《双子》②
「前回のあらすじ」
すべての目算は誤りであった。
亜人の老人は、自らが犯した反逆が間違っていたことを悟り、言葉を失う。
その傍らで、雲間に吹き荒れる風は赤い光を宿し、地上の霧とともに一点に収束する。
星の竜《双子》――。百年越しの《大竜》が、絶望満ちる戦場に再び現れた。
なぜだか、意識が揺らめく。
目覚めてからというもの、その時間は曖昧で、あたかも永遠であるかのようにさえ思われた。
黄金色に揺らめく、小さな右手。ふわりと温かな体温を帯びるその輝きは、まごうことなく、彼自身から発せられているものであり、その下に黒々と映し出される外殻は、どこか奇妙な麻痺感を伴っていた。
何かが変わった。その確信だけが、彼の感覚を一つのものにしている。
天上を見上げる。そこにあるのは、不愉快な笑みをたたえ、静かにこちらを見下ろす、真紅の一等星。その生暖かい風が体を撫で、耳をかすめるごとに、彼の感覚はある感情と強く結びついてゆく。
すべて、焼いてしまおう――。
頭の中に響いたそれは、彼のものではなかった。
しかし、彼はその不可思議な声に、一つの短い返事でもって同意する。もはや、獣のような無様な暴力は必要ない。彼は、その右腕で溶けるように変化を遂げる自らの得物を見て、密かに悪意ある笑みを浮かべた。
そうして、彼は飛び上がる。それは、他の者たちから見れば、まさに唐突な出来事だっただろう。だが、今の彼にそんなものは映らない。そこにあるのは、目の前の星を焼き尽くす。ただその願望だけなのだ。
竜は、なおも彼の行く末を見守る。おぞましき《双子》の竜。それは、自らが害されるその瞬間まで、穏やかな笑みを浮かべ続けた。その意味について、彼が知る事になるのは、まだずっと先の話。
彼は、《牡羊》にしたのと同じように、その右腕を、爛々と輝くその一つ目へと真っ直ぐに突き立てる。
夜を破る教会の鐘の音が、一際澄み渡った音色を響かせたのは、それからすぐのことだ。
「ギャアアアアアアアアッ!」
無残に引きちぎられる、純白の星の肉。
その痛みに耐えかねて、頭を潰された男は、衣のような触手をわなわなと波打たせる。そして、それに憤慨した彼の妹は、その亡者のような眼窩に憎悪の闇を滾らせ、ほっそりとした右腕を風のような速さで突き出す。
彼は、為すすべもなく易易と捕らえられた。
妹の右手は、兄を害したその敵に何ら容赦をかけることなく、ぎりぎりと万力の握力でもって握り潰そうとする。外殻の潰れる、鈍い音。しかし、その一方で、兄の肩にかけた左腕は、ごく優しげにその潰れた頭へと撫でるように伸び、そうして、そこに小さな純白の光を灯す。
兄の頭が、みるみるうちに再生してゆく。それを見て、妹はそっと安堵の微笑みを浮かべた。
「死ね」
しかし、その直後、彼の右手が凄まじい炎を吹き上げて燃え上がる。
何が起こったのか。それを理解するよりも先に、蘇った兄の右腕が、燃え上がる妹の右腕を無造作にちぎり捨てる。
絶叫を上げる、哀れな美女。しかし、見れば大地に落ちた右腕は、その消えることのない炎によって一瞬のうちにすべてを奪われ、わずか数秒のうちに、灰すらも残すことなく焼き尽くされていたのだった。
真っ赤な一つ目に、ぎらぎらとした憤怒が宿る。《双子》の兄は、その焼け落ちた右腕から現れる小さな影を見据えると、ついに天高くその全身を仰ぎ、そして泣き叫ぶ妹をも飲み込むかのような《咆哮》を上げた。
「怖い」
地の底から響くような声で、彼は呟く。
知らぬ間に打ち鳴らされる教会の鐘の音は、彼の意思とは関係なく、彼の周囲に一人でに《水面》を形成する。
音という名の暴力が、大地を穿ち、地形さえ変えてしまう。《大竜》のみが放つその圧倒的な衝撃波は、まさしく《星の竜》の遠大さの具現そのものであり、あらゆる生命を絶滅させる死の一撃であった。
水面を超えて、いくつかの衝撃波が体を砕く。しかし、彼はまるで痛みを感じていないかのように、一歩一歩、真っ直ぐにその咆哮の中心へと向かってゆく。
「怖い」
再び、呟きがこぼれた。
それはある意味においては、彼の本心であった。《星の竜》への恐怖。それは、彼に限らず、すべてのレギオン――いや、すべての人類までもがその遺伝子に刻みつけている。
ゆえに、《星の竜》に挑むということは、すなわち恐怖に挑むということであり、ましてや《大竜》ともなれば、それは一人ではほとんど不可能と言っていい戦いであった。
そして、だからこそ、彼はある種の薬に頼る。そうしなければ、人間の精神のまま、《好例》としての使命など果たせるはずもなかったのだ。
アアアアアアアアアアッ――!
