レコードⅠ ある精神異常者の告白
それはあまりに美しく、恐ろしかった。
時代が時代なら、私はきっと頭を垂れ、運命に身を任せていただろう。
《星の竜》――。
最初にそう呼んだのは、一体誰だっただろうか。
それは途方もなく巨大で、神秘に満ち、水面のような蒼い輝きに包まれていた。
直立した爬虫類のような痩せた胴体からは、一本のしなりのある白い尾が伸び、その背には蜉蝣に似た半透明の、一際美しい一対の翼があった。そして、翼の先からは鱗粉と思われる夜空色の物質が、まるで粉雪のように地上にそそがれていた。
幸い、私はそれの近くにいなかったから、その周りがどんな惨状になっているのかを見ずに済んだ。どころか、それが佇んでいる場所に何があったのかさえ、私は思い至らなかった。
痴れていたのだろう。あんなものを見て、正気でいられる人間なんていない。
「何してる!? 逃げろ!」
固まっていた私の腕を、誰かが引いた。
狂乱の中で、それはすぐに離れてしまったが、そのことで私ははっと我に返った。
それからは、ただ流されるように人波の中を駆けていった。途中、ふと背後を振り返った時、それは右足をゆっくりと持ち上げ、私たちに向かって歩き出す最中であった。
そこで、私は見たのだ。
深い思慮を思わせる傾いた長い首、その頂にたたえる一つの赤い光が、不気味なほど穏やかに私を見下ろしているのを――。
それから、私は各地の避難所を転々とした。
だが、どこへ逃げても、私はあの《竜》に追われ続けた。もはや清潔な衣服をまとうことさえままならず、サイレンの音とともに、荷物をまとめて逃げ出すだけの生活が、一週間近く続いた。
ニュースは、連日《星の竜》と呼ばれる怪物の話題で溢れかえっていた。どこでタガが外れたのか、彼らは、それに捕まったらどうなるのか、ナマの映像を壊れたように流し続けた。
きっと、あれらは地球上のどんな進化体系にも分類し得ない、外来種だ。
時々のぞく口内は一本の歯も無く、呼吸をしている動きも、生物らしい情動の色も無い。はじめは見えなかった両足は、実は《山羊》の蹄のような形をしていて、下腹部からは、海月のような半透明の触手が無数に伸びている。
そして、触手はそれ単体で生きているかのように、近くにいた人々へと襲いかかり、捕らえ、そして握りつぶすのだ。
食欲だとか、防衛本能だとかの気配は欠片もなく、ただ淡々と作業的に殺戮してゆく。翼からこぼれた鱗粉は、風に乗ってどこまでも飛び、その身に触れた人々を、まるで水死体のような膨れた肉塊へと変貌させる。
その行動に、一体なんの意味があるというのか。私は呆然としたまま、画面を見つめるしかない。
ついに狂乱したカメラマンが、記者を押しのけて突っ込んでいった。
ああ、もちろん死んだとも。
けれど、今さらそんなことを気にする者はいなかった。
皆、自分たちが生きるので手一杯だったのだ。
特に、水不足は何より深刻だった。「毒」を含んだ宇宙よりの雨が、水源のことごとくを汚染したからだ。いまや私たちが使える水は、飲み水としてさえほとんど残っていなかった。
政府の助けは、まだ来ない。もちろん、神も。
避難所から、徐々に脱走者が出始めた。絶望が、人々を自助に駆り立てる。静かに仲間に向けられる背中、遠くで拳銃の音がした。
なべて逝く運命に幸あれ!
これからは、損なえばきっと死に方さえ選べなくなるだろう。ならば、選べるうちに、選ぶか。
眠りながらそんなことを考える日が、何日か続いた。
そして、それがやってきたのも、そんな夜だった。
グァ、グァ、グォ――。
グァ、グァ、グォ――。
グァ、グァ、グォ――。
耳を震わせる異様な声に、私は本能的に目を覚ました。
雨後の森で聞こえるような、輪唱を伴った独特ざわめきが、避難所の外で無数に響いている。
グァ、グァ、グォ――。
グァ、グァ、グォ――。
グァ、グァ、グォ――。
まるでヒキガエルのような――。
瞬間、怖気が走る。
全身が、外にいる存在について警告を発していた。
私は思い出す。あれからの夜の静けさを。
あの雨は、人間のみならず、すべての生命に対して毒となる。すでに、野外生物はほとんど死に絶え、終わらない夜に鳴くものなど一匹たりとも居はしない。居るはずがない。
では、外から聞こえる鳴き声は何だというのか?
