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ニュクスの星にて  作者: 御御
外伝【ダーガーズ・レコード】
1/39

レコードⅠ ある精神異常者の告白

 それはあまりに美しく、恐ろしかった。

 時代が時代なら、私はきっと頭を垂れ、運命に身を任せていただろう。


 《星の竜》――。


 最初にそう呼んだのは、一体誰だっただろうか。

 それは途方もなく巨大で、神秘に満ち、水面のような蒼い輝きに包まれていた。

 直立した爬虫類のような痩せた胴体からは、一本のしなりのある白い尾が伸び、その背には蜉蝣に似た半透明の、一際美しい一対の翼があった。そして、翼の先からは鱗粉と思われる夜空色の物質が、まるで粉雪のように地上にそそがれていた。

 幸い、私はそれの近くにいなかったから、その周りがどんな惨状になっているのかを見ずに済んだ。どころか、それが佇んでいる場所に何があったのかさえ、私は思い至らなかった。

 痴れていたのだろう。あんなものを見て、正気でいられる人間なんていない。


 「何してる!? 逃げろ!」


 固まっていた私の腕を、誰かが引いた。

 狂乱の中で、それはすぐに離れてしまったが、そのことで私ははっと我に返った。

 それからは、ただ流されるように人波の中を駆けていった。途中、ふと背後を振り返った時、それは右足をゆっくりと持ち上げ、私たちに向かって歩き出す最中であった。

 そこで、私は見たのだ。

 深い思慮を思わせる傾いた長い首、その頂にたたえる一つの赤い光が、不気味なほど穏やかに私を見下ろしているのを――。


 それから、私は各地の避難所を転々とした。

 だが、どこへ逃げても、私はあの《竜》に追われ続けた。もはや清潔な衣服をまとうことさえままならず、サイレンの音とともに、荷物をまとめて逃げ出すだけの生活が、一週間近く続いた。

 ニュースは、連日《星の竜》と呼ばれる怪物の話題で溢れかえっていた。どこでタガが外れたのか、彼らは、それに捕まったらどうなるのか、()()の映像を壊れたように流し続けた。

 きっと、あれらは地球上のどんな進化体系にも分類し得ない、外来種アウトサイダーだ。

 時々のぞく口内は一本の歯も無く、呼吸をしている動きも、生物らしい情動の色も無い。はじめは見えなかった両足は、実は《山羊》の蹄のような形をしていて、下腹部からは、海月クラゲのような半透明の触手が無数に伸びている。

 そして、触手はそれ単体で生きているかのように、近くにいた人々へと襲いかかり、捕らえ、そして握りつぶすのだ。

 食欲だとか、防衛本能だとかの気配は欠片もなく、ただ淡々と作業的に殺戮してゆく。翼からこぼれた鱗粉は、風に乗ってどこまでも飛び、その身に触れた人々を、まるで水死体のような膨れた肉塊へと変貌させる。

 その行動に、一体なんの意味があるというのか。私は呆然としたまま、画面を見つめるしかない。

 ついに狂乱したカメラマンが、記者を押しのけて突っ込んでいった。


 ああ、もちろん死んだとも。


 けれど、今さらそんなことを気にする者はいなかった。

 皆、自分たちが生きるので手一杯だったのだ。

 特に、水不足は何より深刻だった。「毒」を含んだ宇宙そらよりの雨が、水源のことごとくを汚染したからだ。いまや私たちが使える水は、飲み水としてさえほとんど残っていなかった。

 政府の助けは、まだ来ない。もちろん、神も。

 避難所から、徐々に脱走者が出始めた。絶望が、人々を()()に駆り立てる。静かに仲間に向けられる背中、遠くで拳銃の音がした。


 なべて運命みらいに幸あれ!


