水かきのある《瞳》②
「前回のあらすじ」
逃げ延びたジャン・ジャルジャックを待っていたのは、自らの仲間たちの銃口であった。
刃を突きつけ、真相を迫るリー。
そこに差し出されたのは、鈍い輝きを放つチップと、そして、水かきのある「瞳」であった。
星の竜の生態について、多くの人類はその一端にすら触れることを許されなかった。
禍々しい夜の雲より生じ、神々しい燐光とともに訪れるそれは、まさに地上に降り立った星そのものであり、その前では、わずか五百万年足らずの人類の歴史は何の意味もなさなかった。
文明は破壊され、世界は汚染された。果敢にも戦いを挑んだ個人や国家は、なべてその美しき過去と運命を共にし、わずかに余命を存えたのは、自らのもっとも古い祖先らによく似た、窖に身を縮める、臆病な小さき者たちであった。
しかしながら、それらは果たして長らえただけであろうか。いつか訪れる最終的な破滅を、今だけはと本能のままに逃げ出しただけであろうか。
私は、そうは思わない。
これは、一つの選別である。地球に意思があるとすれば、これこそが、まさしくその顕れであり、人類という種が産み落とされた、一つの意義であろう。
そう、これは選別。「悪意」という名の、人類のもっとも根源的な能力を試す、光無き星の意志だ。
さあ、今こそ地上へと飛び出そう。満ち満ちた時が、君たちの悪意が、やがてこそ試される瞬間なれば!
恐怖は、とうに失せていた。
眼前に瞬く純白の輝きをよそに、リーは仮面の下に密やかな笑みをこぼす。
引きつった、誰も想像だにしない、見えることのない笑みだ。実際、彼女自身も、自らが笑っているなどまったく思ってはいなかった。
抜けない癖は、存外自覚がないものだ。ゆえに、この現象は彼女を取り巻く現状を端的に表していた。
すなわち、「これ」は願ってもない機会なのだと。
まさか、あの恐るべき《大竜》が、こんな形で目の前に現れるなど、誰が想像しただろう。傷を負い、無残にも半身を失ったそれは、その痛ましい姿に反して、なおもぎらぎらとした一つ目でもって彼女たちを見下ろしている。
胸が高鳴る。疾駆するトラックの窓から身を乗り出しながら、彼女は興奮気味に通信機の受話器を口元に引き寄せる。
「もっとアクセルを踏んで! 何が起こるかわからないわ。とにかく距離をとるのよ!」
その声は、多くの者にとって悲痛な叫びのように聞こえた。
当然だ。《大竜》と正面から対峙するなど、《王国》のレギオンでさえ死と同義である。たとえ手負いとはいえ、それは文明を破滅へと追いやった星の竜、その上位種族なのだ。
恐怖を覚えない者など、どこにも居はしない。ましてや、相手はあの《双子》。ぶちぶちとその肉を引きちぎり、雨のように地上へと降り注ぐのは、その名を忌まわしのものにしている《子供たち》。そのどこまでも増え続ける悪夢の猛追を振り切るのは、普通であれば不可能に近い。
しかし――。
「《子供》を生むのに、つがいがいらないなんてね……」
悪態をつく彼女の言葉に、絶望の色は一切なかった。
そして、それに応えるかのように、彼女の視界を一瞬、光とともに風鈴の音が突き抜ける。
「お見事。足止めだけなら十分ね」
澄んだ音色は、正反対ともいえる暴力的な破裂音を響かせて、大地に着弾する。
同時に、彼女のトラックに迫っていた数匹の《子供たち》が、まるで悲鳴のような鳴き声を上げて無残にも吹き飛び、引きちぎれた一部の肉が、光を失って大地のあちこちへ散らばる。
死んではいない。しかし、傷を負わせてしまえば、その《子供たち》はもう彼女たちに追いつくことはできなかった。
「リー様、弾薬が心許ありません。リー様を優先的に支援いたしますが、それでも三発程度が限界となります」
「わかってるわよ。もう始めるわ。距離を確認次第、《コクーン》を展開してちょうだい」
頭に響くその声に、応答の言葉はなかった。
しかし、彼女は通信が途切れるその直前に、唸るような小さな声が交じるのを、確かに聞き取っていた。
周囲を確認する。ともに走るトラックは、彼女のを含めて三台。その左右前方には、やや距離をおいて十五両の戦車が先行し、三台のトラックは、そのちょうど中央の後方を尾びれのようにうねりながら追っていた。
