レコードⅡ 刻の記録
2019年12月31日 22:15
これが本年最後のお話になります。
期間の開いた時期が多くご迷惑をおかけしてしまいましたが、
来年もいっそう精進して参りますので、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
それでは、よいお年を。
星が、砕けた。
耳を覆う轟音、肺を刺す悪臭、そして、押し潰されるような恐怖。
彼は、それにたまらず引き金を引く。
色を失った世界に、無数の白と黒が明滅し、大地へと沈む星の遺骸に、火花とともに湿った嫌な音を響かせる。
痛みは、感じなかった。関節が潰れ、外殻の隙間から血が溢れようとも、彼は握りしめたその手を、どうしても離すことはできなかった。
全身が、叫びを上げていた。けれども、その感情は一つたりとて口をつくことはない。
彼は、ただじっと、真っ赤に染まる自らの両目を、ぎらぎらと狂ったようにそれへと突き立てていた。
「もう、死んでるよ」
ふと、声が聞こえた。
モノクロの世界に、一筋の流れ星が走る。
鈴の音。彼は、誰かが自らの腕に触れるのを感じて、はっと引き金から手を離す。
音が、止んだ。暗闇が、ゆっくりと舞い降りる。
「《君》は、本当に臆病だなあ」
呆れた声が、かすかな笑みとともに耳に響いた。
「《ファースト・ワン》……?」
彼は、恐る恐る顔を向ける。
そこには、その目に黄金色の光を湛える、一人の少女がいた。
「《足》とはいえ、あんなに壊しちゃ可愛そうだろう?」
「……申し訳ありません、《ファースト・ワン》」
我に返った彼は、その腕に抱えたガトリング砲の銃口を下ろすと、そのまま所在無げにうつむく。
息が、かすかに震えていた。
「《蟹》、ね。わかってた。わかってたけど、やっぱりやりきれないよねぇ……」
そう言うと、黄金目のレギオンは、ふと哀れむようにその視線を泳がせた。
そこには、無残にも引き裂かれた、無数の肉片があった。光を失い、ぶくぶくと泡立ちながら大地へと溶けてゆくそれは、吐き気を催すような酷い悪臭を放っており、死んでなおピクピクと脈打つ様は、とてもこの世のものとは思えないおぞましさを漂わせていた。
《蟹》の《足》――。
数いる《星の竜》の中でも、最も忌み嫌われたその竜の死骸に、《彼女》もまた、思わず目を陰らせる。
そこには、一つの「頭」があった。肉が抉れ、半ば骨格の露出したその耳沿いには、《蟹》の《足》を思わせる奇怪な甲殻質の付属肢が無数に張り出していた。口には白濁した鋭い鋸歯が覗き、その縁からは、血と唾液の入り混じった青い体液がだくだくと溢れ出していた。
見るも醜い、異界の生命。
しかし、彼女の向ける視線には、そんなものに対するおぞましさや不快感のほかに、それらと同じくらい正直な、ある種の憐憫のような感情が入り混じっていた。
「《人》じゃない。《人》じゃないんだ……」
彼は、自らに言い聞かせるようにつぶやく。
それは、確かに《竜》であった。しかし、それがそれ自身の肉体としていたもの――宿主としていたものは、決して、竜などと呼んでいいかたちのものではなかった。
引き裂かれた衣服、剥き出しになった肋骨、天を見つめる落ち窪んだ眼、そして一枚の写真を収める、錆びついたブローチ――。
それらは、いまや汚れと血に塗れていながらも、なおも、かつての面影を残酷なほどに留め続けていた。
「……羨ましいよ」
彼女は言った。
その言葉の意味は、今の彼にはわからなかった。
そして、彼女もまた、そんなことを求めている様子などなく、ゆっくりと前へと進み出ると、無言のまま、断ち切るようにその右腕を振るう。
鈴の音が、すべての残滓を蒸発させた。
「竜は、私が殺す。それが使命だ。君が、無理をすることはない。ただずっと……付いてきてくれればいい」
彼女は、足元に残されたブローチを眺めながら、まるで独り言のようにつぶやく。
右腕に煌く、黄金色の燐光。それは、にわかに吹きすさぶ風に乗って、ふとふわりとどこかへと飛んでいった。
