〈1〉
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僕は橋を渡っていた。死にたくなるほど晴れ渡った空が、水平線から地平線まで続いていた。雲は一つもない。こんな日は案外自殺が多い。理由は知らない。向こう岸から、犬を連れた女が歩いてくるのが見える。美しい女だ。川から吹き寄せる強い風に髪をなびかせながら、女は橋の上をリズムよく歩いている。
「やあ、マリリンかい?」と僕は、女と擦れ違いざまに声をかけた。
すると女は立ち止まって横顔を見せた。まるで19世紀の貴婦人のように、軽く口元を手で隠しながら笑った。
「クスクス…、やっぱりわかったのね」
マリリンはカツラとサングラスで変装していたのだ。サングラスを外した彼女のまぶたは、まるで一晩中泣いたあとのように少しむくんで見えた。
「いつもながら素敵な変装だね」と僕は彼女を褒めた。
「フフ…、まぶたの整形手術をやったばかりなの」と彼女は言った。「死ぬほど退屈だったから」
それにしても彼女の連れている犬は、なんて醜いのだろう。まるで不器用な神様が目隠ししながら作ったらこんな感じになってしまったというような、失敗作の見本のような犬じゃないか…。
ふいに犬は、ブブーとおならをした!
「グロリアったら、はしたないわねえ!」と彼女は犬を叱った。
すると犬は、ブブブーとおならで返事をした…。
「これから、お茶でも…」と僕が言いかけたとき、突然マリリンの携帯が鳴った。着メロは、そっけないパリのウェイトレスをなんとか振り向かせようとするパリ男のせつない恋心を歌った1930年代の古いシャンソンの曲だった。
「ピッ、…ハイ、もしもし?………そうよ………トビゲラ?………時間が欲しいの…」
彼女は携帯を切り、酔っ払った教師が引いた白墨の線のように、だらしなく青空に伸びるヒコーキ雲を仰ぎ見た。
「ねえ、暇ならちょっと付き合ってくれない?」と彼女は、僕の目をじっと見つめながら言った。
彼女の深緑色の瞳を眺めていると、なぜか子供の頃に海で溺れそうになったときの記憶が蘇ってきた…。
「そんなに見つめないでくれよ」と僕は彼女に言った。「頭がくらくらするんだ…。ところで、トビゲラって何だい?」