜の雲に向けて、途方も無い美しい純白の光柱を明々と立ち上らせていた。
「《グラント》へ、聞こえるか。こちらテンティウムの《ロックウェル》。速やかに応答せよ」
その通信に、返ってくる声はない。
しかしながら、時折入り込んでくるノイズの音は、そこの電源がまだ生きているという証であり、同時にその都市が生きているという証拠であった。
「もっと近づく必要があるか」
そうすれば、通信が回復するかもしれない。
淡い期待を抱きつつ、さらに歩みを進める。
しかし、理性的に見れば、状況は決して尋常のそれとは言えない。《牡羊》が死に、《子供たち》が遠ざかっている今、《シェルター・ゲール》にとっては地上を偵察する絶好の機会である。それにも関わらず、レギオンはおろかVivian一人さえ出ていないこの状況は、内部で何か異常が起こっているということの証明にほかならず、更なる行動はまったくの愚策のように思われた。
「これ以上の接近は危険です。《ダーガー》の計算は、我々にこれ以後の安全を保証しておりません。ここは一度引き返し、《ダーガー》に改めて可能性の検証を求めるべきかと――」
彼の前へと躍り出たVivianが、不安な眼差しで要求する。
その顔には、明らかな恐怖の色が滲んでいる。不確実な現実を目の前にした、死へと通ずる表情だ。
ふと、足を止める。しかしながら、それはほんの一瞬の出来事であり、彼はその忠告をまったく意に返すことなく、半ばどけるようにして再び前へと足を踏み出した。
「異常があるならば、なおさらだ。《グラント》を失うわけにはいかない。先を越される前に、ここは何としても押さえる」
普段は柔和な彼の口調に、刃の如き鋭さが宿る。
驚いたVivianは、もはやそれ以上の進言をやめ、その背中に引きずられるような足取りで続く。
何も知らないとは、まったく気楽なものだ。どうせすぐに死ぬのだから、まともな意思など与えるべきではないというのに――。
歩きながら、彼は胸の内に沸き起こる苛立ちに、思わず低い唸り声を上げる。
水かきのある「瞳」。
そのイメージが頭の中を駆け抜け、彼は多くの戦力を与えなかったジャン・ジャルジャックに、密かに苦々しい思いを抱く。
だが、一番槍は、得てして多くの褒美を得るものだ。
特に「知識」などは、一度取ってしまえば、後はそれをどう分配しようが持ち主の自由である。何しろ見えないのだから、知りえないものは永遠に知りえないままとなる。
ゆえに、失われかけたものがあるとすれば、それはすぐにでも手中に収めなければならない。ましてや、それが「力」に繋がるものであるならば、なおさらだ。
「悪いなジャン。君との誓いは、早くも最後になるかもしれない」
口があれば、きっと皮肉げにつり上がっているだろう。
気がつけば、彼は今まさに、その廃墟の巨大な黒い門の前に立っていた。
「《グラント》へ、応答せよ。繰り返す、応答せよ。十秒以内に応答がない場合は、異常ありと断定し、正門を破壊する」
右腕をまくり、力の限り引き絞る。
露出した銀色の杭が風を切るような音を立て、それはやがて、陰鬱なフルートのような音色へと徐々に収束を始める。
正門とはいえ、その頑強さはテンティウムのそれには遠く及ばない。渾身の一撃を繰り出せば、全壊とは行かずとも、戦車が突入できるだけの十分な穴を穿てるはずだ。
「五、四、三、二――」
カウントが進む。
後方のVivianたちが息を呑んで見守り、その視線が固く閉ざされた門の隙間へと集中する。
「いち――」
ロックウェルがその足を一歩踏み出した。
しかしながら――。
「――へ――せよ――!」
ふと、彼の通信機に小さな声が響いた。
驚いた彼は、突き出そうとした右腕を前のめり気味に踏み止め、意図せぬ通信者の声に、慌てて拾い上げるように応答する。
「こちらロックウェル。君は誰だ? 《グラント》か?」
「《グラント》より――へ! ――に――せよ!」
通信機からこぼれた言葉に、その場にいる誰もが表情をほころばせる。
興奮気味に応答する彼もまた、その真っ赤な両目に嬉々とした色を浮かべ、続く言葉の内容に一層の意識を集中させる。
都市は生きていた。《グラント》が健在であるならば、望む情報はほぼ得られると言っていいだろう。彼は通信機のチャンネルを調整し、声がより鮮明に聞こえるようどうにかして波長を合わせるべく努力する。
後方のVivianたちも、遠距離支援用のゴーグルを取り出して、廃墟の周囲に何か痕跡がないか探し始める。
しかし、そうやって得られた次なる言葉は、彼らにとって、まったく予想だにしないものであった。
「《グラント》より総員へ! ただちに退避せよ! 当施設は《三眼》の侵入を受けている! 自爆まで残り十秒! 繰り返す、自爆まで残り十秒――!」
すべての景色が、真っ白になった。
大した思考が働かなかったのは、彼らにとって実に幸運なことであっただろう。
しかしながら、ふと空を見上げたロックウェルは、その最後に一つの小さな「星」を見た。
門のへりを飛び越え、流星の如く夜空を駆け抜ける、美しきエメラルド色の人型の輪郭。
それは、彼を真っ直ぐに見下ろしていた。獣の如き爪と、水かきのある細い両腕、軟体生物のようにしなやかな胴体、頭部から伸びる蛇のような無数の触手――そして、彼のそれと同じように、真っ赤に、しかし憎悪を宿して毒々しく燃え上がるそれは、紛れもなく、炎の如き三つの「眼」であった――。
「《双子》編」――完――
ここまでご覧いただきありがとうございました。
これにて《双子》編は完結となります。
もちろん、章としての終わりであって物語はまだまだ続きます!
遅々とした更新で読みづらかったかもしれませんが、
今後も頑張って執筆してまいりますので、ご贔屓のほどよろしくお願いいたします!