「進むぞ。《蟹》は近い。このまま《足》どもを潰して、奴を《クアグミアラ》に釘付けにする。」
そう言って、彼女は踵を返すと、そのまま彼の背後に待機していた一台の輸送車に乗り込んだ。
荒々しいエンジン音が唸りを上げ、暗がりに沈んでいた世界に、真っ白なライトがぱっと一本の線を描いた。
彼は、見捨てられたブローチに、もう一度だけ密やかな視線を送る。
土は、わずかに濡れていた。このまま雨が降れば、《彼》が残した唯一の「証」は、きっとその黒い泥の下に沈んでしまうだろう。二度と浮き上がることはない。《彼》という「人間」の痕跡は、永遠にこの宇宙から失われる。
けれども、竜の犠牲者とは、もとよりそういうものだ。
そしてそれは、死者だけの話ではない。
彼は、自らの意思でレギオンになった。人類を救うため、竜を倒すため――そして《彼女》を守るため――自らの身を、自らの手で、その真っ黒な泥の下に沈めた。そうするしか、その先に未来など無かったのだ。
過去は戻らない。ゆえに、残されたそれを、救うこともまたできない。
薄汚れた写真が、捨てたはずの懐かしい過去を思い起こさせる。
しかし、それを最後に、再び立ち上がった彼は、ガトリング砲を背負い直すと、一息とともに背を向ける。
星の竜――《蟹》
決して、許さない。
彼の目には、さっきまでとは正反対の、燃え上がるような激しい憤怒の色が浮かんでいた。
「お待たせしました、《ファースト・ワン》。もう大丈夫です、先に進みましょう」
彼の言葉に、彼女は小さく頷いた。
背後で、ふといくつかの光がちらつく。戦いの光だ。彼は、輸送車に身を忍び込ませながら、これから始まる困難に思いを馳せる。
《蟹》は強大だ。たとえ《彼女》といえど、それを相手にするのは遥かに危険な賭けになるだろう。
そう、これは「賭け」。《王国》が、ある一人の男の妄言を信じた末の、あまりにも残酷な賭け。
あなたは、決して許さない。
彼は、その背に冷たい椅子の感触を感じながら、静かに両の手を握り締める。
彼らを乗せた車が、土をこする感触とともにゆっくりと前へと進み、それとともに、向かいの窓に映る遠雷のような光が、どこか胸をざわつかせる音を伴って彼の耳に届く。
「……《ファースト・ワン》」
彼は言った。
彼女が、振り向く。
「無茶は、しないでください。俺は、そのためにいます。あなたは一人……そう、ただ一人の、《好例》なのですから」
その言葉は、どこか不器用に車内に響いた。
彼女が、声もなくうつむく。
「……ああ」
その声は、がたがたと揺れる車輪の中に、染み入るように溶けて消えた。
かくして、《王国》の外征時代、その一つの転機となる作戦は幕を開けた。
星の竜《蟹》――。人類そのものをその《足》に、地上に死者の国を築き上げたその竜は、今、《クアグミアラ》の泥沼へと追い詰められている。逃げることは、できない。少なくとも、《彼女》を殺さない限りは。
これは、人類が行う最初の大竜殺し。そして、後に《好例》と呼ばれることになる力の、最初の実験。
怖くないはずがない。彼は、彼女が強がるときの癖を、よく理解していた。
「おまえは、盾だ。その子を守る盾、身代わりだ。それをよく、覚えておくことだ。命を惜しむな、彼女を守れ。お前には何もできない。お前には何の価値もない。だが、ゆえにお前は使えるというものだ」
頭に響く、父の声。
彼は、その老いた嘲りの声を思い起こしながら、けれども、まるで自らに言い聞かせるように、冷え切った車の中、静かにその一言を誓うのであった。
俺は、生きます。きっと、《あなた》と一緒に――。
これは、古い物語。
何も知らない彼が、その日、一人胸の中にしまいこんだ、知られざる記録。
だが、それは今もなお色褪せることはない。たとえ彼が変わろうとも、たとえ彼女の道が途切れようとも――そして、そのすべてが呪いと成り果てようとも。
そのくらい、レギオンの体は、人の心を宿すにはあまりにも冷たすぎたのだ。