二人の《好例》②
「前回のあらすじ」
デリンジャーが到着した時には、すでに戦いは決していた。
《双子》の竜はその片割れを失い、嘆きとともに天上へと霧散する。
ジャン・ジャルジャックも、亜人たちもいない、不気味な戦場。
そこに佇むのは、炎を燃え立たせる、一人の《好例》。
宿命的な対峙が、ついに大地を震わせる。
俺に、一体何を選べというのか。
眼前に吹き荒れる嵐を前に、デリンジャーは静かに自問する。
思えば、これまで「選択」したことなど、一度も無かったかもしれない。レギオンとして目覚め、自らの意思と言葉を得た時には、すでに「使命」と呼ぶべきものがべったりと張り付いていて、そこに選択の余地など、初めからありはしなかった。
あるのは、ただ与えられた状況のみ。生活、学習、鍛錬――《ダーガー》によって計算された、その定められた日常は、彼から知らず知らずのうちに様々なものを奪い、そして変えていった。
なるほど、始まりとは、まさしく呪いである。そこに「記憶」さえあったなら、自分はきっと、こんな理不尽な運命を受け入れることはしなかっただろう。そう思えば、《ダーガー》は実に賢い機械である。機械にしては、ほとんど人間的なまでに賢い。
だからこそ、わからない。
《ダーガー》は、どうして「感情」を残したのか。
《好例》が欲しかったにしても、前任者を思えば、むしろそんなものは無用の長物であったはずだ。こんな使命に、人間の精神は着いてこれない。ならば――どうせ代替品を作るならば、いっそ自分によく似た冷徹な非人間にでも拵えておけばよかっただろうに。
彼は、どうしようもなく歯噛みする。選べるわけがない。初めて出会ったあの時、にわかに感じた不器用な感情の綻びは、それを殺すと決めるには、あまりにも自分に似過ぎていた。
「使命」など、望んでいない――。
薄弱な意志の影で燻る、反逆の心。《デリンジャー》――。まさしく、卑怯者の銃の名に相応しい、愚かな燃えかすだ。
彼は、迫り来るその怪物を前に、鈍器のような右腕を構える。擦過音とともに滑り落ちるその杭は、前任者のそれよりも遥かに洗練され、そして破壊的な重量を秘めていた。
「警告する。そこで停止せよ」
彼は、結局「選択」を先延ばしにした自分に舌打ちをしながら、静かに深呼吸する。
《オレオール》の充填は完了している。それはつまり、一言「撃て」と命令すれば、目の前の怪物に竜をも殺す一撃が降り注ぐということだ。初めから勝利が確定している、馬鹿げた戦い。
彼は、散開したすべての戦車に向けて、決して動かないよう命令する。
「もう一度言う、そこで停止せよ。さもなくば、お前を《王国》の敵として排除する」
距離がない。それは、正真正銘最後の警告であった。
しかし、怪物は止まらない。左手で顔を覆い、ぶつぶつと何かを呟きながら、亡霊のような朧げな足取りで、一歩、また一歩と近づいてくる。
もうだめだ。意を決した彼は、その巨大な右腕を大きく振り上げる。
彼の体から、黄金色の火花が舞い始める。《好例》の力、同胞に向けるのは、これが初めてであった。
「ぬうぅぅぅぅっ!」
猛獣のような唸りを上げ、彼は一撃を振り下ろす。
場合によっては、後遺症が残るかも知れない。しかし、そうなったとしても、他に今の状況を打破する手段など、まったく思いつかなかった。
受けることなど、出来はしない。そのように、《ダーガー》が設計したのだから。
しかし、そんな彼の目論見は、これまで怪物を見ていた者たちからすれば、あまりにも甘すぎるものであった。
「がっ……?」
予想だにしない、素っ頓狂な声。
気がつけば、彼の体は泥の中に倒れ伏し、ひび割れた岩石の隙間を覗き込んでいた。
何が起きた――。頭の中が、酔ったように混沌とする。視界は定まらず、両足は死んだように動かない。体が重い。
上げればキリがないほど、彼の体は異常という異常に満ちていた。
そうして浮かんでくる、一つの輪郭。かすかに覗くその怪物の右腕には、まるで、神話に出てくる「竜」のような、吹き上がる巨大な黄金色の大爪があった。
「だから、選択しろって言ったのに」
頭の中に、《天使》の声が響く。
「もうとっくに、人間の出番は終わっているんだよ。《彼女》が、生まれ始めている。しかも最悪なかたちで。君の力じゃ、もうこの暴走は止められない」
侮蔑の入り混じった、低い声。
