水かきのある《瞳》①
「前回のあらすじ」
ロット・ワンの暴走に、デリンジャーは一人その前に立ちふさがる。
圧倒的な力と、選択を迫る《天使》の声。
しかし、そんな絶望的な状況を前に、ふと蘇る過去の記憶は、彼を思いもよらぬ拒絶の道へと突き動かすのだった。
さざ波のような雲間に、白い月が輝いていた。
かすかに差し込む、淡い瞬き。その悲しむような真珠色の光を見て、ジャン・ジャルジャックは、静かにその指を内側へと折る。
掴めるはずもない、遠い楽園。その朧げな輪郭は、ほんのりとした薄い瞬きを最後に、再び夜の天蓋へと消える。
冷たく吹きすさぶ風は、命の失せた荒野を跳ねるように踏みつけ、がらがらと唸りを上げる遠雷は、そんな地上の後ろ側で、ひっそりと雨の兆しを漂わせていた。
「懐かしいな。月を見るのも、もう何十年ぶりだ。君はどうだ、リー?」
その言葉には、やや皮肉げな響きがある。
ジャン・ジャルジャックは、自らの背中で何かが一斉に音を立てるのを感じて、ゆっくりとその足を回す。そこに居並ぶのは、レールガンを構えた無数のVivianたち。その後ろには、彼らの操る十五両の戦車があり、そして、それらの「壁」を背景に、彼に向けて真っ直ぐに「杭」を突きつける、一人のレギオンの姿があった。
「いいえ、話が違うわ、ジャン。文字通りにね」
白いショールが、夜風に揺れる。
嘘偽りの無い、純粋な怒り。それが、炎の如き真っ赤な双眸を、毒々しい輝きで塗り尽くしていた。
ジャン・ジャルジャックは、彼女が――リーが何を考えているのかを察して、静かにその左手を上げる。それを見て、彼の足元でじりつく味方のVivianたちが付き従うように両手を上げ、それから少し遅れて、身を伏せるように固まっている百人ばかりの亜人たちが、ぽつぽつと同じようにそれに続いた。
お手上げ、か――。
彼は思う。
実際、彼の手元には、目の前の仲間をどうにかするための手段など残されてはいなかった。からからと音を立てる戦車は、もはや逃げ延びる分の燃料さえ持たず、荒々しく息をつく仲間たちも、とうに体力の限界を迎えていた。
正真正銘の、満身創痍の集団。
それが、まさか味方に銃口を向けられるなど、誰が想像しただろう?
彼は、自らが招き寄せたこの結果を、密かな微笑のもとに噛み締める。
「《破滅》を使うなんて、私は聞いていない。もちろん、あのバケモノのこともね」
リーが言った。
「――見ていたのか」
わかりきったことを、あえて返す。
この状況を前にして、そんな時間稼ぎにはまったく意味がないように思われる。実際、彼女たちには、それが馬鹿げた会話の流れであると即断するだけの根拠があり、同時に、彼自身もそれをよく理解していた。
すべてを見通す、一つの目。その小さな影が脳裏に浮かんだ時、ふと彼の視界を、一筋の赤い光が横切った。
「ええ、計画通りにね。あの子は、あの場のすべてを見届けた。そして、それは今もよ。ジャン、言っておくけど、ここであなたを見つけたこと、偶然だなんて思わないことね?」
直後、彼の耳元を一条の光が駆け抜ける。
それは、彼の耳に風鈴のような涼やかな余韻を残しつつ、一直線に大気を引き裂き、瞬く間に背後の地表へと爆着する。
横顔を砂が打ち付けたのは、その直後のことである。
「マルカの姿が無いと思ったら……そういうことか」
彼はつぶやく。
あれだけの威力がありながら、しかし、その場にいる者たちにはかすり傷一つ無い。彼は、正確無比なその一撃に心底ひやりとしたものを感じつつも、どこか遠くで次弾を構えているであろうその少女に、思わず賞賛の言葉を贈る。
「四十八人分よ、次はないわ。さあジャン、話してもらえるかしら。あの子の指が、あなたの頭を潰してしまう前に」
直撃すれば、命は無い。
状況のすべてが、彼に敗北を告げている。それはわかっている。ここでさらに引き伸ばそうものならば、それには自らの命を代償としなければならない。それだけの覚悟が、彼女らにはある。
四十八人――。彼女はそう言ったが、思えば、《破滅》が鳴り響いて以降、Vivianの犠牲については、まだ数えてはいなかった。