そして彼女は、それらの殿。一部の例外はあるものの、追ってくる《子供たち》の多くは、想定通り彼女のトラックへと群がり、それを、マルカの射撃が撃ち抜くことでなんとか安全な距離を保っていた。
しかし、それも限界がある。元より実験段階の品、持ち込んだ弾丸は多くない。道中のトラブルで貴重な一発が失われたことが惜しまれるくらいだ。
ゆえに、逃げ切るには別の手が必要となる。そして、その手とは、彼女にとって――いや、マルカにとって、ある種の因果な選択であった。
「さあ、やりましょう。罪が怖いなんて言わないわ。そういうものだものね?」
受話器を手に、彼女は低く言い放つ。
すると、ざらざらとしたノイズが車内に響き、そうした後、よく聞き慣れた、すするような皮肉げな男の微笑が彼女の耳へ流れ込んでくる。
「指揮官もまた《大隊》の一員、ね。君の発想には、時々怖いものがあるよ」
直後、前方右方を走るトラックが、唐突にその速度を落とす。すると、それに合わせて彼女のトラックは反対にその速度を上げ、これまでそのトラックが居た前方の位置へと入れ替わるように滑り込む。
ノイズに混じって、レールガンの発砲音が聞こえた。すると、速度を落としたトラックから煙が上がり、バランスを崩した車輪が、一斉に行き場を失って車体をぐらぐらと振り回し始める。
平地とはいえ、もとより不整地の荒地。過剰な速度に足を取られたトラックが横転するのに時間はかからなかった。
「ぎゃあああああああっ!」
悲鳴が上がる。
が、人間のものではない。がらがらとした枯れっぽいそれは、彼女にはあまり馴染みのない、亜人たちのものであった。
「さあ、最後の仕事だ。仲良く全滅か、生きるか。ここで意地を見せようじゃないか」
運転席から身を乗り出しながら、ジャン・ジャルジャックは啖呵を切る。
その前には、横転し、開け放たれた荷台からこぼれるように現れる亜人たち――そして、いよいよもって獲物を追い詰めた、《子供たち》の爛々たる赤い光の群れがあった。
「《懲罰大隊》、散開!」
その声を引き金に、亜人たちが弾かれたように一斉に走り出す。
作戦など無い。とにかく本能のままにバラバラに逃げるだけだ。そして、それは「一員」であるジャン・ジャルジャックもまた同様である。
吉と出るか凶と出るか。《子供たち》を前にして、素足で逃げ切るなど不可能である。しかし、それでもわずかに長らえられる道すじがある。それを求めて、亜人たちは一心不乱に散り散りとなる。一度は《双子》から逃れられたのだ。もう座して死を待つ覚悟など起こらない。
もっとも、今となっては、もうどこであろうと鬼門の方角。考えるよりも走り、そして死ぬまでが、彼らに与えられた最後の仕事、すなわち懲罰である。
ジャン・ジャルジャックは走る。右腕の無い彼にとって、《子供たち》に追いつかれるとはそのまま死ぬということだ。亜人と変わらない。人類の砦たる《王国》でまともな扱いをされぬのも、無理からぬことだろう。
しかし、それでも彼は恵まれた。一発、二発、そして三発。彼の耳元をすり抜ける風鈴の音は、彼に迫る《子供たち》を的確に撃ち抜いていた。
「これが、最後です。後は、お祈りください」
頭の中に、ふとそんな声が響いた。
それと同時に、四発目の風鈴の音が鳴り響き、その直後、彼は小岩に足を取られて大地に転がった。
「――おいおい、一発多いじゃないか」
黒々とした土を握り締めながら、彼は起き上がる。
その背後には、バラバラになった《子供たち》の残骸と、そして、その頭上から、蜉蝣のような薄翼を瞬かせながら、ゆっくりと彼のもとへ降り立とうとしている、巨大な純白の輝きがあった。
「食い足りないか。なるほど、双子というのも困りものだな!」
レールガンを構え、中空に向けて狂ったように乱発する。
しかし、それは人ならざる輝ける肉を前に消え入るように失われ、すぐに乾いた引き金の音だけが響くようになる。
これが限界。彼の抵抗は、星の竜たる《双子》を害するものではあり得なかった。
蛇の頭が、ぎらぎらとした一等星を頂いて歓喜する。終わりなのだと、そう笑っているように見えた。