その瞬間、彼の全身を恐怖が駆け巡る。やせ細った真っ白な手、それが、無数の蛇のように両足に絡みつき、暗い闇の底へと引きずって行かんとする光景を幻視する。
これが、死か。そう直感した直後、全身が力という力をすべて動員して、どうにか立ち上がるべくもがき始める。体は、ぴくりとも動かない。定まらぬ視界は、そんな彼の足掻きを、なおも嘲笑うように揺らき続ける。
だが、それでも終われない――。そう思った直後、一つの意志が、不可解なほどの急速さでもって燃え上がってゆく。なぜ、自分は生きようとしているのか――。
そうして蘇る、過去の「記憶」。その朧げな幻の中に浮かんできたのは、死の冷たさに満ちた顔に、薄らと不敵な笑みを浮かべた、一人の男の姿であった。
「これは、お前が使え。その時は、必ず来る。だから、《卑怯者》は、最後まで隠しておけよ?」
胸のデリンジャーが、密かに鈍い輝きを放つ。
その瞬間、彼は唸りとともに立ち上がった。
泥の飛沫が、ぼろぼろとこぼれる土砂に混じって余韻のような音を立てる。
そんな彼を睨みながら、独り佇む怪物は、その真っ赤な両目に、どこか悲しげな色を瞬かせた。
天上の雷鳴が、泣き叫ぶように辺りに落ちる。見れば、たった一撃にも関わらず、さっきまで立っていた地面は大きく抉れ、その周辺に、夥しい量の土砂を撒き散らしていた。
《好例》でなければ、命は無かっただろう。彼は、じりじりと体中を這い回る黄金色の体液を見ながら、荒々しい息を吐き立てる。
怪物が、その頭上に再び光の大爪を振り上げる。次は無い。とはいえ、回避することも、防ぐこともできそうにない。死を待つばかりの、絶体絶命の状況。
しかし、彼はそれを確信しつつも、ふとその呼吸に、小さな笑みを含ませた。
――簡単なことではないか。
振り下ろされる、圧倒的な力。
しかし、彼はその身に宿る渾身の生命力をもって、右腕の杭を盾にする。
水面が生じたのは、ほとんど必然的と言えよう。彼の唸りは、怪物の大爪からほとばしる悲鳴のような鐘の音と、そして密かに入り混じる女の笑声に共鳴して、無明の雲間に、ぶるぶると大気のさざ波を立てる。
確かに、間違っていた。こんなものは、到底戦えるような相手ではない。《ダーガー》の計算も、人類の英知も、《好例》の力さえも、この異界の暴威を制御することなどできるはずもない。ならば、どうすればよいのか。
俺は、人間だ。
そいつ自身が、そう言った。そして、「感情」はずっと叫んでいた。
ならば、選ぶことなど、最初から一つしかない。
《ダーガー》は、やはり賢い機械だ。感情と裏切りが、常に隣り合わせとは限らない。それを運命づけるのは、紛れもなくそいつ自身の過去であり、始まりである。それは、目の前で哀れにも使命に飲まれようとしている男が、ありありと物語っている。
自分に、そんな呪いのような「記憶」は、無い。だから、最初から間違っていたのだ。そいつと自分が似ているなどと、あまりにも酷い錯覚だ。
彼は、みしみしと音を立てる両腕が真っ黒に輝いているのを見て、その全身に最後の力を込める。そして、今まさに押しつぶされんとするその瞬間に、彼は、その存在の全霊をかけて、遥かなる天上へとその叫びを響かせるのだった。
「《天使》よ! 俺は、選択を放棄する! 俺は、もう《好例》などではない! そんなものは、お前自身の相棒にでも求めるがいい!」
その瞬間、すべての時が凍りついた。
「その答えを待っていた!」
直後、二つの黄金色の輝きが、突如として爆ぜるように砕け散る。
怪物が苦悶の絶叫を上げる。頭を抱え、泥の中に崩れ落ちるその目には、毒々しい赤い光が、激しい明滅とともにぜいぜいと瞬いていた。世界を覆っていた炎は見知らぬ風の中へと消え去り、ぎらぎらと色づいていた大地に、漆黒のヴェールが穏やかに舞い戻ってくる。
そうして、彼は幻視する。いつしか、両足に絡みついていた真っ白な手の群れが、彼の体から離れ、真っ直ぐに闇の向こうへと伸びてゆくのを。そこには、まるで潜むようにちらちらと瞬く、小さな黄金色の火があった。
「《天使》は力。《天使》は証。そして、《天使》はくびき――」
頭の中を駆け抜ける、ノイズがかった声。
無数の真っ白な手が、その輝きを引きちぎるように握り潰したのは、その直後である。
「楽しかったよ」
ふふんと笑う、小さな声。
かくして、彼の精神に再び懐かしい静けさが帰ってきたのであった。