 これからは、損なえばきっと死に方さえ選べなくなるだろう。ならば、選べるうちに、選ぶか。

 眠りながらそんなことを考える日が、何日か続いた。

 そして、それがやってきたのも、そんな()だった。


 グァ、グァ、グォ――。

 グァ、グァ、グォ――。

 グァ、グァ、グォ――。


 耳を震わせる異様な声に、私は本能的に目を覚ました。

 雨後の森で聞こえるような、輪唱を伴った独特ざわめきが、避難所の外で無数に響いている。


 グァ、グァ、グォ――。

 グァ、グァ、グォ――。

 グァ、グァ、グォ――。

 まるでヒキガエルのような――。


 瞬間、怖気が走る。

 全身が、外にいる存在について警告を発していた。

 私は思い出す。あれからの()の静けさを。

 あの雨は、人間のみならず、すべての生命に対して毒となる。すでに、野外生物はほとんど死に絶え、終わらない夜に鳴くものなど一匹たりとも居はしない。居るはずがない。

 では、外から聞こえる鳴き声は何だというのか?

 ふっと、右目が捉える。電気の消えたホール、隣の顔さえ見えないような深い暗がりの向こうに、赤い光がちらついているのを――。


 「ああああああああああああっ!!!」


 突如として響き渡る絶叫。

 赤い光のすぐそばで、誰かが滅茶苦茶に暴れ回る音が鳴り響いたかと思うと――消えた。

 異変に気づき、人々が一斉に目を覚ます。

 そうして、ホールに灯りが点った時――


 ――それは決壊した。

 

 一瞬、爆ぜるような耳鳴りをはさんで、恐怖が天井を震わせる。

 あてもなくのたうち、這い回り、踏みしだく音が、濁流のように広がってゆく。

 そいつらは、そんな様子を冷たく眺めていた。

 頂に輝く、血のように真っ赤な一つの目。肥満した胴体に、それをひと巻きもする長い尾が絡みつき、だらりと垂れた両腕とかがんだ両足はあの《山羊》に似ていた。

 真っ赤に濡れた尾が、天井へと振り上げられる。そいつの背後、避難所の玄関の向こうに、無数の赤い群れが揺れているのが見えた。

 そして、絞ったタオルのようなぐちゃぐちゃの死体が落ちた瞬間、そいつらの狩りは始まった。

 そこからは、私はもうほとんど覚えていない。

 無数の跳ねる音が響く中、私はとにかく逃げて逃げて逃げまくった。窓が割れ、隣で骨が砕かれる音が聞こえても、頭には入らなかった。この先は森だ。森に入れば、逃げ切れる。体は、すべて本能が支配していた。

 そうして、一体どれだけ逃げ続けただろう。痛みに気づいて、たまらず足を止める。見れば、裸足の両足が、壊疽したように膿み、黒ずんでいた。

 思わず、笑みがこぼれる。それもそうだ。あの雨に濡れた大地を、靴さえ履かずに走ってくればこうもなる。足元から、じわじわと何かが上ってくる感覚がして、私はその場に倒れこんだ。

 意識が、急速に遠のいてゆく。痛みは、いつかそれさえも無い冷たさへと変わり、体から大地の感触が失われ始める。


 死ぬのだろうか?


 恐ろしい、けれどとても静かな感覚だった。恐怖はあっても、心は不思議と落ち着いている。嗚咽も、嘆く声も、聞こえない。何か解き放たれたような心持ちに、なぜか、こんな終わりなら悪くない、と思えた。

 ゆっくりと、目を閉じる。どこまでも広がる闇、心臓の鼓動だけが聞こえるその中で、私はついに自らを手放す。

 放り捨てられた彼方、水平線の向こうに、渦を巻く大いなる魂のうねりが見えた。美しき《竜》たちがその周りで踊り、闇の無い輝ける原初の宇宙うみが私の前に現れたのだ。


 《精霊》よ――!


 私は祈る。どうか、この魂をその()()()のさざ波に還してください、と。

 しかし――それは叶わなかった。耳障りなだみ声、穢れ無き大渦に起こった一つの()()によって、すべてが破られてしまったからだ。

 黄金に呪いあれ! 我らの燃えかすの宇宙、そのすべての闇に滅びあれ! 私は選ばれた。選ばれたのだ! 離せ、私に薬など効かないぞ! 《精霊》は我が魂にあり! 真理を知らぬ、消えゆくものどものはかりごとに、私は利用などされぬ!

 歌えよ歌え我らが歌を、波立てる水かきより生ずる永劫なる歌を! そして殺せ、忌まわしき裏切り者、《瞳》を持つ水かきの女を! 殺せ、戮せ、返せ、還せ、帰せ、かえせ、カエセ――!

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