しかし――。
「おしまいだ、頭足らず」
その最後は、終わりを告げる符牒の音。
彼は、すべての準備が整ったことを確信して、天高くレールガンを放り投げる。
そうして、悪意は結実する。
無明の荒野に、十本の光の柱が上がる。
それは、まるで宇宙へと飛び立つ彗星のような美しい曲線を描いて夜を引き裂き、そして、彼と彼の前の巨大な竜の頭上で一点に集結する。
彗星が、雪のような黄金の光へと変わったのはその直後である。
「《コクーン》、展開――」
少女の低い声が、冷たい風とともに耳を撫でる。
人はどうして、こんなことを考えるのだろう。ジャン・ジャルジャックは、我が手に落ちる黄金の雪に、ふとそんなことを思う。
文明は、結局竜を捕らえることはできなかった。星の竜、その未知の生態を知ることができたなら、あるいは運命は変わっていたかもしれない。多くの者が考えた、遅すぎるイフ。
しかし、ジャン・ジャルジャックは思う。そもそも、かつての人類に、そんなことができるはずがないのだと。
彼は、自らと、そして《王国》が歩んできた歴史を、よく理解していた。
だからこそ、彼はその光から目を背ける。
それこそ、存えた人類が育ててきた悪意。
運命によって選別された、地球が望んだおぞましき頭脳、それが生み出した、人類の英知。
《コクーン》
レギオンたちは、その雪をそう名付けた。
しかしながら、その名称は、ある意味ではまったく正しくない。ジャン・ジャルジャックは知っている。それがどんな思考の元に生み出されたのかを。
文明が竜を捕らえられなかったのは、ひとえに、それを捕らえるための「縄」が無かったからだ。
ならば、それを造るにはどうすればよいか?
「縄」ならば、自らの血肉で編むがいい。
怨嗟の声が、頭をよぎる。
アアアアアアアアアアアッ――!
その直後、その場にいるすべての星が、一斉に悲鳴を上げる。
のたうち、暴れまわり、滅茶苦茶に転がる《子供たち》が、自らが殺戮した亜人たちの血にまみれて、どちゃどちゃと地面に派手な音を立てる。
見れば、その輝ける肉のあちこちが、まるで誰かに引き絞られるように一人でに収束し、時折膨れ上がる水ぶくれとともに、その全身をもっともおぞましい形へと変形させつつあった。
ぎちぎちと音を立てる口腔は苦しげに歪み、ほっそりとした長身はいとも簡単に楕円形へ、そして最終的な円形の「肉の繭」へと、ゆっくりと、じわじわ変貌させてゆく。
言うまでもなく、それはあの黄金の雪によってもたらされた変化であった。
そして、それは《双子》とて例外ではない。地響きとともに大地へと落ちたそれは、ジャン・ジャルジャックをその一つ目に捉えながら、大男のような低い絶叫を上げて、大地に何度もその腕を叩きつけていた。
「戦果は上々、か」
ジャン・ジャルジャックが笑う。
どうやら、《双子》は、その薄翼を動かし、再び空へと逃れようとしているようであった。
しかし、体が思うように動かない。どれだけばたつき、どれだけ打ち立てても、全身はぴくりとも浮き上がらない。それもそのはずだ。なぜならそれの薄翼は、黄金の雪によってとっくにその形を失っていたからだ。
「妹」が生きていれば、きっと難なく逃げ切れただろう。しかし、半身を、力の大半を切り取られた今となっては、もうこの罠から逃れる術はない。
変化が緩慢なのは、《大竜》の生命力ゆえか。だが、だからこそ、苦しみは必要以上に長く続くこととなる。血を、肉を絞られ、鮮血とともに形を失ってゆくその様子は、傍から見れば、赤々とした生ける粘土のようにも見えた。慈悲などない。かつての文明の道徳からすれば、それはあまりにも冒涜的な復讐法であった。
そうして、ついに声が消える。最後に残ったのは、エレレート・ラインの青白い光に照らされて、望洋と浮かび上がる真っ赤な湖。そして、その水面の上に、しとしとと生々しい輪郭を立ちのぼらせる、一つの巨大な「繭」の姿であった。
それこそが、《コクーン》。死なずの《星の竜》を苦しみによって捕らえる、人類の悪意ある「縄」であった。
2019.5.1 一部の誤表現を修正。




