上は大火事、下も大火事、な~んだ?
チェスター・ヴィルは、燃え盛る呪装墓域の中を駆けていた。
空も、地上も、全てが炎に包まれていた。
世界が赤い。
走れども、走れども、炎の外へは出られない。
風が、熱い。空気そのものが炎になってしまったかのように。
空気を求めて息を吸うたび、肺が容赦なく焦がされていく。
「……こんなはずでは」
きらびやかだった黒い軍服は焼けてぼろぼろに、勲章はいつの間にかどこかへ消えてしまった。
惨めだった。こんなはずではなかった。
誰よりも強い自分なら、うまくやれるはずだった。
今度こそ、ミィモ・ミルナスに認められるはずだった。
――君はまだ子供だね。本当の強さを知らない。
もう、あんなことを言われなくて済むはずだった。
それなのに、チェスターの自信は……あっさりと打ち砕かれた。
「……なんなんだ、あれは」
空が――燃えている。
揺らめく炎が、薄膜のように空一面を覆い尽くす。
その中心から生えているのは、巨大な火球。
世界の終わりとは、まさにこのような光景なのだろう。
「は、はは……」
おおよそ、一つの装備が引き起こせる現象とは思えない
まるで、神の御業だ。
驕り高ぶった人間への――神罰
チェスターは生まれて初めて、呪いの装備に恐怖した。
呪いの装備といっても、彼が今まで見てきたのは低ランクのものばかりだった。取るに足らぬものばかり。それを恐れていた審問官や市民を、大いに鼻で笑っていたものだ。
しかし、今わかった。
呪いの装備の――力を。
「これは罰なのか……」
呪いに救いを求めた、自分への。
こんなものを求めていたわけではなかったのに。
頭が熱で浮かされ、意識が朦朧としていく。
目眩がひどい。視界が揺らめく。
だから、一瞬――それは幻覚なのだと思った。
「……竜?」
辺りに影がさし、上空から竜が舞い降りた。
純白にきらめく竜だった。
天からの使いのような、清らかで侵しがたい聖性。
力の象徴としての巨大な体躯。空の覇者としての風格。
そして――そんな圧倒的存在の上に、一つの人影があった。
揺らめく火影のような黒衣。顔にはトレードマークのような青水晶の仮面。
その人影は、白竜の背から飛び降ると、こちらへ歩み寄ってきた。
「……略奪者か」
咳き込みながら、乾いた声を漏らす。
「チェスター・ヴィルだね?」
「……ぐっ!」
略奪者に胸ぐらをつかまれる。
抵抗しようとしたが、予想以上に強い力だった。
「……なんの用だ?」
「リッカ先輩をどうした」
声が氷のように冷たい。こんな熱気の中にあっても寒気を覚えるほどに。
「リッカ・ヴァレットのことか」
「そうだ」
「さあな。今頃、消し炭にでもなってるんじゃないか?」
「……呪いの装備をつけたのか?」
「さあ、どうだろうな」
「……そうか」
もう用済みとばかりに、突き飛ばされた。
チェスターはたたらを踏んで、尻もちをつく。
見上げると、一瞬だけ仮面の奥にある瞳と――目が合った。
ひどく冷めた目だった。
興味さえ、持たれていない。
かつて、ミィモ・ミルナスから向けられた目と同じ……。
「そんな目で、俺を見るな……!」
後生大事に持っていた剣を抜く。
金と権力を駆使して手に入れた一品。
チェスターの強さを証明するものだ。
だから、いくら重くても、けっして手放さなかった。
「は、はは……この剣のランクがわかるか? Aランクだ! 世界最高のランクだ! 俺は世界で一番強いんだ!」
かつて、この剣を見た略奪者は、恐れをなして逃げた。
だから剣を誇示してやれば醜態をさらすだろう、と踏んだのだが。
略奪者に反応はない。
突きつければ、誰もが怯えて言いなりになるはずなのに。
略奪者は、剣をただ一瞥だけして。
無言でチェスターに背を向けた。
無関心。それがチェスターの神経を逆撫でする。
「この俺を、無視するな……!」
チェスターが剣を振りかぶりながら、飛びかかった。
型もなにもない動きだが、素早さがBランクの靴装備で底上げされている。
チェスターの動きに反応できる者は少ないだろう。
そして、Aランクの剣の攻撃力があれば、ただかするだけでもチェスターの勝利は確定する。
この剣を使って、過去に数えきれないほどの〝呪い持ち〟を狩ってきたのだ。
略奪者の首に、最強の刃が迫る。
略奪者は避けない。
避けられない。まともに反応できてすらいない。
狩った! 一瞬、そう確信したが。
「……は?」
剣を振り下ろしても、略奪者には傷一つない。
それどころか、振り下ろしたはずの剣が――どこにもない。
わけがわからない。
遅れて――からん、と金属音がした。
音のしたほうを見ると、そこには見慣れた剣が……。
「……悪いけど」
気づけば、略奪者が剣を手にしていた。
いつ抜いたのかさえ、わからなかった。
「……あなたなんかに構ってる暇はないんだ」
略奪者は空いた左手を鞄に入れ――ぬっ、と。