兄の怒りに、妹の絶叫が重なる。
時が置き去りになる。肉体を引き裂く衝撃波は、まるで交差する刃ように彼の肉体を削り取る。
傷口から、黄金の輝きが迸る。それは、その内側から血のような粘性のある飛沫をまき散らしながら、まるで炎のように、彼の体を包み込んで狂い散らす。
痛みが、消える。傷ができればできるほど、血が溢れれば溢れるほど、しかし、今の体が抜け殻にでもなったかのように、彼の感覚は静かに、そのしがらみから解放されてゆく。
「すべて、燃える」
もう、どうでもよかった。
傷ついた精神さえ、その黄金の輝きの中に溶けてゆく気がした。
残された意識は、たった一つ。
「竜は……殺す」
右腕を振り上げる。傷口から流れ出る炎が、まるで生きているかのように収束してゆく。
仮面の下で、密かな笑みが浮かんだ。
ありがとう――。
頭の中に、誰かの声が響く。
視界が、真っ黒に染まってゆく。煤色に。何もかも焼けた、光のない闇の世界へ――。彼は、確かにその入り口を垣間見た。
しかし、彼の視界に、その小さな姿がよぎったのは、まさにそんな時であった。
「ここじゃ! ここへ来い!」
鋼鉄が跳ね上がる。
ぐちゃぐちゃに打ち鳴らしたような音と、巨大な《水面》をうねらせながら、丘陵へと飛び込んできたのは、一両の戦車。
そのハッチの上には、大砲を背に、抱きつくようにしてしがみつく一匹の亜人の姿があった。
「名乗る名など、もはやございません」
ふと思い出す、その一言。
すると、疾走していた戦車がつんのめるようにして停止し、同時に、彼はその亜人が振りかぶるような所作で大砲を構えたのを目にした。
「落ちろ!」
その瞬間、白い煙とともに吐き出された一つの砲弾が、水面を越えて真っ直ぐに《双子》へと吐き出される。しかし、そこに壁として立ちはだかっているのは、《大竜》の放つ圧倒的な咆哮の衝撃。案の定、その豆鉄砲のような攻撃は何の意味も無く、《双子》へと届くよりもずっと前の中空で、ぱんと虚しくも爆ぜ落ちる。
さらに、無理な行動をとったせいか、彼の乗る戦車の《水面》は、今にも押しつぶされんとばかりに歪み、彼自身もまた、抜けてくる衝撃波に身を切られて真っ赤な鮮血を上げていた。
その行動に、一体なんの意味があったのだろう。彼は、胸に宿る小さな落胆に、ふと侮蔑が混じるのを感じずにはいられなかった
しかし――、
「オ、オ、オ……」
《双子》の動きが、不意に止まった。
《水面》が、霧散するようにして消える。見れば、その異形の体は、まるで急速な眠気にでも襲われたかのようにバランスを崩し、ぎこちない薄翼のはためきとともに、今にもよぼよぼと大地に降り立とうとしていた。
ふと、周囲を見渡す。すると、どうやら動きを止めたのは《双子》だけではなく、その《子供たち》もまた同様であるようだった。
後方に映る、視線を両断する一列の戦車の群れ。その背後で、生き残った百人ばかりの亜人たちが、ぴたりと身を寄せ合うようにして固まっている。
不可思議な動揺が、頭の中に広がる。しかし、それを意識するよりも先に、彼は、その老人の吠えるような叫びを耳にするのだった。
「やっちまえ、クソガキ!」




