二人の《好例》①
「前回のあらすじ」
死地より蘇った彼は、もはや完全に別の存在に成り代わっていた。
地上を見下ろす《双子》の竜。
最悪かと思われたその邂逅は、しかしまったく予想だにしない展開となる。
怒りとともに大地を揺るがす、《双子》の咆哮。
そこに飛び込んできたのは、その背に大砲を背負った一人の亜人であった。
喉を伝う温かな血に、その老人は小さく笑みを浮かべる。
やけっぱちでも、やってみるものだ。《幻夢》は、見事に竜どもの脳髄へと届いた。眠りの毒に侵されたあれらに、もはやそいつの歩みを止めることはできない。
乗員は、脱出させた。生き残った《懲罰大隊》も、口惜しくも、ジャン・ジャルジャックが後退の指示を出してくれた。
やり残したことは、もう無い。失策の責任を負って死ぬのは、まあ指揮官としては良い方ではないだろう。だが、せめて一撃――それを食らわせなければ、呪ってしまったそいつに申し訳が立たなかった。
「そういえば、俺は誰だったかな――」
黒々とした天上、彼は忘れてしまったその名に想いを馳せながら、一人静かに目を閉じる。
まあ、何でもよい。茫洋とした闇が舞い降り、彼の世界を、ゆっくりと穏やかな眠りが覆っていった。
二人がそれを見つけた時、その戦場にはたった一人のレギオンだけがあった。
焚き火のように燃え上がる、巨大な肉の塊。それを呆然と眺めながら、その小さな影はふと真っ赤な両目をこちらに向ける。
何かがおかしい。デリンジャーは、それにすぐに気づいた。首輪が無い――いや、そんなことではない。形容しがたいその第六感とも言うべき感覚は、まるで、そいつが別人になったかのような違和感を沸き上がらせていた。
「まだ生きてるよ、相棒」
頭の中で、ノイズがかった声が響く。
丘陵に乗り捨てられた、一両の戦車。その奇妙なぽつんとしたその頭上には、並々ならぬ鮮血を滴らせた、一匹の亜人がいた。
胸にぶらさがる三色の笛。それが《大隊長》だと気づくのに、まったく時間はかからなかった。
「回収し、可能な限り治療を行え。生きるにせよ、死ぬにせよ、それは重要な証拠となる」
背後に付き従うVivianに、彼は命令を下す。
何があった――。彼は、合流して膨れ上がった戦車の群れに、身振りでもって散開を命ずる。
ジャン・ジャルジャックの姿がない。置き去りにされた戦車、そして遠くに見えるもう一つの横転した戦車は、そこに彼の部隊が展開していたことを示している。夥しく広がる亜人たちの死体の山は、まさにそこが最悪の戦場であった証拠であり、ところどころに散らばるぶよぶよとした黒い肉の塊は、紛れもなく《子供たち》のそれにほかならなかった。
では、あの中心で燃えるもの何だというのか。わかりきった答えでありながら、彼は信じられずに自問する。
「あーあ、間に合わなかったか」
頭の中の《天使》が、ため息混じりに呟く。
「間に合わなかっただと?」
「そうだよ。でもいいや、とりあえずやることは理解したよ。実に《ダーガー》らしい、性格の悪い作戦だ」
その悪態に、感情は読み取れない。
彼は、もう一度頭の中に呼びかけるように問いただす。
「どういうことか説明しろ」
「実に簡単なことさ。君たちの本当の仕事は、遠回りして背中を突くことでも、ましてや《子供たち》を排除することでもない。単純に、この実験の邪魔をしないことだったんだ」
「邪魔、だと?」
「そうさ。そして《第二世代》である君には、もう一つの――」
その言葉が終わるより先に、二人の間にざらざらとした機械的な雑音が入り混じり、通信が途絶する。
その瞬間、彼は空に流れる真っ黒な雲が、突如としてその一点に真っ白な輝くを宿すのを見た。どろりとした粘性のある光が、まるで水瓶から注ぐが如く、ゆっくりと地上へ落ちてゆく。その場所は、まさしく、あのレギオンの目の前で燃える巨大な肉の塊にほかならなかった。
「ギイイイイイイイイイイイッ!」
歯を食いしばり、獣のような絶叫を上げる、巨大な肉塊。
両の腕を立て、大空へと舞い上がろうとするそれは、自らの全身にまとわりつく炎を忌々しげに振り払うと、その背中から伸びる、半ば焼け落ちた蜉蝣のような薄翼を勢いよくはためかせる。
妹の方は、どうやらダメだったようだ。天上の光にさえ見捨てられたそれは、自らを死へと追いやるその炎を前にもはやぴくりとも動かず、愛する兄が飛び上がった頃には、すでに物言わぬ塵芥と成り果てていた。
「あれが、《双子》――?」
訝しげな声。しかし、そう思うのも無理はないだろう。
なぜなら、大いなる《大竜》の一角たる《双子》、その真っ赤な一つ目に映るものは、憤怒でもなく、ましや憎悪でもなく、ただただ震えるばかりの「恐怖」だったのだから。
どこかで聞いた、ジャン・ジャルジャックの言葉が蘇る。
『人は、決して竜には届かない』
けれども、それを象徴付けるはずの《大竜》は、もはや竜としての威厳さえ失っている。
デリンジャーは、その胸にかかったペンダントをじりりと握り締めながら、無言でその行き先を見守るしかできなかった。
そして、それは夜の雲に霧散する。たった一分とてない、あっという間の出来事。しかし、その短い時間は、彼にとって、これまでで最も長い時間の一つであった。
「《オレオール》、充填完了」
《双子》の消失とともに、頭の中に《天使》の声が戻ってくる。
「さあ、選ぶといい。君が選択者だ。ここで死ぬのか、あるいは君が引き継ぐのか――」
選べよ、《好例》。
その声は、彼の耳に届かなかった。
太陽の如き両目から、黄金の輝きが巻き起こる。ふわりとした浮遊感とともに、静かにこちらへと歩み寄ってくるその姿には、明らかに尋常ならざる意志の気配が宿っている。
「かえせ」
怪物が、ぼそりと呟いた。
ぞわりとした恐怖が、背筋を伝う。
彼は、ようやく理解した。ジャン・ジャルジャックがいない理由も、自分だけが、ここに導かれた理由も――。
「わたしを、かえせ」
そうして吹き荒れる、炎の大嵐。
それは、ふつふつと――まるで怒り嘆くかのような怪物の感情に合わさるかのように、渦を巻く冷たい夜風の中に、黄金色に輝く無数の旋風を巻き起こす。
二人の《好例》が、再び対峙する。しかしながら、彼はそれが指し示す意味について、まだ何も理解できていなかった。