ふっと、右目が捉える。電気の消えたホール、隣の顔さえ見えないような深い暗がりの向こうに、赤い光がちらついているのを――。
「ああああああああああああっ!!!」
突如として響き渡る絶叫。
赤い光のすぐそばで、誰かが滅茶苦茶に暴れ回る音が鳴り響いたかと思うと――消えた。
異変に気づき、人々が一斉に目を覚ます。
そうして、ホールに灯りが点った時――
――それは決壊した。
一瞬、爆ぜるような耳鳴りをはさんで、恐怖が天井を震わせる。
あてもなくのたうち、這い回り、踏みしだく音が、濁流のように広がってゆく。
そいつらは、そんな様子を冷たく眺めていた。
頂に輝く、血のように真っ赤な一つの目。肥満した胴体に、それをひと巻きもする長い尾が絡みつき、だらりと垂れた両腕とかがんだ両足はあの《山羊》に似ていた。
真っ赤に濡れた尾が、天井へと振り上げられる。そいつの背後、避難所の玄関の向こうに、無数の赤い群れが揺れているのが見えた。
そして、絞ったタオルのようなぐちゃぐちゃの死体が落ちた瞬間、そいつらの狩りは始まった。
そこからは、私はもうほとんど覚えていない。
無数の跳ねる音が響く中、私はとにかく逃げて逃げて逃げまくった。窓が割れ、隣で骨が砕かれる音が聞こえても、頭には入らなかった。この先は森だ。森に入れば、逃げ切れる。体は、すべて本能が支配していた。
そうして、一体どれだけ逃げ続けただろう。痛みに気づいて、たまらず足を止める。見れば、裸足の両足が、壊疽したように膿み、黒ずんでいた。
思わず、笑みがこぼれる。それもそうだ。あの雨に濡れた大地を、靴さえ履かずに走ってくればこうもなる。足元から、じわじわと何かが上ってくる感覚がして、私はその場に倒れこんだ。
意識が、急速に遠のいてゆく。痛みは、いつかそれさえも無い冷たさへと変わり、体から大地の感触が失われ始める。
死ぬのだろうか?
恐ろしい、けれどとても静かな感覚だった。恐怖はあっても、心は不思議と落ち着いている。嗚咽も、嘆く声も、聞こえない。何か解き放たれたような心持ちに、なぜか、こんな終わりなら悪くない、と思えた。
ゆっくりと、目を閉じる。どこまでも広がる闇、心臓の鼓動だけが聞こえるその中で、私はついに自らを手放す。
放り捨てられた彼方、水平線の向こうに、渦を巻く大いなる魂のうねりが見えた。美しき《竜》たちがその周りで踊り、闇の無い輝ける原初の宇宙が私の前に現れたのだ。
《精霊》よ――!
私は祈る。どうか、この魂をその水かきのさざ波に還してください、と。
しかし――それは叶わなかった。耳障りなだみ声、穢れ無き大渦に起こった一つの爆発によって、すべてが破られてしまったからだ。
黄金に呪いあれ! 我らの燃えかすの宇宙、そのすべての闇に滅びあれ! 私は選ばれた。選ばれたのだ! 離せ、私に薬など効かないぞ! 《精霊》は我が魂にあり! 真理を知らぬ、消えゆくものどもの謀に、私は利用などされぬ!
歌えよ歌え我らが歌を、波立てる水かきより生ずる永劫なる歌を! そして殺せ、忌まわしき裏切り者、《瞳》を持つ水かきの女を! 殺せ、戮せ、返せ、還せ、帰せ、かえせ、カエセ――!