おそらく、四十八人のうち、四十五人については、《懲罰大隊》に随行していた鋳型のVivianたちと見て間違いない。混戦の中で、彼らを回収するような余裕は無かったし、実際、そうしろと命じてもいなかった。とすれば、残る三人は、《双子》によって破壊させられた、あの一両の戦車の乗員か。
数としては――。
ふとよぎる一言に、彼は自らの悪性を認識せずにはいられない。
四十八人。確かに、それはVivianの損失として見れば、およそ大した数字ではない。むしろ、《子供たち》の大群、ましてや《双子》そのものとも対峙したこと考えれば、微小に尽きるとすら言えるだろう。
その感覚は、彼のみならず、《王国》に住む多くのレギオンにとって共通のものである。代替的人的資源であるVivianの命は、亜人のそれと同様に、人類から見れば一等も二等も劣るものである。
ゆえに、《王国》に帰還したとしても、特に《ダーガー》から責任を問われることはないだろう。彼ら、あるいは彼女らの命は、指揮官であるジャン・ジャルジャックの手の中にあり、そしてそれはいつでも使い潰してよいという権利のもとに保証されているのだ。
四十八人、か――。
再び、頭の中で繰り返す。
確かに、その感覚は咎められるものではない。しかし、それはあくまで一般のレギオンについての話だ。
だからこそ、彼は罪深い。そして、そのことは、彼自身が誰よりもよく自覚していた。
「わかったよ、リー。君たちの勝ちだ」
その声とともに、彼はゆっくりとその左手を下ろす。
吹き抜ける一陣の風。舞い上がった灰色の砂が、睨み合う両者の間をカーテンのように駆け抜ける。
「今回の実験について、詳細を伝えよう。遅かれ早かれ、君も巻き込まれていた話だ。ましてや、《あれ》を目にしたのであれば、なおさらな」
気がつけば、その手には一枚の小さな媒体が握られていた。
直径三センチ、横幅二センチほどのその薄い金属片は、じりりと動く指の間で無機質な鈍い輝きを放ち、そして、いまだ見えぬその胴体の下部から、薄らと一筋の文様を浮かび上がらせていた。
「それは――!」
真っ赤な両目に驚愕の色が宿る。
そこには、水かきを持つ「瞳」があった。
左端の欠けた、尾のない魚を思わせる上下二本線の胴体。その中央には、それを瞳たらしめる一本の縦方向の曲線があり、媒体の右下へ向けて、冷たい視線を注いでいる。また、下線の半ばからは、爪先の尖った指のような歪ないくつかの曲線が伸び、それが、上線右方から垂れる涙の筋のような一本の曲線と、媒体の腰のあたりで吸い付くように合流している。
その名について、両者はともに言葉は無かった。しかし、それを見た多くの者は、その奇妙な輪郭について、どういうわけか、両生類の水かきをイメージせずにはいられなかった。
「使えよ。君にとっても、懐かしい話になるだろう。古い約束だ。だが、あんな愚策に付き合わされるよりは、ずっといい」
放物線を描く、小さな影。
それを左手で受け止めつつ、リーは、その男に向けて一息の荒い呼吸を向ける。
「ジャン、あなたまさか――!」
しかし、その言葉に返事が帰ってくることはなかった。
ふと、雲間から雷鳴が消える。大地を跳ねる夜風が、それを受けてぴたりと硬直し、舞い上がっていた砂埃が、ぱらぱらとよろめきながら地面へと落下する。
「すまない。ここから先は、もうお預けだ。後始末が、残っている」
その瞬間、無風の荒野に、生暖かい風が吹き抜けた。そして、空の彼方から、色のない霧がゆっくりと舞い降り、彼らの頭上に、唸りを上げる巨大な雲の塊が集まり始める。
どよめき立つ荒野。しかし、続いて現れるそのおぞましき影は、そんな彼らの混乱など耳にしてはくれなかった。
シイィィィィィィィッ……。
雲を突き破り、何かが彼らの目の前へと突き出される。
それは、一本の「腕」であった。純白の、そしてどこか焦げ付いた奇妙な匂いを漂わせるその六本指の輪郭は、硬直する彼らを尻目に、そのあちこちに蛇のような甲高い声をまとわりつかせていた。
「なんてこと……」
彼女が言葉を失ったのもやむを得ないことだろう。
そこにあったのは、今まさにその肉を引きちぎり、生まれんとする《子供たち》。そして、それをぼろぼろとこぼしながら、ゆっくりと地上へと両手をつく《双子》の竜の姿であった。
かなり間が空いてしまって申し訳ございません。
しばしば閲覧に来てくれた方々、本当にありがとうございます。