鞄とは明らかにサイズの合わない長刀を取り出した。
そして、ゆっくりと抜刀する。
「あ……え……?」
その刀身を見た瞬間――死を、錯覚した。
臓器のように脈動する、赤黒い刀身。
刀にまとわりつく空気が、ぐにゃりと歪み。
血に飢えた鬼が咆哮するように、大気がびりびりと震える。
……次元が、違いすぎる。
あの刀は、おそらく……今しがた、空を燃やした呪いの装備と同質のもの。
「…………」
略奪者は刀を逆手に持ち、切っ先を地面に向けた。
そして――とんっ、と。
静かに、切っ先を地面に刺す。
ただ、それだけで――大地がひっくり返った。
周囲一帯の地面が勢いよく爆ぜ、衝撃波が炎を消し飛ばす。
チェスターの体が吹き飛ばされる。木の葉のようにあっさりと。
「……っ」
体勢を整えて、顔を上げると――周囲の地形が変わっていた。
周囲にあった武具の残骸も消え去り、荒野の中にぽっかりと巨大な穴。
穴の中心には、先ほどと同じように略奪者だけが立っている。
彼が何事もなかったかのように、ちん、と刀を鞘に収めると。
「……か、はっ」
ようやく、呼吸ができるようになった。
それで、今まで息をするのを忘れていたことに気づいた。
おそらく数秒にも満たない出来事だったはずだ。
しかし、その全てが、理解の範疇を超えていた。
今の現象を例えるならば――天災。
その言葉が一番しっくり来る。
「……ば……化物」
あれは、もはや人間ではない。
人間の皮をかぶった天災……意思を持った天災だ。
上空の巨大火球なんかよりも――怖い。
「……あ……ああ……っ」
逃げたい。逃げたい。殺される。死ぬ。
涙があふれる。全身が震える。歯がかちかちと音を立てる。
しかし、体が動かない。言うことを聞かない。
体が勝手に、生きることを絶望してしまったかのように。
略奪者はそんなチェスターを、憐れむように一瞥すると。
「……弱いね、あなたは」
それだけ言い置いて、チェスターに背を向けた。
今度はもう振り返らなかった。
白竜に乗り込み、はるか高く、上空へと舞い上がる。
その姿は、瞬く間に小さくなって。
チェスターが空を仰いでも、もう見ることすら叶わなかった。
*
空も、大地も、燃えていた。
炎の竜巻がいくつも立ち上り、天からは雨のように火の粉が降り注ぐ。
そんな世界の終末みたいな光景を眺めながら、僕はこっそり奥歯を噛みしめる。
「やっぱり、リッカ先輩が呪いの装備を暴走させたのか……」
先ほどチェスターに問いただしたことで、最後の希望は閉ざされた。
リッカ先輩は今、この絶望的な光景の中心にいる。まだ羅針眼の針が機能しているということは、まだリッカ先輩が生きているということだけど……時間はない。
火球は刻一刻と街へと迫ってきているし、リッカ先輩もいつまで持つかわからない。
急がないといけないが、ここでさらに問題が発生した。
『……ひぃん……上も、下も……すごく、熱いですぅ……』
白竜の姿になっていたシルルの体力が尽きたのだ。
獣ト薔薇《ローズ&ビースト》という呪いの装備の力によって竜化することができるシルルだが、竜になっても運動神経やスタミナに関しては低いままらしい。
そのうえ、竜は巨体であるがゆえに体温調節が苦手だ。
寒さはもちろん、暑さも竜にとっては天敵。
体が熱暴走を起こせば、体が動かなくなるどころか命にも関わりかねない。そんなわけでドクターストップをかけざるをえなかった。
ただでなくても時間がないのに、シルルが飛べなくなってしまった。とりあえず、暴食鞄の中に収納していた大量の水をぶっかけて、シルルの体温を冷ますが。
「飛べそう?」
『いえ……』
「そっか、それじゃあ仕方ないね」
『は、はひ……すみません……』
シルルの回復を待っている余裕もない。
とすると、ここからは地上を進むしかないか。
僕は羅針眼の針が指すほうを見る。
地上は全て炎に閉ざされ、道なんてない。
炎と煙のせいで、その先になにがあるかすら見えない。
さらには、炎の竜巻が行く手を遮るように立ちはだかる。
『上は大火事、下も大火事、な~んだ?』
「……まさに今の状況かな」
空にも、地上にも、道はない。
活路はなく、死路しかない。
それでも、この炎の中にはリッカ先輩がいる。
この炎の中、きっと助けを待っている。
『行くの?』
「そうするしか、ないからね」
僕は深呼吸すると、暴食鞄に入っていた水を自分にもかけた。
水はすぐに蒸発して、湯気となる。
それでも多少は、体を冷ませた気がする。
「シルル、少しだけ待っててね」
『……帰ってきてくださいね』
「もちろん」
僕は、炎の前に立った。
熱気が壁のように立ちはだかる。
炎に対する、根源的な恐怖がわいてくる。
頭がこの先に進むことへ警鐘を鳴らす。
それでも。
「……行こう」
僕はスライムソードを握りしめ――炎の中へ突撃した。